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ジル・ボルト テイラー

僕ら作業療法士の世界においても、
利用者さんにリハビリを提供する際、
相手の身になって考える という感性は、
とても大事にしたいといつも感じています。

しかし、現場で働いていると、
これほど難しい問題
もないように思えてきます。
 
何故なら、
例えば僕は、脳梗塞で片麻痺になった経験がありませんので、
リハビリをする際に、
どうしても利用者さんとの間に、大きな距離を感じてしまうことが
ほぼ毎日のようにあるからです。

それは、 『距離』 というよりも、 『』 といったほうが近い間隔かもしれません。
 
加えて、当然僕は毎日の治療の対象者と同じような、
80歳や90歳の年齢に達したこともありません。

真に解るとは、経験することだ ということも、
また事実なのだと、素直に反省すれば、

人生経験の浅い僕にとってこれは、
一作業療法士として前に進むための、大きな課題でもあり、
根源的な問いでもあるのです。


下の動画は、インディアナ医科大学の神経解剖学者 
Jill Bolte Taylor(ジル・ボルト テイラー)博士の講演の様子です。

彼女は、37歳の時に脳梗塞に襲われ、
左脳の機能がほとんど失われた状態から、
8年間のリハビリを経て、社会復帰しました。

その時の彼女自身の経験を伝える映像です。

興味のある方は、一度見てみて下さい。






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by hiro-ito55 | 2011-04-27 23:46 | 動画 | Comments(0)

親知らず (2本目)

 どうでもいい記事の2本目です。

 今日、また抜いてきました。 『2本目』 です。

 思った以上に痛みはないのですが、頬がボッコリと腫れてきました。
 昨日の記事 『生きる美意識その2』 なんてどうでもよくなるほど 『ボッコリ』 と。

 ボルタレンのお蔭で歯の痛みはそれほど感じないのですが、
何故か抜いた親知らずの横の 『舌の根元付近』 が切れていて、出血しているのです。
 唾や食べ物を飲み込むときに針で突かれているように痛みます。

 ちなみに、今日も夕食は前回同様、パスタとサンドウィッチでした。
 歯と嚥下に優しいので。


 抜歯するのに掛かった時間は3~4分ぐらいで、
またしても 『おおおっ』 と思い、『終わりましたか(喜び)』 と、
嬉しさのあまり (多分、したり顔で) 先生に話しかけようと横を向きましたが、
先生は椅子に腰かけて、腕組みをしながらしばし考え込む。

 多分、5~6秒静止していたと思います。

 一瞬、 『失敗か?』 とため口をききたくなる程の沈黙の後、先生は 
『張れと痛みはそんなに大したことないと思うけど、明日か明後日に消毒しに来て下さい。』

と、マスクの上からも分かるほど満面の笑顔で仰られ、
すかさず抜いた親知らずの歯石をゴリゴリ削りながら、 

『この真っ黒いの、実は歯石なんだよねぇ。炭みたいでしょ。ほら。これをほっといたら、歯周病になるんだよ。』
などと一方的に喋って、助手の方と交替していかれました。


 いや、先生、もう 『腫れ始めて』 るんですけど。
 しかも、舌の根元スパッと切れてますよ....。沈黙したのはこれのことですよね?


 うう...。この記事を書いている間にも、どんどん腫れぼったくなってくるではないか。
 チクチク感もなんだか気になり出してきたよ。

 いっそのこと、ブログ名を 『親知らず奮闘記』 に変更しようかと、半ば本気で考え出しそうになりますが、4本抜いた時点でで完結してしまうので、ダメですね。

 そんなわけで、このまま書き続けるとどんどん気力が萎えてきそうなので、
最後はモネの絵なんかでっかく載せて、気持ちだけでも爽やかに終わりたいと思います。

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                     (モネ:日傘の女)

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by hiro-ito55 | 2011-04-26 21:34 | 日常あれこれ | Comments(0)

生きる美意識 (その2)

芸術家というものは、
一瞬で消えてしまう何かを、永遠の何かに置き換えようと試みる人
であると思います。

例えば詩人であれば、その方法として用いるのは言葉であるし、
音楽家であれば音楽
画家であれば絵画であるといったように、

それぞれが直覚する最適の手段を用いて、
現実を永遠の何かに 『昇華』 しようとする。

彼らは何も自分の使役する方法を用いて、
自己主張を試みるのではない。

そうではなく、優れた芸術家というものは、
今それを、自分の直覚する最適な手段を用いて留めて置かなければ、
それは一瞬で消えてしまうのだという観念に囚われて、仕事をするのです。
 

例えば、花の魅力に魅せられて、花を描きつづけている画家がいる。

ある人から教わったことなのですが、
僕らの遥か前方に紫色の何かがあったとして、
その紫色の何かが何であるか分からない裡は、
僕らはそれを一所懸命に凝視し、興味を惹かれる、

そういうものであるが、

段々と近づいていくにつれ、
その何かが実はスミレの花であると判ったとき、
一瞬にして興味を無くしてしまい、
見るのを止めてしまうということは、よくある事実なのです。
 
しかし、芸術家というものは、
例えそれがスミレであると判ったところで、けして見るのを止めない。
 

何故、見るのを止めないのかといえば、 
いくら見ても見足りないから』 
なのです。
 

これは、僕らの領域で言えば、自閉症の子がひとつのものに拘る、
反復的常同的行動様式(こだわり)に似ているでしょうか。

ひとつのものに拘り続ける彼らの行為の動機は、
ものが自分の知覚に鋭く迫る
という感覚の受容である筈でしょう。

その感覚が、常人よりも少しだけ深いものであるが故に、
ものの方が自分を捕えて離さなくなる。

ものの方から捕えてくるのですから、受け手の自分は、
その行為の段階において、ただ 『反復的』 に成らざるを得ない。

このように、自分ではなく、
ものの方から迫ってくる知覚というものを想像すれば、
自閉症の子が示す 『拘り』 も、 
『僕ら人間の持つ知覚の方法である』 と気づくと思います。

ただ、自閉症の子は、
この知覚の在り方を、上手く日常に昇華させることができない。

そこに彼らの 『苦しみ』 はあります。

そして、芸術家の 『見足りない』 という 『渇き』 もまた、
たった一輪の花にさえ、
僕らの知覚に鋭く迫るものが存在するという 『Real』 を、
直覚しているということであり、
それを繰り返し見定めようとする

そういう行為なのです。

それは恐らく、ひどく苦しみを伴う行為なのでしょう。

古今優れた芸術家というものが、
とかく精神のバランスを崩しがちであることが、
その苦しみの大きさを物語っているように思われます。



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                     (ゴッホ:ひまわり)


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by hiro-ito55 | 2011-04-25 22:02 | 美意識 | Comments(0)

生きる美意識 (その1)

 今年の1月5日付のブログ記事 『美しい花』 の中で、小林秀雄の 
美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。』 
という言葉を紹介しましたが、
今回から少しだけ、 『美意識』 について考えるところを、述べていきたいと思います。


まず、ここで言う 『美意識』 とは、通常僕らが言う 『美意識』 のことであり、
なにか特別な感性を必要とするような意識のことではありません。 

例えば、美術館や映画館などでもいい、そういう所に出かけていって、
絵画やら彫刻やら陶芸といった芸術作品に触れたとします。

そこで、興味のあるものに出会えたとき、それを目撃したとき、
僕らはそれを 『美しい』 と感じる。

そのような精神の反応にしばし心を奪われる瞬間というものが、
僕らの人生には誰しも必ず訪れる経験です。


しかし、小林が言うように、
心が奪われる、その感慨に基づく経験というものを、
日常生活に持ち帰り、自分の生活感に密着させる者は本当に少ない。

美に触れて経験する現実も、確かに現実であるのですが、
その現実を日常の生活に溶け込むような意識へと照らし合わせていく、
そのような 『反省』 を、全く欠いているのです。

つまり、美術館や映画館などで出会った 『美という現実』 を、
何か日常と切り離したところに置いて体験することで、
現実感のない何か特別な経験として、
美意識は扱われがちであります。

これは、何も美術館や映画館といった
舞台装置を必要とする場合ばかりでもなく、

例えば、 『自然の美しさ』 に言葉を無くすときも、 
『まるで夢のような景色だ』 と思わず感嘆するのは、
僕らの尋常な心の動きでもある筈です。

少し考えてみれば、このような景色に出会ったとき、
これを 『非現実な姿』 として、一瞬の感動として閉じ込めておくというのは、
実は、極めて不自然なことでありはしないでしょうか。

というのも、 『まるで夢のよう』 という感嘆の言葉を述べるとき、
又は、それと似たような感慨に襲われるとき、

僕らは 『あたかも夢のようである』 という感慨を確かに持っているのであって、
そのことは 『夢ではない』 という、 
『現実』 を直視して現れる、心の動きというものに囚われていることを、
自ら認めている筈なのです。

それは何も特別な経験でも、夢の中での経験でもなく、
ごく尋常な現実として、美意識というものが存在していると、
僕らは自ら認めている何よりの証拠
でありはしないでしょうか。


言葉というものがあって、心があるのではない。

物に触れて心が動き、その心の動きを見定めようとして、
言葉というものが発生するのです。


そうであるならば、美しいものに触れて、 『心が動かされた』 という事実を、
正確に捉えようとして発せられた言葉、

或いは、捉えようとして心の動きに向けられる 『反省』 を、
現実の反省として捉えるという意識は、
大変重要な意味を持つことになるのではないでしょうか。





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by hiro-ito55 | 2011-04-18 21:26 | 美意識 | Comments(0)

親知らず

 久しぶりの手抜き記事です。

今日、歯医者で親知らずを一本抜いてきました。

4~5日前から、しばらく大人しくしていた左下の奥歯が再び痛みだし、
そのまま市販の痛み止め薬を飲んで凌いできましたが、
ついに我慢の限界を超えました。

一昨日から食事を摂るのに1時間近くかかるわ、
昨夜は痛みのせいでほぼ一睡もできないわ、
食欲は減退するわの状態で仕事に行き、

空腹感と痛みによるあまりの険しい表情に、事務長に呼び止められ、
別室に案内されて 
『何かトラブルでもありました?』 
と本気で心配され、
日常生活に支障を来すようになったので、 
『こりゃいかんわ』 と思い、

今日抜いてもらいました。


歯医者では痛む方の、下の親知らずを抜くのかと思っていたのが、 
『上の歯が下の歯茎に当たって痛いから、上、抜きましょう』 
という理由で、上のを抜いてもらいました。
  
歯を抜くのは20数年ぶりで、
しかもその時の、
時間をかけながらじわりじわりと抜かれた嫌な記憶もあり 
(抜くときもかなり痛かった)、

今回も捏ねくりながら 『ゴリゴリ』 抜かれるのか
とドキドキでしたが、

結果は2~3分であっけなく終了。

おおおっ。

『わーい』 と喜びながら先生の話を聞いていると、 
『4本全部抜かなきゃ同じこと繰り返すよ。』と言われ、

更に 『下の抜歯は抜いた後が痛いよ。』 との言葉を聞き、
我に帰りました。

そう。20数年前の抜歯も、抜いた後が特に痛かった。
2日間ぐらいミカンの缶詰しか食べれず、
夜中に痛みのために何度も起きた記憶が。

あの時もきっと、凶悪な顔してたんだろうなぁ...(小学生だったけど)。

まだ少し歯が痛むので、晩飯はあまり噛まずに食べれるものをと、
今日はコンビニで買ってきたサンドウィッチと、
パスタを作って食べました。

数日前から、ご飯が 
『何でこんなに薄味なの』 と感じられたのは、
あまり咀嚼しないで食べていたからだと、

今日晩飯を食べながら気づきました。

来週は 『下の歯』 。
恐らく 『抜かれる』 。
そして多分、 『痛い』 。

今日、先生が言ってた 
『ほう、君は虫歯の心配はいらないね。一本もないよ。』 
という笑顔の褒め言葉も、
親知らずには関係ない。

そうだった。
僕は昔から身体的な痛みに対しては極端に弱いんだった。

深爪しただけでも丸一日はブルーになるぐらい、
痛みに対してはまるで 『ダメ』 だったんだ。

うう。なんてビビりなんだ(T _T;)





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by hiro-ito55 | 2011-04-13 21:11 | 日常あれこれ | Comments(0)

『Truth と Reality』 (後半)

自分の抱える諸問題に対して、
何か上手い 『方向性』 を持たせるために、
それを把握し、

自分の抱えるChaosを 『ある秩序へと導く』 ために、
宗教というものは存在すると思うのですが、

そのために、経験を伴わずあれこれと考えることは、
前回の話でいうところの 『毒矢の本質』 について、
色々と思い巡らすことと同じである筈です。

喫緊なのは、そのようなことではなく、
つまり、『苦痛を緩和』 し、『命が助かること』 である筈で、

そのためには、毒矢をいち早く抜かなければならない


そのように気付けば助かるかもしれないのに、
それを忘れて毒矢の性質について、
あれこれと考えるのは、愚かなことでしょう。

もっといえば、
大切なのは毒矢の性質といった真理 (Truth) を頼りにして、
それに基づいて現実生活を限定するのではなく、

助かるために毒矢を抜くという行為、
つまり、自身の実際上の経験を研ぎ澄ませ、 
『それはかくの如く在る』 という真如感 (Reality) を
得ることでありましょう。

 
しかし、『かくの如く在る』 と観ずるには、
真理 (Truth) 在りきで真如感 (Reality) を分けてみることは、

そんなことは当然無意味であるとは、
鋭く自覚しなければならぬことです。

また、真理 (Truth) も真如 (Reality) も、
互いに自足的な在り方で存在するものでもなく、

ましてや互いに独立平行して存在するものでもないのであって、

それを自己にて統一していく在り方、
つまり、 
見ると感ずる、或いは思考と経験がひとつである』 
という在り方しかないのです。


現代人の多くが勘違いをしていることかもしれませんが、 
知る』 ということは、
単に頭の中で知るということではなく、
圧倒的なRealityを持って現前する』 ということであって、

そのような経験が、 『本当に知る』 という行為なのです。

それは突き詰めれば、 
全的な経験』 というものが、 『』 であるということになるのでしょう。

それは、真理 (Truth) についてあれこれと説く、空々しいものではなく、
自分の身に染み入って肉と化す、真如 (Reality) を重ねる道であり、

現実と響き合う、絶対的な一体感であるとも言えるのです。

 
そう考えれば、それは、万人に一般化できるような、
そんな観念的なものではないことが分かるでしょう。

かといって、個人の自己満足に類するような、
我を立てて自足的に待たされるようなものでもないことは、
自ずと分かることでしょう。

これは、観ずる者の経験を離れられない性質のもの、
或いは個々が各々において経験して、観ずるしかないもの、
としか言いようのないものです。

それを、そのような観を得られない宗教は、
僕にとっては 『単なる哲学的観念論』 であるのです。

ならば、それはいくら説いてみたところで、
虚実の入り混じったChaosにすぎないのです。




そういえば、十数年前に地下鉄でテロを起こした新興宗教に、
1980年代には所謂、『理系のインテリ』 と呼ばれる若者が、
数多く入信したことは、僕らの記憶に残るところです。

世間的に頭の良いとされている者達が、
何故あのような新興宗教に入信していったのか、
不思議であるとは、よく耳にした台詞でしたが、

何ら不思議ではないのかもしれません。

科学的に思考するという毒矢は、
宗教に対する免疫も低下させてしまうものなのか。

真理 (Truth) と真如感 (Reality) の見分けがつかないとは、
想像以上に恐ろしいことなのかもしれません。






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by hiro-ito55 | 2011-04-08 18:39 | 哲学・考え方 | Comments(0)

『Truth と Reality』 (前半)

僕自身、個人的には以前から宗教というものは、
個人的に行うものだという考えを持っていました。

それは今でも変わらないのですが、
僕の大学時代の友人に、
ある新興宗教に入信している人がいました。

大学の講義内容で、よく分からないところがあると、
そいつのアパートにお邪魔して、
よく聞きにいっていたものです。
 
そこでは、お互いに勉強に関する話題がほとんどだったので、
宗教の話になることはまずなかったと記憶していますが、

一度だけ、熱心に入信を勧められたことがありました。

頭の良い奴だったので、 『まさか』 とは思いましたし、
僕自身、少なからず驚きました。

仲の良い友人であったので、僕は無下に断ることもできず、
その時はただ彼が熱心に話すのを、
肯定も否定もせず聞いていました。

結局、しばらく考えた末に、
やっぱり自分にはできないと思って断りました。

何故、断ろうと思ったかというと、
先程申し上げた 『宗教は個人的に行うものだ』 という思いが、
考えれば考えるほど、強くはっきりと自覚されるようになったからです。


しかし、では何故、そのように強く自覚するのかというと、
当時の僕は上手く説明することができませんでした。

ところが最近になってようやく、その理由が明確になってきたのです。

それは、恐らく僕にとってはこういうことだったのです。 


『宗教は、真理 (Truth) は語るが、
僕にとってはそれは、真如 (Reality) ではない。』




例えば、仏教では一切は 『』 であると説きます。

しかし、仏教に空の思想があるからといって、
空についていくら言葉であれこれと言い尽くしてみたところで、

空を観ずる、つまり、 『空とはかくの如く在る』、
という真如感 (Reality) を表しているとは言えないでしょう。

何故かというと、
空とは、空を感ずる者の独特の体験を離れて、
そのような概念だけを云々してみたところで、

それは形而上の世界を出ることができないからです。

形而上の世界を出ることができない空は、
それを感ずる者の空ではなく、

いくらでも解釈のできる 『観念』 として、
提示されているものの筈です。

そのような所にRealityはないのであって、
ならば、何を以ってもまず、そのような空を観ずるための、
己のRealityを磨かなければどうにもならぬ、
ということが分かってくるでしょう。

Realityを己のRealityにするということは、
己の経験をひとつひとつ積み重ねた先にある 『観』 を指すのであり、

これを磨いていくためには、
実際に行なって経験してみなければ、どうにも分からない、

そういうことであるのです。


これは、少々分かりにくいことかもしれないので、 
仏教の 『阿含経』 の中にある
有名な 『毒矢の例え』 の話を、参考に挙げてみます。

それは、こんな話です。


ある人が釈迦に、 
「この世は永久のものであろうか、無常のものであろうか。
また、世界は有限であろうか、無限であろうか…」 等々、

そういった形而上学的な質問をして、次々と問いかけました。

これに釈迦は直接には答えず、次のような例え話をします。
 
『ある毒矢で射られた者が、毒矢を抜く前に、
毒矢を射た者が何処の誰で、どのような階級の人間であるか、
また、この矢を射た弓の性質は何だとか、
そういった細々としたことをあれこれと考え、
この者はこれに答えが出るまでは毒矢を抜かせないと言う。
そんな者がいたとする。

この者は例え自分を納得させるような、どんな解答を得たとしても、
その前に死んでしまうであろうし、
そんな行為はそもそも、その者の痛みや苦しみ自体には、
何の関係もないことである。
ならば、そんなことを聞いてどうなるのだろうか。』 と。

そして釈迦は、
真理というものを理論のみで理解するのは間違いであり、
そうではなく、
まずは何を置いても、現実の人生に立ち向かうことが肝要なのであり、

ならば自分にできることは、
この毒矢を抜く事を教えるのみ』 
である、と説いたのです。

これは、 『釈迦のReality』 でしょう。



 ( 『後半』 へつづく....。)



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by hiro-ito55 | 2011-04-03 19:41 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
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