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自分らしさ

現代は、 『個性的』 な在り方を歓迎する風潮が強いですね。
しかし、 『アイデンティティー』 と 『個性』 は
恐らく違います。

アイデンティティーとは、
一般的には 『自分であることの確からしさ』 
といったように表現されますが、 
『これじゃぁ何のことやらさっぱり』 という方も多いと思います。

アイデンティティーとは、僕なりに噛み砕いて表現すると、 
『自分の歴史そのもの』 ではないかと思います。

例えば、小学生の時に好きだったアニメは何で、
嫌いな食べ物はこれこれで、
サッカーよりも野球が得意で、練習も好きだった、とか、

中学生になると兄貴の制服のおさがりが嫌で、
いつも不平を言っていた時期があった、とか、

頭の形が悪く坊主頭が嫌で、
野球部なのに一人だけ髪の毛を伸ばしていた、とか、

高校生になると、気の強い女性に惹かれるようになった、とか、

車の運転はマニュアル車の方に興味を持った、とか、

階段を上るときは、右足からじゃないと落ち着かなかった、

などその他諸々......。


そういった、生まれてから現在まで、
記憶にあるものもないものも含めて全ての 『自分の軌跡』 を、
その人の 『アイデンティティー』 と呼ぶのです。

ですから、正に自分史そのものと言えるでしょう。


これに対し 『個性』 とは、
例えば、 
『初対面の人にも、最初から明るく接するのが自分らしいから、
これが本当の自分らしい自分なんだ。』 とか、

『俺は、相手が上司だろうが同僚だろうが、
忌憚のない意見を言えるところに、自分らしさがある。』 
と思い立ち、

人生のあらゆる場面で、
そんな姿の自分を顕示しようとするようなことです。

これは、自分のある一側面、
つまり、アイデンティティーの 『ある瞬間』 を強引に切り取って、
今の(或いはこれからの)自分に無理やり当て嵌める行為です。

自分の歴史の中で 『瞬間的に現れたある一側面』 を
自分の 『全体像』 に引き伸ばして、
自分を打ち立てていくわけですから、

そのような振る舞いはどこか不自然で、
いつも 『それに合わない』 自分と葛藤することになります。

しかし、それも当然です。
圧倒的な歴史を有する自分の軌跡に対して、
このような 『個性』 には 『歴史』 がないのですから。

歴史がないということは、 
『無時間的である』 と言ってもよいかもしれませんが、
昨今声高に叫ばれる個性とよばれるものの正体は、
大方そんな 『不自然にデフォルメされた自分』 かもしれません。

しかし、それまでの歴史がないからこそ、
そのようにデフォルメされた自分に、
何か生まれ変わったような気分を感じるのかもしれません。

でも、本質的には 『無時間的な自分の断面』 ですから、
個性を打ち立てるという強引な自己顕示は、
ほとんどの場合、行き詰まることでしょう。


個性というものが、これほど強調される社会において、
例えば70~80年代のヒットソングを特集したテレビ番組や、
復刻版の商品が、なぜ一時的なブームとして流行ることがあるのか。

そこに普遍的価値があるからではありません。

自分のアイデンティティーの 『ある時期』 を、
一時的にもう一度確認することができるからです。
 
その歌や商品を聴いたり、味わったり、購入したりしたときの
自分の感性や、情景や、匂いや、味などが、
今の自分に鮮やかに甦るからです。


個性的に生きていると思っている人にとっても、
自分の軌跡を、今の自分と切り離して生きていくことはできません。

軌跡の中には今の自分にさえ、
未だ意味の解らない経験も含まれている筈ですが、

それを含めた自分の軌跡が、 『自分らしさそのもの』 なのです。

それをもし 『個性』 と呼ぶならば、
それこそが個性と呼ぶに相応しいものでしょう。



と、まぁ今回もなかなか手前勝手な解釈ですが、
自分のことをどう定義しようが、それはその人の自由だと思っています。

今回も、あくまで僕の個人的な意見であり、 
『俺は個性的だ』 と自信を持って生きている誰かの生き方を
否定するつもりも、誰かを傷つけるつもりもありませんので、
念のため、それだけは最後に付け加えておきます。





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by hiro-ito55 | 2010-12-23 22:28 | 哲学・考え方 | Comments(0)

コスモノート☆

12月15日に発売の
BUMP OF CHICKENのニューアルバム『COSMONAUT』、
買いました。
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BUMPの存在を知り、ファンになって9年あまり。
彼らの歌を聴くと元気を貰えます。

僕が、そのミュージシャンを好きになれるかどうかは、
シングルのB面の曲をいいと感じるかどうかによります。

いくらA面の曲が良くても、
カップリングの曲に共感できなければ、
アルバムを買う気になれません。

ミュージシャンの持つ世界観に、
しっかりとした奥行を感じないからです。

彼らが表現する世界観は、とても独特ですが、
例えれば、『大人の童話』のような世界観
とでも言えるかもしれません。

哲学的な思考を、日常的な情景に置き換えることで、
みんなが親しみやすいように加工し、
それを、日常の言語とリズムで表現している、
とまで言ったら言い過ぎでしょうか。
(ま、ファンですから、これくらいの『ベタ褒め』は許して下さい)

取り敢えず、彼らの今回のアルバムも、なかなかグッドです。

藤原基央曰く、『宇宙飛行士の視点で描いた』そうです。


僕も、コトバで表現したものが、
彼らの音楽のように、多くの人たちに共感してもらえるような、

そんなものになってほしいなぁ、
そんな日がもしきたら、幸せだろうなぁ、
としみじみ思ってしまいます。





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by hiro-ito55 | 2010-12-17 20:20 | 音楽 | Comments(0)

「地域」や「共同体」について ~その5~

前回10月4日に『その4』を書いてから、
2か月以上経ってしまいました。

もう忘れた方も多い、というか誰も覚えてないでしょうね、
このタイトル。


前回『その4』では、
『自己実現』 や 『個性の追及』 と、
『消費活動』 が結び付くのは、

『自己中心性』 という 『互いの性格上の類似』 と、 
『交換』 という 『人間が社会的生物であるための必然性故』 である、
と述べました。

そして、
『自己中心性に基づく交換』 は、
やがて 『合理的交換形態』 を採るようになり、
このような交換を思考する人間が一定数以上存在すれば、 
『無駄』 な交換である 『大量消費活動』 は、
社会全体としては抑えられるように働く、
というところまで述べました。

(ふ~、一息...。)


では、僕らの社会が、
時間をかけてこのような性格に構造化されてしまったことを踏まえて、

僕らはこれから、どのように振る舞えばよいのか。
或いは、どう振る舞うことが望ましいのか。


前回の内容を述べつつ、
今回からは、そのことについて少し触れていきたいと思います。



基本的な考えとして、 
『我々の社会をもう一度活性化する』 ために、
大量生産大量消費という振る舞いを、
社会全体の 『スタンダードとして』 合意し、
採用することに対しては、
残念ながら僕は否定的です。

というのも、我々の社会は現在、
一定数以上の消費者が、 『合理的消費形態』 を、
確実に採用しているという事実に留まらず、

もう一歩進んだ形態を採っていることは、前回述べました。

そしてそれは、具体的には僕らの社会が、 
『ニート』 や 『引きこもり』 が大量増加している現状にある
ということと、 

『共同体がこれ以上細分化できないところまで解体されつつある』 
という、二つの事実を指します。


まず、 『ニート』 や 『引きこもり』 に関していえば、
もはや彼らが、消費活動自体も伴わなくなっていることは、
今や誰が見ても明らかなことです。

お金が無ければ個性を発揮する自由を手に入れたり、
自己実現したりすることはできない
と考えることは、

自己の活動の原点を、 
『誰かに何かを贈ること』 よりも、 『まずは自分が得ること』 に、
重点を置いて設定していることになります。

ニートや引きこもりは、
このような設定を究極に突き詰めた人たちで、
そのような立ち位置からは、
長期的な消費活動というものは期待できません。


そして、それに加えて、
僕らの社会の人口構成が、
高齢者が多く若者が少ないという逆ピラミッド型に急速に向かい、

今や高齢者を支える 『高齢者以外の人』 への、金銭的負担が増大して、
今後もそのような状況は、『続いていく』 
という事実もあります。

このような状況では、
高齢者以外の消費者の消費活動を引き出すのは、
どんどん難しくなります。

難しくなるどころか、 『市場』 は 『縮小』 し、
合理的思考の消費者は増える一方で、
最早 『大量消費者としての大衆』 という定義自体も、
成り立たなくなる恐れがあります。


しかし、
市場から 『大量消費者としての大衆』 が 『消滅』 するという事実は、
ある日突然、 『国民的合意を得た事実』 として、
現れるようなものではありません。

その前に、 『大量消費者を物色する行為』 という前段階が、
必ず現れます。

分かりやすく言えば、 
『搾り取れる者から搾り取ろう』 とする行為が現れるということです。

例えば、 『振り込め詐欺』 や 『リフォーム詐欺』 が
高齢者を対象に頻発するのは、

大多数の 『合理的消費形態』 を採る 『賢い消費者』 が、
最早 『大量消費者としては失格』 であるからです。

賢くなってしまった大多数の消費者からは、
もはや大量の消費は期待できません。

しかしそれでも、大量消費社会で生きてきた人間には、
大量消費してくれる消費者探究への欲望は抑えがたいものです。

その結果、 『合理的消費思考』 を、
他の消費者よりも解放させやすい高齢者に的を絞り、
ターゲットにしたというのが、業者側の本音ではないでしょうか。

しかも、コミュニティーは今や希薄になり、
高齢者単独の世帯も増えていることもあり、

高齢者がお金を出す上で、 
『他の賢い消費者の影響を受けにくい状況にある』、
という 『好条件』 も揃っています。

つまり、 『振り込め詐欺』 も 『リフォーム詐欺』 も、
大量消費社会というものが終わりつつあるにも拘らず、
それを認められない人間の欲望が生んだ、 
『負の消費形態』 と言えるのではないでしょうか。

そこには、ルールも倫理観もありません。
あるのはただ、 『大量消費への欲望』 だけです。



では、僕らの社会は、
どのような形態を目指していくのが、現実的に良い方向であるのか。


それは、

『消費行動を少し犠牲にしても暮らしていける、
そんな社会へとシフトチェンジしていかなければ立ち行かなくなる』

と考え、

まずはそこから、全ての思考をスタートさせることです。

次回 『その6』 では、
その具体的なところを記述してみたいと思います。


 (その⑥につづく.....。)





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by hiro-ito55 | 2010-12-13 02:36 | 社会 | Comments(0)

『ガンダム』と『武士道』

先日、久しぶりに懐かしくなって
『ガンダム』のDVDをレンタルしました。

このアニメは、僕らの世代ではお馴染みですね。

一通り見終わった後、
何故あの頃の若者はこのアニメに夢中になったのか、

そして何故今でもファンが多いのか、
今見直してみると、何となく分かるような気がしてきました。
 
そこに、『武士道』に通じるものがあるからです(笑ってはいけません)。


物語の後半に、こんな場面があります。

地球連邦軍(主人公アムロの所属する組織)の最高司令官レビル将軍が、
敵の要塞に総攻撃をかけるため、
自軍の艦隊を集結させている時です。
(これをアニメでは『星一号作戦』と呼んでいます)

敵のジオン公国公王デギン・ザビが、
和平交渉のために僅かな兵を率いて、
その艦隊が集結している場にやってきます。

その時、艦船の窓越しにそのデギン・ザビを確認して、
レビル将軍が側近に呟いた言葉。

『敵もつらいのだな。』


或いは、こんな場面もあります。

ジオン公国公王デギン・ザビの息子、ギレン・ザビが、
敵の連邦軍を殲滅するために、
ソーラーレイという核兵器のような大量殺戮兵器を使用する許可を、
デギン・ザビに申し出ます。

しかし、この大量殺戮兵器を使用するためには、
自国の民間人20万人を疎開させなければなりません。

デギンはそのことを
『これは軍人の無能を示すものである。』
と述べ、息子のギレンを窘めます。


このアニメは、このような場面が随所に見られます。

これは、敵や弱者に対する労わり、
つまり武士道で言えば、『惻隠の情』です。

戦う敵に対しても敬意を払う、
或いは自らの行為を自省する心というものは、

戦いの場においての『美意識』の現れであり、
それをアニメというスタンスで見せたことに、
このアニメの斬新さはありました(たぶん)。

主人公や敵のパイロットが乗り込むロボットが、
(アニメではこのロボットを『モビルスーツ』と呼んでいます)
みんなどことなく『武者』の姿をしているのは、
偶然ではないように思えます。


この『ガンダム』というアニメ、
それまでのアニメと大きく異なるのは、
『人間 対 人間の戦い』であるということです。

ガンダム以前には、
例えば『黄金バット』にしろ、『マジンガーZ』にしろ、
戦うべき相手は『怪物』や『宇宙人』で、

主人公が持つ『絶対正義』の下に、
『人間 対 異生物』という戦いの構図を作り出すのが、
ヒーローアニメの定番でした。

ところが、ガンダムで描かれる『敵』は『人間』で、
主人公たちが戦う相手も人間である以上、
敵にも一理あると思えるような描き方をしています。

しかも敵にも見方にも、
『粋な兵士』 『良い奴』 『嫌な奴』がいて、
それぞれに人生観、世界観らしきものがあり、
『絶対正義』というものがそこには描かれていません。

もちろん、主人公のアムロを中心に物語を描いていますから、
主人公と仲間の正義が、話の中心にはなってはいます。

しかし、元々このアニメで描かれている戦争が始まった理由は、
主人公の所属する地球連邦という組織が、
宇宙への移民者に同等の権利を認めなかったことによるもので、

その権利を勝ち取るべく、
宇宙移民者のジオン公国が、敵として独立戦争を挑んできた
という設定になっています。


つまり、それまでのヒーローアニメのように、
はじめから主人公の側に、戦う動機としての『絶対正義』があり、
それに沿って勧善懲悪を実行していく物語である

と、視聴者に思わせて見せる設定ではないのです(たぶん)。

その物語の奥ゆかしさに、
当時の若者の多く(主に男子)は夢中になりました。


今思えば、なかなか『構造主義的な設定』というか、
小学生には分かりにくい内容であったなぁと思います。

あ、でも僕は決して『アニメオタク』ではないので、
その点はくれぐれも誤解のないように、お願いしたいものです。


では、そろそろ晩飯を食べに行ってきますので、
今回はこの辺で。

『いとちゅー、(晩飯に)行きまーす!』




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by hiro-ito55 | 2010-12-07 18:29 | 哲学・考え方 | Comments(0)

専門性と余白の部分

この業界に入って7年と数か月。

今まで病院、診療所、老健と、様々な職場を経験してきましたが、
良い意味でも悪い意味でも、
真面目な方が多いなぁというのが、ここ最近の僕の感想です。

僕らの仕事というのは、
リハビリ、介護、看護といったように、
それぞれが専門分化されていて、

僕を含めて多くの人たちが、
その中で自分の役割を果たそうと一所懸命になっています。

その分化されたカテゴリーの中で、
専門性を追求して自分たちの 『純度を保つ』 ことは、
ある意味自分への自信に繋がることであるのは事実ですし、

それはそれで良いのだけれど、
ともするとその小さな世界の中だけで思考し、
それのみで思考や行動が完結してしまいがちであることは、
多くの人たちが指摘する通りだと思います。

自分を覆っている 『職種という器』 が、
実は小さなものであるということを、
頭のどこか片隅にでも意識しておいて、

そこから 『思考のリーチ』 を
少しでも 『外』 に向けていかないことには、

自分がいつのまにか
『排他性の滲み出る専門職』 になっているかもしれない
という 『想像力』 は、僕は必要だと思います。


この 『想像力』 を持っているかいないか、
或いは、まずはその想像力の入り込む余地が、その人にあるかないか
のバロメーターを、

僕は 『冗談の通じる度合い』 で測ることがあります。



僕にはどうも真面目な場面で、
下らない冗談を考える悪い癖があり、

リハビリ中や、或いはリハビリ室を出て、
何かの用事のついでに利用者さんと出くわしたときなどには、
冗談を交えて話し込んでしまうことがあります。

特にブラックジョークなんかは
意外に利用者さんもドツボに嵌りやすく、
みんなでゲラゲラと笑ってくれる時は、爽快感さえ感じます。

今週も、リハビリにやってきたAさんが、
『(笑いながら)ちょっとこのお兄さん叱ってやってちょうだい。』
と、僕のことをBさんに訴えてましたが、

当のBさんは、
本来なら一所懸命やらなければいけないプーリーの手を止めて、
下を向きながら必死に笑いを堪えている
というやりとりがありました。

まさに 『ドツボ』 でした。

普段は真面目くさった同僚PTのMさんも、
よくこのやりとりに加わり、一緒にワル乗りしています。

彼も毎週のこの時ばかりは、目の輝きが違いますし、
利用者さんもこの時のメンバーでリハビリをする時間を、
とても楽しみにしているようです。


しかし、傍に他スタッフが居るときは、
割とこのようなやりとりは遠慮するようにしています。

というのも、
『あのリハの先生、不真面目』 という目で見られることが、
僕の経験上、往々にしてあるからです。

実際、
『私たちはこんなに真面目にやってるのに。』
と、僕への評価は随分と下がることがあるようです。

確かに、僕への好き嫌いは別にしてみても、
この場面 『だけ』 を 『切り取って』 見れば、
僕は 『不真面目』 です。

しかし、この場面を見ただけで、
評価の 『全体として錯覚してしまう』 思考の傾向が、

実は、専門分化された世界の中だけで思考し、
その世界だけでいっぱいいっぱいになってしまう、

つまり専門分野という自分の切り取った世界だけで、
自分の全てを満たしてしまう思考パターンと、
どうも相関関係があるように僕には思えるのです。

だから、真面目なスタッフ程、冗談が通じにくい
ということが、往々にしてあるのではないか。

僕が、先程述べた 『想像力』 を 『冗談の通じる度合い』 で測るのは、
そのように思うからで、

それは、
『リハビリの時間はリハビリをひたすらやらなければいけない
(と自分が思っている)リハの先生が...』
という、

『意外性』 を受け入れられる 『満たされていないスペース』 が、
その人にあるかどうか、ということでもあるのです。

まぁ、随分と自分勝手な解釈ですが。

しかし、だからといって
『笑いの効果』 を拡大解釈して、
『笑いの意味』 について説明し、説いて回ろうとも思いませんし、
その必要もないと思います。

だって、そもそも 『笑い』 を定義してしまったら、
最早それは 『自然な笑い』 ではなくなってしまいますし、

『笑い』 という行為も、
一種の 『無垢のエクリチュール』 ではないかとも思えるからです。




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by hiro-ito55 | 2010-12-04 00:11 | 作業療法 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
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