考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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『その3』 から 『その4』まで、
例え話を弄して長々と申し上げてきましたが、
要は、 『知ることと経験することは同じである』 
というようなことが、申し上げたかったのです。

しかしそれが分からずに、
人間というものを、哲学的に無理やり定義したり、

或いは科学的に細分化して、
必要なものだけを曖昧なものから強引に切り離し、
対象の計量化を図ってみたりしたところで、

哲学や科学に携わる人間の、
所謂  『主義的な解釈』 が増えるだけではないでしょうか。

のみならず、それは
僕らが日常的に考え、経験し、行動することから、
しばしば切り離して行われることであるから、

何やら特別なものとして、僕らの前に現前してしまうものなのです。

もし科学の魔力というものがあるとすれば、
僕らを 『思考停止』 に追い込む、
そのような特別な姿を指すのかもしれません。

その 『特別な、生活感のない姿』 は、
僕らがそれに容易に近づくことを、
拒絶しているようにさえ感じられます。

この奇妙な感覚は、知と経験、
つまり知ることと、見ることや感じることが、
分離して成されてしまっていることに依るものであるというのは、
今まで申し上げてきたような直覚に基づくものです。


しかし、何のことはない。

知ることと経験することは、
本来同じであるという本質さえしっかりと掴んでいれば、
そのような 『特別な姿』 に、足元を掬われることはないのであろうし、

科学的観点という分かったような分からないようなイデオロギーに、
疑いの目を持つこと自体、
嘲笑の対象となるような現代においては、
 
』 や 『心眼』 という
個人の力量を必要とするリアリティーは、
最早、原始的呪術の名残のようなものと映るかもしれませんが、

己の経験を信じようとする者には、
僕らを 『思考停止』 に追い込むそのような姿こそが、
寧ろ原始的呪術であるとも、呼べるのではないでしょうか。


人間の行動とは、心や精神と同じように、
日常の生活経験から抽出し、

或いは他の構成物から切り離して細分化され、
比較し、眺めまわされることで、
その 『姿』 を現わす種類のものではない。

そんな、地盤に根を下ろさないところでは、
1分たりとも生きてはいけないのが、
人間の精神や活動というものであり、

それは、己の経験を信じようとする者には、自明のことです。

現代の人間科学は、
この地盤から思考を切り離すことで進歩してきたことは、
疑いようのない事実でしょうが、

現代の科学や哲学の苦悩は、
基を辿ればこの 『分離』 に根を下ろしているものであることは、
恐らく皆が薄々と気づいていることでありましょう。

ただ、それを直視し、疑い、批判するだけの
確固としたイデオロギーを確立し得ていないがために、
今のところ 『苦悩』 としてしか認識されない、

それが恐らく現代の限界でもあるのです。


人間の諸活動は、
その地盤となる日常的な経験の内に、
他との関係性という有機的な繋がりを持った 『日常的相互力学』 の内に、
意味を成し、涵養される他はないのです。

それは、ある意味どのようなイデオロギーとも無縁の姿をしているのでしょう。

それでも、人間の行動を分析するために、
現実生活から抽出したところで比較し、
考察されることに意味があるとするならば、

それを使役する者が、
科学的・客観的実証という、
そのような 『人間の主観主義的なイデオロギー』 を、
自覚する覚悟が必要でありましょう。

そうでなければ、そのような覚悟がなければ、

例えば、人間をDNAレヴェルまで分解して、
そこから組織や器官を再び繋ぎ合わせれば、
再び有機的な繋がりを持った元の人間ができあがるという、
機械論的な馬鹿げた発想と同じになるのではないか、

そのように思うのです。


( 『その6』 につづく....。)





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by hiro-ito55 | 2011-03-25 20:40 | 哲学・考え方 | Comments(0)

予告

今のブログ名 
『作業療法士の零度~私的思考の現場(リアル)~』 を変更します。

新しいブログ名は、 
『考える生き方のヒント~今、伝えたいこと~』 です。

僕のブログを、今よりも多くの人たちを対象に、広く読んで頂きたいという思いから、
このようなタイトルに変更します。

ブログURL自体は変更しませんので、
今読んで下さっている方も、引き続きよろしくお願い致します。




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by hiro-ito55 | 2011-03-24 20:47 | Comments(0)
 前回のつづきです。

前回は、僕の見た 『夢』 を例に挙げて、
事実の因果論的抽象化というものを、個人の経験的事実に適用した場合は、
その考察には、根本的な間違いが行われる、とさえ思えてくる。

というところまで述べました。

そしてそうであるならば、やはり、 
『経験的事実を背負う』 とは、
これを直視し、それに耐えるということなのでしょう。


このことから一般に、 
『身近な人の死』 というものを考えた場合、
僕にはある疑問が浮かんできます。

それは、
『近しい人の死を経験した人間のその経験を、悟性的判断に委ねることなく、
自分の経験的事実というものだけを直視し、
その孤独な感慨に耐えながらも、前に進む道を選び、
これに進んで耐えようとする
そんな人が、果たして一体どれ程いるのであろうか』
という問いです。


確かに、 『論理的な思考』 というものは、
僕らの生活上の諸問題を、上手く整理してくれているように見えます。

しかし、人の死という 『圧倒的なリアリティー』 は、
既に人間の悟性の判断というものを超えているようにも思えるし、

ならば、人の死にあたってそれを経験したという事実は、
何物にも置き換えることのできるものではなく、
ただ直視し、これに耐えるしかないのではないか。

そのために、 『初七日』 や 『四十九日』 というものがあり、
これは、近しい人の死を、
そのまま自分自身の経験として、孤独にこれを直視し、
ゆっくりと受け入れていくための、 『舞台装置』 であったのではないか。

近しい人の死を、その孤独な感慨に、
誰も独りで耐え切れるものではないのならば、
それはけっして、形式ばった形だけの儀礼なのではないのでしょう。

むしろ、それは生活人の経験から生み出された、 
『生きた智恵』 であった筈であり、

死とはある瞬間を境に、生と切り離されるものではなく、
生と地続きの姿をしている、
そのような在り方を身近に想像してみると、

それはまた同時に、 『命の敬虔』 という、 
『限りある生への直視』 でもあることが分かります。

いかに、口で 『人の命は大事である』 と言ってみたところで、
人の死という、悟性的判断を超えた経験を直視しなければ、
それと地続きである、限りある生への、反省や驚きなど、
生まれよう筈もない筈です。


生と死を分けてみれば、
なるほど、経験は一応はすっきりとするかもしれないが、
分けるということは、生と死に、
それぞれ別々の意味を与えるということではないでしょうか。

そして与えればそこに、個々に意味付けをするための、
人間の悟性というものが、入り込んでくるのです。

そうなれば、人の死はそれを受けとった人の経験を離れ、
いくらでも誤魔化しの効く方便と化してしまう、

そういうものだと思います。

しかし、そうは言ってみても、
ここで自分に都合のよいような解釈に到達せざるを得ない、
人間の知性というものを考えてみると、

その知性もまた、 『人間の弱さの一部』 なのだと、
認めざるを得ないのかもしれませんが....。


そういえば、祖母が亡くなった後、祖父は随分と塞ぎ込んでしまいました。
その様子は、祖母の葬儀にも出席しないほど、徹底されていました。

祖母が亡くなった日から、
周りが何と言おうとも、頑として家から一歩も出ようとせず、
祖父は、ただ淡々と日々を過ごしていたように記憶しています。

あれは、あの姿は、祖母の死という事実に、ひたすら耐えようとしていた、 
『祖父の直向きなまでの姿』 であったのだろうか。

そんなことを、折に触れてふと、考えてしまうことがあります。





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by hiro-ito55 | 2011-03-18 18:36 | 哲学・考え方 | Comments(0)
震災の被害に遭われた方は、とても辛い毎日だと思いますし、
けして他人事ではないので、
毎日の報道を見ていると、絶句してしまいます。

ですが、僕にできることをやっていくしかないのでは、
と少し思えるようになると、
気持ちに余裕が出てきたのも事実です。

これは薄情なことなのかもしれませんが、
一旦気持ちに区切りをつけて、
先週載せる予定だった 『ある夢の話』 (中半)を、載せることにします。



『ある夢の話』 (中半) 
亡くなる前の祖母とは、随分疎遠になっていたのは事実ですし、
病院の入退院を繰り返していた祖母は、
祖父や母親に色々と我が儘を言っては困らせていたことを、
その当時は母親から伝え聞いていただけです。

それほど僕自身、祖母とは疎遠になっていました。
 
それでも幼い頃は、
祖母の家に行くたびに、毎日一緒に市場まで買い物に行ったり、
お腹いっぱいご飯を食べさせてくれたりと、
随分と可愛がってもらったのを覚えています。

そんな祖母に、何一つ恩返しも、感謝の気持ちも伝えることができず、
もうそれを伝えようにも、
今となっては叶わぬ願いであったことが、当時の僕の心残りでした。


実際、死の間際にあった祖母が、僕の夢枕に立ったということと、
或いは祖母の実際の死との間には、
何ら直接的な関係はないのかもしれません。

少なくとも、 『悟性的判断』 に従うのであれば、
一笑に付すべき、そんな類の話なのでしょう。

ただ、そういったものではなく、
祖母の死を含めたこの経験は、『確かに自分のものである』 、
それだけが 『唯一確かなこと』 であり、

祖母の死後は、ただ後悔と悲しみの、
ある意味それ以外にはどうしようもできない経験として、
その経験が齎す反響の内に、自分はいただけではないか。

それだけで僕には充分であったであろうし、
後から、 『夢をみた』 という僕の経験的事実を、
予知夢であったかどうかという、因果論的思考の問題に置き換えることなど、
そもそもできはしないのです。

そうはっきりと思えるまで、随分と時間がかかってしまったように感じます。

つまり、僕は 『僕の経験的事実』 を背負っていたのです。
 
『祖母の死を予感させる夢をみた』 という経験的事実を、 
『実際の祖母の死』 と関係があるのかどうか、

そういった問題にすり替えてみたところで、
僕の経験にとっては意味がないのです。


そのあまりにリアルな内容のために、
僕が 『妙な気分になった』  というのは、
飽く迄 『祖母の死後』 のことであり、

そこに後からこの二つの事実の間に、関係性の有無を持ち込もうとしても、
それは、祖母との思い出を含めた僕の経験の、
在るがままを直接に語っていることにはならないし、

そうであるならば、祖母との思い出からも切り離した所で、
因果関係の有無を詮索してみたところで、
僕の経験的事実の何物をも語ってはいないのです。

語ってはいないどころか、 
『直視することを避けていた』 とも、
言えるのかもしれません。

そして、そのように、 『経験の直視』 が避けられていたのであれば、
事実の因果論的抽象化というものを、
個人の経験的事実に適用した場合は、
その考察には、 『根本的な間違い』 が行われる

とさえ、思えてくるのです。

つまり、僕が見た夢はそもそも、悟性的理解というものを超えているのですから、
そこに因果律を当て嵌めるのは、
とんだ見当違いであったということです。






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by hiro-ito55 | 2011-03-14 17:54 | 哲学・考え方 | Comments(0)

 大震災

 今回の大地震、想像を絶する被害が出ているようですね。
 今回は、前回の記事の続きを書くつもりでしたが、昨日、今日と、とてもそんな気分にはなれませんでした。

 今回の震災で、身内の行方が分からなくなったり、親兄弟を亡くしたりして、深い喪失感に襲われている人は、一体どれくらいいるのか、想像もつきません。

 ただ、パニックや無気力になっても何も不思議ではないそのような現実にあって、それでも見ず知らずの隣人と励まし合い、助け合っている人が、今この瞬間にも数多くいること。
 お互い生き残るために、そのように人間らしく振る舞うことのできる人が、数多くいるということ。

 そのことは、日本人として誇りにしていいことだと思いますが、そのような状況に置かれた人たちの心中を想像すると、胸が締め付けられる思いです。


 今回、震災に見舞われた地域が、たまたま僕の住む愛知県でなかったというだけの話で、もし、同じ状況に置かれたとき、果して自分は人間らしく振る舞うことができるのか。

 ひょっとしたら人間らしく振る舞うことで、どうにか自分を奮い立たせることができるのかもしれませんし、そのように振る舞うことでしか、自分を維持できないのかもしれません。
 そして、そのような人が、結果的に生き残る、そういうものなのかもしれませんが、僕には全く自信はありません。

 今回の震災について感じることなど、僕には上手く表現がすることができませんが、災害に遭われた方々に、心よりお悔やみ申し上げます。





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by hiro-ito55 | 2011-03-12 23:53 | 社会 | Comments(0)
『私的概論』 で心や精神、或いは人間の活動というものについて、
あれこれと書いている裡にふと、ある経験を思い出したので、
今回から続けて三回に渡り、
それについて書いてみようと思います。


今から10年前に、僕の祖母は亡くなったのですが、
話はその死の前日に経験したことです。

今回は、その経験について書いてみます。
そして残りの二回では、その経験をした僕自身の、
悟性やら因果律やらについて、
思うところを書いてみようと思います。

そういえば、僕は時々、身体が疲れているときに、
金縛りというものを経験したりしますが、
それとて単に上手く眠りにつけていないのだな、と思う程度です。

僕は、人よりも特別、霊感の強い人間であるとは思わない 
(そもそも霊感というものが本当に存在するのかもよく分からない) し、
その時もただ 『ああ、悪い夢をみたな』 と思う程度のことでした。

そんな人間ですから、改めて誰かに打ち明けることは、
何やら恥ずかしい気がしたので、
この話は、これまで人にはほとんど話さずに、過ごしてきました。

尤も、祖母の死後、何ともやり切れない気分が数週間ほど続いたので、
母親には一度だけ話したことはありますが、
それはこんな話です。
(僕は、物語を作れるほどの、文学的表現力は持ち合わせていないので、覚えていることを、そのまま簡単に記してみます。)




僕は、普段からよく夢をみるのですが、
その日 (つまり祖母が亡くなる前日) も、夢をみていました。

その夢の中で僕は、自宅の風呂に入っていました。
浴槽の横でせっせと自分の頭を洗っていると、
ふと、正面の壁に掛けてある鏡に映る、自分の姿が気になりました。

そのまま頭を洗いながら、湯気でぼんやりと霞む鏡を見ていると、
僕の後ろに白い着物を着た老人が立っているのに気づきました。

その老人は老婆でしたが、
一瞬鏡から目を逸らしたその間に、姿を消しました。

そのまま頭を洗い続けようとして、ふと左側の浴槽に目を遣ると、
浴槽の中に先程の老人が、仰向けに横たわっていました。

夢の中でその姿を見た僕は、浴室から家の中にいる母親に向かって、
『この人、ちゃんと葬式を出してあげないとダメだよ。』 
と叫んでいました。

二回ほど同じことを叫んだ後、
浴槽に横たわるその老人は、ふぁーっとした白い光を発し始め、
僕が触れようとすると、その姿は見る見る小さくなり、

小さくなっていくと同時に、
老人の輪郭も判別できなくなるぐらい、光の強度も強くなっていきました。

そして、ソフトボール程の、光の球の大きさにまでそれは凝縮されると、
突然音もなくぱーっと四方八方に飛び散り、消えていきました。

そして、そこで場面は変わり、僕は大きな、
だだっ広い草原の真ん中に立っていました。

周りには、何千人もいるであろう大勢の人の行列が、
ぐるぐると取り囲んでいました。

僕は駆け寄って、その行列の中に加わり、一緒に草原の真ん中を中心にして、
ぐるぐると円を描きながら、同じように進みました。

中には神輿のようなものを担いで、楽しそうにしている一団もありましたが、
僕はその時、 『ああ、これは葬式なんだな。』 と得心し、
妙に嬉しい気持ちになりました。




覚えているのは大体そこまでで、
目が覚めたときに、涙を流していたことに気づきました。

祖母が亡くなったと知らされたのは、その翌日です。

夢をみた時は、
その内容に予感めいたものを特別感じることは、ありませんでした。

ただ、何となく妙な気持になってきたのは、祖母の死を知らされた後の事です。
そのあまりにリアルな夢の情景のせいかもしれません。

その夢が予知夢であったと解釈すればよいのか、
或いは、どのように解釈すれば釈然とするかなど、
当時は随分と考え込んでしまった時期もあります。

しかし次第に、こんな風に考えてみても、始まらぬことなのかもしれない、
とも段々と思えてきたのです。





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by hiro-ito55 | 2011-03-08 23:33 | 哲学・考え方 | Comments(0)
前回の記事では、

例えどんなちっぽけな経験でもいいから、
人間の心や活動を知りたければ、
それらが働いている場に自ら入り込み、
一旦、自分の主義主張という、詰まらぬ皮を削ぎ落として経験してみろ、

それが、知るために僕らができることである、

と申し上げました。

そして、

作業療法士として、
そのような人間の活動の 『姿』 を見定めることができたならば、
それを新たな有機的な繋がりの場へと導いていくことを、
基本とするものであり、それにはそれ相応の覚悟が必要である、

とも申し上げました。

しかし、そんなことを言うと、
『じゃあ、お前の言う海へとやらに出向くため、
泳げない者に向かっても、同じように 「海に入れ」 と言うのか』 
と仰る方がいるかもしれませんが、

僕は、 
『そうです。その通りですよ。』 
と答えるでしょう。

海で泳げるかどうかなんてことは、
大体やってみなきゃ分からないことだし、
泳ぎ方なんてものはこの際、問題ではないのです。

僕が申し上げているのは、 
『覚悟の問題』 であって 『泳ぎ方の伝授』 ではないのですから、
海の中でどのように振る舞うかは、その人の問題なのです。

知るために、自ら生活の場に出向いていって、
その生きた繋がりとやらに入り込み、
内側から知るという経験を通すということは、
有機的な繋がりに身を委ねるということであって、

そういう場に開かれる自己を、自然と作っていかねばなりませんし、
それが、直覚するという、各々の内に涵養される経験であるのです。

そのような経験の形態にあっては、やはり、 
『知ることとは経験することだ』 ということが、分かるでしょう。

ならば、経験する前に既にある 『泳ぎ方』 というようなものは、
覚悟の前にあって如何ほどの意味があるでしょうか。


しかし、 『泳ぎ方』 というものを、大抵みんな知りたがるものです。
『どうしたら上手く作業療法というものが実践できるのか、
その方法を教えてもらいたい。』 
と、知りたがるものです。

それは、例えば現場で働きながら、 
『自分の実践方法は、果たして正しいのだろうか。間違ってはいないだろうか。』 
という不安から、
 
『実は、もっと効果的な方法があるのではないのだろうか。』 
という思いに、囚われるからです。

確かに、他人の泳ぎ方というものが、参考になることはあるでしょう。

しかし、自分に合った実践方法などは、実は、他人になんかは分からない。
自分で経験し、工夫するしかないのだということは、誰でも気づくことです。

しかし、 『泳ぎ方』 を求める人には、
どうもその辺のことがよく分かっていない人が多い。

ついつい他人の泳ぎ方というものを求めて、 
『安心しよう』 とするのです。


『天地の間に、己れ一人生きて有ると思ふべし』 
とは、熊沢蕃山の言葉ですが、

そんなに自分というものが信じられないならば、
己という力量を疑い、己が経験する前に、
自分の覚悟を直視することを恐れ、尻込みしてしまうのならば、

他人を治療したいなどとは思わぬ方がよい。

厳しい言い方ですが、
自分の経験を信じようとする覚悟のない者に、
人間活動の有機的な繋がりに身を委ねる覚悟のない者に、
作業療法を実践できる筈もなく、

ましてや人間の活動を、
そこから新たな有機的な繋がりの場へと導いていくことなど、
不可能なことなのです。


(その5へつづく....。)





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by hiro-ito55 | 2011-03-06 22:54 | 哲学・考え方 | Comments(0)
一昨日の記事、 『その2』 の続きです。


前回申し上げたように、
人間の心や精神、或いは人間という全体も、
実に漠然としたものです。

しかし、漠然としているから実体がないというわけでもなく、
むしろこの 『漠然さ』 を、 『積極的に容認していくこと』 に、

人間や人間活動の 『生きた姿を捕える力』 
というものがあるのではないか、
そう感じるのです。

それを捕えるには、
心なり精神なり、或いは作業や活動といったものが、
現に行われている、その 『生きた地盤』 とでもいうものから、
離してみてはならないのです。


ちょうど釣り人が、生きた魚を釣り上げるように、
必要なものだけを、生きた地盤から抽出してしまえば、

人間の諸活動はその釣り上げた魚のように、
科学者の手中に舞い落ちてくるでしょう。

釣り上げた魚を、どのように処理しようが、
それは科学者の勝手といったところでしょうが、

しかし、
観賞用に飼ってみようが、
色々あれこれと好きなように調理して味わってみようが、

詰まるところそれは、
その魚を本当に 『知る』 ということには、なりはしない。

観賞用に飼えば味は分からぬし、
調理して味わえば、水槽の中の魚の動きというものを、眺めることはできない。

観賞用に飼った後に調理すれば、両方分かるかもしれないが、
分かるのは、
せいぜい釣りという行為によって捕えられた後の行為の中身という、
限定的な意味合いにおいてのみであり、

鰯なら鰯、鮃なら鮃が、
海という生活の場から釣り上げられれば、
サンプルとしての一匹の個体以上の姿を、見せてくれはしないでしょう。


計量化するとは概ねそのような
『限定的な知」 のことであり、

それは例えば、
海の中で鰯がどのように泳ぎ回り、何を喰い、
どのような危険に晒され、
海や他の生物とどのように繋がり生き抜いてきたのか、

という歴史を、ダイレクトに僕らの眼前に現前させる、
そのような 『全的な知』 ではないのです。


あらゆる知が、真に知と成り得るには、
最初に全的な知という、
所謂 『直覚』 するような経験を通して成されなければ、
発達しようのないもので、

それがベースとしてまず捉えられていないと、
それは基がバラバラなのであるから、
そのようにして得られた知は、
イデオローグたちの間で取り交わされる、不毛の議論となるのでしょう。

ならば、知るために僕らにできることは、
自ら生活の場に出向いていって、その生きた繋がりとやらに入り込み、
『内側から知る』 という経験を通すしか、他に道はないではないか。

しかも、僕らが直覚するということは、 
『各々の経験の内に涵養されるもの』 であるならば、
経験は、 『純粋性を増していく姿』 を、採るものなのでありましょう。

経験の純粋性は、
主義主張という詰まらぬ皮を削ぎ落として、研ぎ澄まされていく、
そういった過程で成されるものであり、

それはちょうど、
通常僕らがものを知るために行う行為を、
逆行していく行程で成されていく筈です。

このような経験は、生半可な経験ではありませんし、
それ相応の覚悟を必要とします。


しかし、どんなちっぽけな経験でもいい。


どんなちっぽけなものでも、
人間の心や活動というものは、

そのように生きている場に、体当たりで臨み、
見定められることを望んでいるのだし、

だとすれば、僕ら作業療法士は、
人間の活動のそのような姿を見定められたら、
そこから、『新たな有機的な繋がりの場へと導いていくこと』 を、
本懐とすればよいのです。


(その4につづく....。)





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by hiro-ito55 | 2011-03-03 22:41 | 哲学・考え方 | Comments(0)
前回は、 『心や精神の不在証明』 について述べました。
一見すると、科学という一本の糸によって編み上げられることにより、
僕らの前にその姿を現わしたかのように見える、
人間の心や精神のその姿ですが、

果たしてその 『編み上げられた姿』 というものは、
生きた心や精神の姿をしている、
と言えるものなのでしょうか。

むしろ、その糸を手繰れば手繰るほど、
心や精神は、その姿を隠していくものではないでしょうか。

何故なら、この不在証明の示すところは、
心や精神が、科学によって日常の生活から抽出され、分析されることを、
拒んでいるようにさえ映るからです。



であれば、科学の糸は、
カンダタが地獄の底で掴んだ、一本の 『蜘蛛の糸』 のようなものでしょう。

科学という糸を手繰り、それのみを頼りに、
天上にある精神の真理とやらに向けて、必死に昇りつめようとする者は、

その糸に、あたかも罪人たちのように縋りついてくる、
様々な 『非科学的なもの』 の存在に気づくでしょう。

カンダタが、この罪人たちに向かって 『下りろ』 と叫ぶように、
その者は、その者の信じる科学とは無縁なものを削ぎ落とそうとするが、

蜘蛛の糸はぷつりと切れてしまい、
精神の真理という、見晴らしの良い場所に辿り着くことは叶わない。

心や精神の、見晴らしの良い場所に辿り着きたいならば、
この罪人たちのように見えるものまでも、
一緒に連れて行かなければならない、

そういった覚悟がなければ、
心や精神の姿を鳥瞰的に眺め渡すことなど、できはしないのであり、

その道は、
科学や哲学や宗教を 『内包』 し、 『統一』 したものでなければ、
到底成し得られないものであるように思われるのです。



翻って心や精神が宿る人間というものを、
僕らの日常的に経験する常識というものに照らし合わせて考えてみると、
人間というものも、実に漠然としたものであることが分かります。

それは、現在のところ、心や精神の所在というものが特定できないでいる、
という事実ひとつを取り上げても、
充分に漠然で、曖昧なものであることが分かるのですが、

その生身の人間から抽出され、引き離され、
置いてきぼりにされた心や精神というものは、
最早 『死人の顔』 で、何も語ってくれはしないのです。

心や精神の根差すところを考えれば、
人間の生活という 『生きた地盤』 から
切り離されて耐えられるような、
計量化に対するそんな武装など、
心や精神は、そもそも持ち合せてはいないことが分かるでしょう。

しかし、客観性を自負する科学は、
生活感に根差すこの 『生きた曖昧さ』 を許さないのであろうから、
心や精神の勝手などお構いなしであり、
死人の顔であっても構わない、と言うでしょうか。

もともと人間、或いは人間的という言葉が、
実に漠然としたものである以上、

心や精神に限らず、その人間が、
細胞レベルの反応や身体症状という出力を含めて、
日常生活の中で生み出す行動や反応といったものが、
状況に応じて漠然としたものになるのは、

当然のことであると、言えはしないでしょうか。


もし、人間の心や精神、行動に
曖昧さの入り込む余地がないとするならば、

そのようなものは、
イデオロギーや科学や宗教などによって作り変えられた、 
『別の何かの姿』 をしているのであり、

そのようなものを捉えるには、
こちらも死人の顔で以って近づくしか、道はないでしょう。


しかしながら、
この 漠然さを積極的に容認する 『覚悟』 があれば、
対象は別の何かに姿を変えることはないのであるし、

この事実が、
人間の作業や生活動作を扱う作業療法の、
或いはその役割や価値を考察する、
唯一の基本姿勢となり得るものであると、僕は確信するのです。


(その3につづく.....。)






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by hiro-ito55 | 2011-03-01 22:28 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー