考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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ここ数年、 『歴女』 という言葉が度々メディアで紹介されています。

『歴史上の人物を、ビジュアル的にデフォルメされたキャラクターに夢中になる女子』 
のことらしいですが、

その歴女に対する共感の有無は別にして、
最近、個人的に歴史とは、意外と難しいものだと感じるようになっています。

歴女にしても、NHKの大河ドラマにしても、
その背景にあるのは 『物語』 としての視点であるように思われます。

それがひとつの物語である以上、
そこに登場する人物は、
人物毎にそれぞれ 『キャラクターを設定する必要』 があります。

キャラクターを設定するということは、
性格を設定することでもあるのですが、

人間の性格というものは、
見る人によって幾重にも変わる性質のものであることは、
僕らが日常、当たり前のこととして、経験していることでもあります。

しかし、それでは物語としては一貫性を欠いてしまう危険があるため、
強引にも、例えば 
『信長は残虐な人物』 『秀吉は朝鮮に出兵した誇大妄想家』 
といったように、

ある程度 『その人』 を固定しなければ、話は成立しません。

そのキャラクター設定する基準というものは何かと問えば、
それは単純にプロデューサーの視点である
と答えるでしょうか。

或いはもっと拡大して、
世評を反映した現代人が求めている 『理想像』 の視点
と答えるでしょうか。

そのような固定した視点であるならば、
そこには多少の 『嘘』 が雑じることになります。

ならばそれは、歴史ではなく、
むしろ 『作品』 として見ることが必要とされる類のものでしょう。

だから、僕は例えば大河ドラマを見る際は、
歴史ではなく 『一つの作品』 として見るようにしています。

作品として面白くなければそれ以上は見ないし、
面白ければ 『なるほど』 と感心しながら見るだけで、
単にそれだけのことであり、

そのように見れば、
そこから歴史的な 『意味』 だとか、 『教訓』 だとかを読み取ったり、
或いは史実と反するなどと憤ってみたりするのは
真に無駄なことのように思えてきます。

歴女や大河ドラマ好きは歴史を楽しんでいるのではない、 
『作品』 を、 『キャラクター』 を楽しんでいるのです。


『歴史』 に触れるのに普遍的解釈というものは存在しない。
或いは作品として解釈するという視点もない。

普遍的な解釈が許されるのは、
自分たちが、他のあらゆる価値観の何ものからも
左右されない視点に立脚しなければ、到底不可能なことで、

もし仮に、現代人がそのような立ち位置に立脚しているならば、
歴史は 『現代が最終到達点』 であり、 
『未来は無いに等しく』 なります。

そのような驕りは、
実は、歴史を忘れ去ることと同義であることのように思えます。

また、歴史上の人物たちを、
現代人の好みに合わせたキャラクターに設定し直すという視点も、
狭い自我から発した、空虚な拡大解釈に過ぎず、

歴史という生き物に触れるには、
あまりにも非力であるように思えます。



小林秀雄は、歴史についても非常に鋭い視点を持っていた人ですが、
今、彼の文章を読みながら、
歴史というものについて 『うーむ』 と考え込んでしまいます。

今回は、その小林秀雄の 『徂徠』(文藝春秋) という随筆を、
一部ですが、最後にここに紹介しておきます。


『歴史の発展とか、歴史の必然とかいう言葉に塗りこめられた
陽の目の見えぬ小屋に、
歴史の客観的理解というランプが点った
荒廃した或る頭脳を、私は思い描く。

強迫症を捕えて離さぬ固定観念のように、
この頭脳のなかでは、それが歴史の意味だ、という言葉が鳴っている。

彼の言葉への服従は完全であるから、
この患者は、決して苦痛を訴えはしないが、
当人の知らぬ症候は明らかであり、

それは、現在の生との接触感の脱落なのである。

彼は、もはや自分自身と応和してはいない。
自分の現在の生に誓って、言動を生み出す事が出来ない。

自己の現在を失ったものに、過去の人間の現在が見えて来る筈はないだろう。

現代風な歴史理解の型で、歴史の展望を言う時、
これには、歴史の方へ、こちらから出向く労は御免だという意味しか、実はない。

歴史の意味という呪文を唱えれば、
歴史は向うから、こちらに歩いて来る、と信じているなら、
それは科学の仮面を被った、
原始的呪術の名残に過ぎぬと言われても仕方があるまい。

友を得る為には、友を自分の方に引寄せればいい、
そんな道が、友を失う道に過ぎないとは、
生活経験に基く智恵には、はっきりした真理である。』






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by hiro-ito55 | 2011-01-30 22:55 | 哲学・考え方 | Comments(0)
前回 『その1』 では、

『在宅や地域に 「共生機能集団」 としての 
「受け皿」 の機能が不足している現実があるにも拘らず、
僕の働く老健という職場のスタッフにも、
意外と 「利用者の自宅復帰」 に固執する人が多く、
そのような 「一元論的に絞った目標」 というものは、
意外と汎用性がないのではないか』 

ということを述べ、

『利用者が入所生活を送る中で、
「老健」 「自宅」 「特養」 「グループホーム」 
などといった選択肢の中から、 
「これはないな」 と思えるものをひとつずつ 「消去」 していく、
というやや 「後ろ向きな目標設定」 もひとつの手である』

ことを書きました。


今回はその続きです。



僕らの仕事というものは、個人的には、
利用者の 『したいこと』 よりも 『できること』 を提示して、
サービスを提供する機会が多いのではないかと思います。

また、利用者の日常での毎日を考えたとき、 
『今、自分にできること』 を、 『させてもらえる』 ということは、 
『生きていることをリアリティーとして感じられる』 
ということかもしれません。

そして、施設利用者の中には、
それだけで充分満足そうに見える人も、実は多くいたりします。

このことは、 
『今のままの自分を認めてもらえる』 という 『自尊心』 とも
無縁なことではないでしょう。

しかしそもそも、 
『できることしかさせてもらえない』 
という思いを抱かせてしまっては失敗ですので、 

『したいこと』 と 『できること』 のバランスを採る 
『さじ加減』 は最低限必要ですが、

個人的には、現実的な目標設定というものは、
この 『できること』 つまり 『自尊心』 に
根差したものであるべきだと思います。


そうでなければ、 
下手をすると 『今の自分を認めてもらえない』 という不安を、
最初の段階で、利用者に抱かせてしまうことにもなります。

そればかりか、
その不安を払拭するために
リハビリに依存する 『リハビリ依存症』 の利用者を、
スタッフ側から作り出すことにも繋がりかねません。

そして一旦、このようなサイクルに陥ってしまうと、
目標を修正するのは容易ではありませんし、
スタッフも利用者も、現実と折り合いをつけるために、
ついついお互いに無理をしてしまいがちです。


このようなボタンの掛け違いを避けるためにも、
前回の記事ような  『目標設定は消去法で』 という、
やや 『後ろ向きな目標設定の方法』 をお勧めします。


しかしもちろん、
大きな目標に向かってリハビリを頑張り続け、
それがうまくいって無事在宅に復帰する人がいるのも事実です。

ですので、その人たちの在り方まで否定するものではありませんが、 
『大きな目標あっての日常』 という観点も、
実は、ひょっとしたら僕ら若い世代が、
その若い時期に限定的に持つ価値観であるかもしれない、
とも思います。

もしそうであるならば、サービスを提供する際は、 
『そのような、世代特有の価値観に自分たちが立脚して、利用者を見ていないか』 
と疑ってみることも、
けして無駄ではないでしょう。


 (その3につづく......。)





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by hiro-ito55 | 2011-01-27 19:04 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

 生産と消費の快楽

戦後長きに渡る、或いは現代の一般的な意味で使われている 
『大量生産・大量消費社会』 という言葉は、 
『ものの生産とお金による消費』 という
経済活動に限局されて用いられているように思います。
 
周知の通り僕らの社会は、
6年前の2005年をピークに、
人口が徐々に減っていく 『人口減少社会』 であると同時に、

その年齢構成も高齢者に偏った分布の 
『超高齢社会』 と言われる時代を、これから迎えていきます。

これを経済の話に照らし合わせると、
それは、若者が多く、人口も増加し続けた時代特有の、 
『大量消費社会』 が 『終わる』 ということでもあります。

いや、既に終わっているのかもしれません。

この日本において、慢性的な不況が長期化していることを、ふと考えてみると、 
『持続可能な経済発展』 という言葉が、絵空事のように聞こえる
このような、時代のターニングポイントにあたっては、
もっと 『広い意味』 での 『消費と生産』 というものを、
考えてみてもよいのではないか、
と思えてきます。

何故ならば、
そもそも生産活動や、消費活動の 『動機』 というものは、 
『お金のやりとりではない筈』 だからです。


『知的』 にも、或いは 『物的』 にも、 『生産するという行為そのもの』、 
そして、その行為に与り生産されたものを通して、
人間は自分の成し得たもの、
大げさに言ってしまえば、自分の姿形を確認することができます。

それはある意味、自分の分身を他者に贈ることができることに、 
『快楽』 を得るということです。

それが、生産というものの本質ではないでしょうか。

であるならば、生産と消費というものが一対を成すためには、
そのような他者からの贈り物を受け取り、
他者との繋がりを享受できる消費という 『快楽』 もまた、
存在しなければなりません。

その快楽のための 『ツール』 が、
たまたま 『お金』 であっただけの話です。


お金が多く手に入れば、
それだけ多く他者からの贈り物を受け取る 『可能性』 ができるということ。

その可能性というものに 『快楽』 を感じるのであって、
本来お金を多く持つことが、
消費の動機を基礎づけるものではない筈です。

生産と消費といったものには、
そのような人間の社会的生物としての快楽の追及があると考えてみると、
僕らは長い年月を掛けて、この生産と消費の本質を、
或いは履き違えてしまったのかもしれません。


人口減少・超高齢化といった社会において、
生産と消費の快楽を持続させるには、
それを経済活動に限局したものではなくて、

このようなもっと広い意味で、生産・消費を捉えること以外に、
その道はあり得ないのではないかと思うのです。

それをおおざっぱに言ってしまえば、 
『あらゆるものの往還する社会である』 と、
言ってしまうことができるのではないのでしょうか。

『往還のツール』 というものを 『お金』 に限局してしまえば、
それは商品と呼ばれるものとの交換という 『姿』 を採り、

この単一的な交換を 『大量』 に促進すると、
今までのような大量生産・大量消費の姿ができあがります。

これを、往還の中のお金と商品という、
単一的な 『モノトーンの往還』 とすると、

『あらゆるものの往還する社会』 は、
『カラフルな往還の社会』 と考えることもできます。

つまり、往還のツールを、 『人との繋がり』 という、
もう一段大きなカテゴリーで一旦括ってみることができれば、

そこでの往還は
より 『カラフル』 なものになる可能性をもっているのが分かります。


僕は 『生産と消費』 という、 
『人間活動の基本』 をそのように見るわけで、

そのように考えることで、
将来の日本の共同体の姿のヒントが見えてくるのではないか、

漠然とですが、そう思います。




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by hiro-ito55 | 2011-01-21 18:27 | 社会 | Comments(0)
今、地域と共同体のことについて、
僕なりに文章を纏める作業をしていますが、 
在宅や地域に 『共生機能集団』 としての 
『受け皿』 の機能が不足している現実を、
どう補っていくのかというのが、その最大のテーマになりつつあります。


しかし、僕が働く老健という職場のスタッフにも、
意外と 『利用者の自宅復帰』 に固執する人が多いのには、
正直驚かされます。

それが多角的にみた結果であればよいのですが、
中には 『利用者の特養待機はあり得ない』 
とまで言い切るスタッフもいますし、

そのような 『一元論』 もどうなんでしょうね、
と思うことがります。

ひとつ言えることは、 
一元論的に絞った目標というものは、
意外と汎用性がないものであるという事実を、
自覚することではないでしょうか。

先の記事でも触れましたが、利用者が自宅に復帰しても、
そこが新たな孤独や閉塞感が生成する場であっては、
せっかくの自宅復帰も意味を成しません。

そのような場合、 『特養待機』 も
選択肢としては 『あり』 かもしれないのです。



現場で働いていると、目標というものは案外、
消去法によって得られることが多い気がしたりします。

そうではなくて、数ある選択肢の中から、
最初に自宅復帰という大きな目標を選択して、
その目標に突き進んでいくのも、もちろん 『あり』 です。

しかし現実には、
利用者の心身状況というものは入所期間中も変化していきますし、

家族の健康状態や、
経済的事情などの環境、
思惑なども、変化していくものです。

そのために三か月に一回のケアプランの見直しがあるのですが、
現場のスタッフに 『なにがなんでも自宅復帰』 
という共通意識が根強くあると、
目標の軌道修正というものは、なかなか容易ではありません。

施設のケアマネさんも、その点で苦労している方もいらっしゃいます。


ですから、現場のスタッフは、
状況というものは常に変化していくものであることを、 
(当たり前のことですが)
最初に頭の片隅にでも置いておく必要があります。

そして、
その変化になるべく対応できるようにするためには、
最初から一元論的に思考することが、
以後のスタッフ間の合意形成の妨げになることを、
自覚しておかなければなりません。

それに、利用者が入所する前から、その施設のスタッフに 
『こうでなければならない』 
という強力な目標設定が既に存在すると、 

『その設定に合わない』 利用者が入所した場合、
入所したこと自体が不幸になってしまうことすらあるのです。


ですから、利用者が入所生活を送る中で、
『老健』 『自宅』 『特養』 『グループホーム』 
などといった選択肢の中から、 
『これはないな』 と思えるものを、

本人の希望や心身情況、家族状況の変化などから多角的に検討して、
ひとつずつ 『消去』 していくという、
やや 『後ろ向きな目標設定』 もひとつの手なのです。

そして、目標をより 『現実的な話』 にする場合は、
このような消去法が有効です。


高い目標設定は、 『こうでなければならない』 という 
『希望』 や 『幻想』 を多く含んでいますので、
いつまでもそれを修正できないような 『土壌』 を、
僕ら現場のスタッフが作り出していてはいけません。

高い目標設定というものは、あっても全く構いませんが、
それはいつでも 『現実的な話』 に修正可能なものであるべきなのです。

何故なら、そのような汎用性がなければ、
それはスタッフからの 
『理想の押しつけ』 にすぎないものに変化してしまうからです。

スタッフの考える 『私的な理想像』 を、
あたかも 『あなたのあるべき当然の姿』 として押し付けられては、
たまったものではありません。

そしてそこには、 『私的な考え』 を、
みんなが当然と思う 『公的な考え』 にすり替える
ロジックの飛躍が働いていることも、往々にしてあるのです。

このような 『すり替え』 をされると、
利用者や家族は、なかなかそれに 『NO』 と言えるだけの
根拠を示すのが難しくなります。

そして最悪なのは、この間に 
『現実的な目標』 を考える機会が失われてしまうことです。

そのようなことにならないためにも、
利用者の目標設定には常に慎重でありたいものです。


あと、消去法での目標設定の良いところは、
お互いに 『楽』 であることです。

それは何故かというと、 『無理をしない』 からなのですが、
このつづきは次回ということで....。




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by hiro-ito55 | 2011-01-17 01:09 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

雪です。

単純に 『雪』 です。
僕の住む愛知県でも、積雪を観測しました。

ベランダからもこの通り。

b0197735_15483513.jpg


近所の子供たちが、畑に積もった雪で嬉しそうにはしゃいでいる姿を見ると、
これが平日でなくてよかった、と思うのは僕だけではないようです。

ただ、大人は素直に喜べないだけです。

b0197735_15493970.jpg


それに、あんまり寒いと、エアコンも効かないんですね。
頻繁に 『プシューッ』 といって風を送るのを止めてしまいます。

『プシューッてなんだよ!?そこ、頑張りどころだろ。』 
と、思わずエアコンに突っ込みを入れたくなるのですが...。
 
予報では午後には雪は止むとのことでしたが、
まだ積もりそうな勢いです。




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by hiro-ito55 | 2011-01-16 15:56 | 日常あれこれ | Comments(0)

 共生機能集団の補完

先日、 『ロジックの飛躍と適正化』 というタイトルで記事を書きましたが、
酒井穣さんのブログ 『NED-WLT』 でも、
コミュニティーについての大変興味深い記事を書いておられるので、
興味のある方は一度覗いてみてることをお勧めします。

データ的な裏付けがきちっとなされているので、説得力があります。

タイトルは 『コミュニティーが見直されつつある背景』 です
(僕の記事の右下の 『エキサイトブログ』 のところにもリンクを張ってあるので、
そこからジャンプできます。)。



その記事から、一部抜粋させていただきます。

日本では、少子高齢化によって地域コミュニティーの重要性が高まっているにも関わらず、そもそも日本人は他人と付き合いたがらない傾向があるとすれば、「なんらかのルールを自発的に共有しようとする人々の集まり」である地域コミュニティーを活性化していくのは相当難しいチャレンジと言えそうです。
コミュニティーが持っている「助け合いの精神(互酬性)」は利用したいものの、コミュニティーへの参加自体に気が乗らないという状態なのです。このギャップ(問題)を埋めようとしているのが、どうやら各種のNPO(非営利団体)のようです。 


(中略)

NPO法人も立派なコミュニティーの一種なので「ひたすら、サービスを行うコミュニティー」と「ひたすら、サービスを受ける孤立した個人」に分断されているという部分は、相当気になります



僕も現在、
地域や共同体についての考察を纏めている最中ですが、
下線部分の酒井氏の 『役割の分断』 に対する違和感は、
僕も全くの同感です。

介護保険制度を利用した各種在宅サービスも、
実はこれと同じで、 
『サービス提供者』 と 『サービス利用者』 という、 
『役割を固定化されたもの』 であると思うからです。

これについて、まだ書きかけの文章ですが、僕の考察を載せておきます。



現在、老健の抱えている大きな問題のひとつに、 
『入所している期間の長い利用者が少なからずいる』 
という問題があります。

ご存知の通り、老健の役割は 『利用者の在宅復帰の支援』 にあり、
そのために介護や医療などの様々なサービスを提供するもので、

利用者の早期の在宅復帰を実現することが望ましいとされています。

しかし、現実には、
家族が利用者を自宅に引き取ることを渋っていたり、
利用者が自宅に帰っても、妻(夫)も要介護者となって
他施設に入所中であるため、
一人暮らしをせざるを得なかったりするケースも存在します。

つまり、入所者の在宅復帰を目指すはいいが、
その 『受け皿』 がしっかりと機能しえないケースが、
少なからずあるということです。

これは、共同体や家族が、 
『共生機能集団』 としてはもはや機能していない、

もしくは機能するには能力的に不足し、
受け皿としては大きな負担となっているという事実を、
少なからず示しているのではないでしょうか。

そして、
このような 『長期入所』 の可能性を持った 『予備軍』 が、
現在の長期入所者よりも遥かに多いであろうことは、
老健に 『入所待ち』 をする人が全国に相当数いる現状を見ても、
容易に推測できます。


この問題に対して国は、
施設利用者の在宅復帰の推進を、更に推し進めていく方針で、

そのために介護保険下での在宅サービスの充実が、
急務であるとしています。

つまり、
共生機能集団である共同体や家族の能力的な不足を、
介護保険サービスで補おうという方針であるのですが、

現状はそれほど効果は上がっていないと言えるでしょう。 

そうでなければ、
老人の 『孤独死』 ということが、
昨今これほど多く話題に上ることもない筈です。


その効果が上がらない原因のひとつに、
『介護保険サービスを提供する者は、
介護保険サービス以外のサービスを提供してはならない』
というルールの存在があります。

これは、
『定められた時間通りにきっちり自分のサービスのみを提供する』 
ことを、厳密に規定することであり、

本来、人情的に 『してあげたいこと』 も 『認めてあげたいこと』 も、
提供したりされたりすることができないことを意味します。

もし、うっかりしてしまえば
それは 『法律違反』 となり、厳罰に処せられます。

これは、 『役割の固定』 のためのルールなのです。

このルールに則る限り、
サービス提供者は、あくまで提供者としての役割を、
利用者は、あくまでサービスを提供される者としての役割を、
それぞれ外れることはできません。

介護保険が
『利用者とサービス提供者』 との 『契約』 に基づくものである以上、
これはいたしかたのないことなのかもしれませんが、 

『贈与の往還』 という共同体の基本コンセプトを考えたとき、
現在の介護保険下での在宅サービスでは、
質的に、共同体を補完するための機能を十分に発揮することは、
今後もできないでしょう。


もはや、介護保険サービスの枠内で
地域を考える段階ではなくなっているということは、
介護・医療関係者の間では気付かれつつありますが、

介護保険も
共同体や家族の共生機能集団の不足を補う方法のひとつにすぎない
と捉え直した上で、

それと他の 『贈与』  をいかに組み合わせていけるか、
という 『もう一段大きな枠組み』 で
考えていく必要があるのではないでしょうか。

そうでなければ、
介護保険サービスのみに頼らなくてはならない高齢者の 『孤独』 は、
ますます深まっていくように思われるのです。




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by hiro-ito55 | 2011-01-11 20:39 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)
『少子化問題』 『高齢化問題』 『超高齢化社会』。
こういった言葉を、僕らはほぼ毎日のように目にしたり、耳にしたりします。
僕らの社会の構造が変化してきている証拠ですね。

しかし、そもそも 『少子化』 や 『高齢化』 というものは、 
『何を基準に』 したものであるのか、
という問いは見落とされがちです。

いや、見落とされがちというよりは、
ほとんど無視されてこれらの事柄が論じられている
というのが、現状ではないでしょうか。

僕はここにロジックの飛躍があるように思えてなりません。


例えば、

『まだまだ作業療法士の数が足りないので、養成校をどんどん増やしましょう』

という方針は、

『そもそも作業療法士になりたいと思っている人が現状で何人存在するのか』
『存在するとして、今後そのような人は増え続けていくのか』

といった考察が抜けているとしたら問題ですよね。


実際、養成校の中には
既に定員割れをおこしているところもありますし、
学生の募集を停止している養成校もあります。


『少子化』 問題や 『高齢化』 問題もこれと同じで、

『そもそも高齢化(少子化)とは、
何と比較してどれだけの人数に達したら
高齢化(少子化)していると言えるのか』

『高齢化(少子化)しているとして、
今後それは何を基準にして適正化を目指すのか』

といった筋道が見えてこないということです。

いや、具体的には
65歳以上の人口が総人口の21%以上に達したら 
『超高齢社会』 と呼ぶのだ、
という人がいるかもしれませんが、

では、その 『超高齢社会』 の21%という数字は 
『何を基準にして』 そう設定しているのか、
という問いの答には成り得ません。

この 『問い』 つまり 
『何を基準にしているのか』 という考察がスッポリ抜けてしまうと、

例えば、
『少子化対策として、出産を奨励する政策を立案施行したとしても、
産科や保育所が不足し』 たり、

『高齢化対策として施設数を増やしたが、
思った以上に高齢者が集まらない』 

という結果を招くということです。

そのような結果は、明らかに失敗です。


もちろん、この結果にはバラつき、
つまり地域差というものがありますが、
僕らが 『少子化』 や 『高齢化』 というものを考えるとき、
その言葉をそのまま鵜呑みにして考察していくことは、
少し危険であるように思えるのです。

何故なら、 『少子化』 『高齢化』 という言葉自体に、
それを 『問題である』 と捉える意識が、
既に刷り込まれていると思えるからです。

問題に対しては適正に処理されなければならない
という思考が働きます。

しかし、その適正状態がどのような状態なのか分からないのであれば、
そもそもその問いの立て方自体が問題であるのです。

もし、僕らの社会が世間で言うところの 
『少子化』 や 『高齢化』 といった 
『異常な状態』 に向かっているのではなく、

むしろ今までの出生率の高さや、
高齢者人口の比率の低さの方が 
『異常』 であったと捉えることは、
できないのでしょうか。

僕らの社会が、どこかで均衡な人口構成状態に戻り、
それがその社会の適正な構成状態であり、
現在はそれに向かう移行期である、
と考えることは不可能なのでしょうか。

それを社会の回帰的な成り行きであると考えれば、
今までのそれと 『相対的に比較』 して、

現在の社会が、
僕らの目に 『少子化し、高齢化しているように映る』 だけではないか
とも思えてくるのです。

もしそうであるならば、
出生率を上げて高齢人口の相対的減少を目指すのではなく、
高齢者が増えた(と見える)社会でも、
混乱なく移行していける社会を目指すべきではないのか。

そして、『少子化』 や 『高齢化』 を論ずるときには、
そのような 『問い』 の立て直しを図るべきなのではないのか
と思うのです。

仮に、そのような根本的な問の立て直しがあれば、
人口構成変化の流れに逆らうような対策は減少し、
ロジックの飛躍による失敗は避けられるように思えるのです。





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by hiro-ito55 | 2011-01-09 21:54 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

 美しい花

美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。
                         ~小林秀雄~



これは、小林秀雄の有名な言葉です。

僕が、この言葉の持つ意味の深さに気付いたのは、
ごく最近のことです。

僕らは、何かを見たり聴いたりして、
それを 『これ、いいなぁ』 と感じるとき、

そしてその感動を誰かに伝えたいと思ったとき、 
『〇〇の良さ(美しさ)って、△△なところなんだぜ。すげーだろ?』 
というように表現することはよくあることです。

その良さ(美しさ)を伝えるために、
様々な角度から 『それ』 を分析してみたり、 
『それ』 の素晴らしさを 
『誰々もこう言って褒めてるんだよ、実は。』 と、

自分の感動が自分だけが感じるものではないことを
一所懸命に説明してみせたりして、
何とか 『それ』 の素晴らしさを伝えようとします。

それはそれでとても大切な感性ですので、良いのですが、
この場合の 『〇〇の良さ(美しさ)』 というのは、
その良さ(美しさ)を見つけた自分によって
色づけされた 『良さ(美しさ)』 です。

言ってしまえば、 『自分というものを通して』 見た結果の、 
『個人の好み』 に分類される得るものです。

 
最近(でもないか)の、 
『俺的に〇〇ってイケてると思うけど、ちょーカッケ―よなぁ、いや、マジで。』 
という表現も、
もちろんこの 『個人の好み』 に分類されるものです。


小林秀雄は、
この 『個人の好み』 によって感じ取られる美しさというものは、
全く美しさと呼べるようなものではない、
と言っているのです。


芸術家というものは、僕は 
『一瞬で消えてしまう何かを、永遠の何かに置き換える行為ができる人』 
であると思っています。

自分が経験した何かは、
別の何かに置き換えなければ、それはそのまま消えてしまい、
消えてしまえばもう、永遠にその姿を言い尽くすことはできない。

だから、それを今 
『形あるものとして、永遠に言い尽くせるような何か』 
に置き換えなければならない。

そのような強迫的な切迫感に追い立てられ、表現する人を、
芸術家と呼ぶのではないか
と思うのです。

詩人であれば、その置き換える 『何か』 は 『言葉』 ですし、
音楽家であれば 『音楽』 であり、
画家であれば 『絵画』 です。

『一瞬で消えてしまう何かを、永遠の何かに置き換え』 る作業を通して
作られた芸術作品というものは、 
『作者の自己主張や自我』を表現したケチなものではなくて、

受け手がその対象を、
そのままの形で素晴らしいと感じられるように
表現し尽くしたものである筈です。
 
それは受け手の 『好み』 によって
その価値を判断できるような、そんな 『ちっぽけな』 ものではなく、

むしろそのような 『安い』 目で見られることを
拒絶するようなものでしょう。

本当に素晴らしい作品の前には、
自分が説明するようなウンチク程度のものなど必要とされないし、
最早どうでもいいとさえ思わせられるような感覚、

それが 『美しい』 ということなのであり、
芸術作品のみならず 『花』 に対してもそれは同じだと、
小林秀雄は言いたいのではないでしょうか。


だから、 『美しい花がある。』 で、 
『花の美しさという様なものはない。』 
ということなのです。

きっと。

このように、美に対する意識を変えてみるだけでも、
日常のひとつひとつの物事でさえも、
豊かになるような気がしてきます。





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by hiro-ito55 | 2011-01-05 21:04 | 美意識 | Comments(0)
あけましておめでとうございます。

年末から年始にかけて、ブログの更新がやや滞っています。

というのも、去年ブログで書いた文章を、
もう一度組み建て直して繋げる作業をずっとやっているものですから、
ついついブログの更新が後回しになってしまっています。

そうして改めて自分の文章を見直してみると、 
『ひでぇな...』 というのが率直な感想です。

もともと、
自分の頭の中の思考を整理する目的で始めたブログですので、
自分が読み返してみて躓くような文章では意味がないと思い、
今、再整理を試みています。

とりあえず、『認識論1~3』 と 
『地域や共同体について1~7』(未発表分も含む)
を再整理していますが、

文字数だけは 『いっちょまえ』 で、
Wordで数えたら20,000文字ぐらいに脹れあがっています。

最終的にはもうちょっと増えそうですが。

整理できたら、いずれ何らかの形で発表したいと思いますので、
よろしくお願いします。

それでは、今年も皆様にとって良い年でありますように。
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by hiro-ito55 | 2011-01-03 20:20 | 日常あれこれ | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー