考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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ものごとの順序

朝鮮半島情勢も気になりますが、
今年のノーベル化学賞を受賞された根岸英一さん。
ノーベル賞を受賞されてから、
メディアに顔を出される姿を度々拝見します。

個人的にはとても立派な方だと思います。

ただ、最近のマスメディアの、彼に対する報道(特にTV)で思うことは、

『世界を舞台に活躍できる人間になってほしい』 
『ノーベル賞を取ることを夢見て』

といった、彼のコメントの一部だけを切り取って、
そればかりをあまり強調しすぎない方がいいのでは
ということです。

というのも、
『ものの順序が逆ではないか』
という印象を持つからです。


どういうことかと申しますと、
例えば根岸さんも、最初からノーベル賞を目指して
化学の勉強を始められたわけではない筈です。

彼も最初は
化学への興味から勉強をスタートさせて、
その勉強を進めるうちに
更に化学への興味が深まり、

次第にそれを本格的に追求したいと思うようになり、
やがて研究の道にのめり込んでいった
というのが、正しい解釈であると思うからです。

つまり、彼にとっても 
『ノーベル賞を取るために』 ではなく、 
『学ぶことへの好奇心』 から、
初期の勉学の動機付けを行なうことなくしては、

本当の意味での勉学を続けていくことは、できなかったであろう
と想像できるからです。

自分のまだ知らないことに対する 
『知的好奇心』 というものがまずあって、

勉強を進めるうちに、
それを満たしたいという願望がますます深まることによって、
『知的パフォーマンス』 というものは 『向上』 するのです。

云わば、知れば知るほどに、
自分の知らないことがあることに気づき、
その気づきが知的好奇心を刺激する。

この直向きなまでの知的営みの繰り返しが、
『学ぶこと』 の本質にはあります。

学ぶことを、
その見返りとしての 『何かと交換するため』 に、
願望するわけではないのです。


ところが、
例えば 『世界を舞台に活躍できる人間になる』 ために何かを学び始めると、

そのような目標を 『学ぶ前』 に
自らの学びへの動機付けに一旦掲げてしまうと、

残念ながら、
それ以後の知的パフォーマンスの向上は、ほとんど見込めなくなります。

これは、大学の単位を取るために授業に出る
という動機づけと似ています。

単位が欲しくて授業に出るということは、
『学び』 と 『単位』 を 『等価交換』 の場に差し出して、
天秤にかける行為に他なりません。

このような行為は、必ず 『合理的思考』 を採るようになります。

『合理的思考』とは、
いかに 『ムダ』 を省いて目的を達成するか、
その方法論のことです。

つまり、この方法論に則れば、
わざわざ苦労して授業を受けるよりは、

最低限の出席日数を満たすために、
自分が出席する代わりに誰かに 『代返』 してもらったり、
テスト直前に真面目に授業を受けている誰かのノートを
コピーさせてもらったりした方が、

単位取得には手っ取り早くて 『ムダ』 がないことには、
誰でも気づきます。

授業で学び始める前に 
『学ぶこと』 と 『単位』 は交換するものであると、
合理的思考を当て嵌めて、自らに初期設定した者は、

授業の理解度に関わらず、目標の単位が取得できるのであれば、
授業を深く理解しているか、
或いは理解しようとしているのか

といった 『学びと向き合う姿勢』 は、
最早第一の問題ではなく、
授業を受ける態度もそのように変化していきます。

残念ながら、
『このような態度』 で学びと向き合った人間が、
知的に向上したという話を、
僕は寡聞にして知りません。


何かを学び始めるにあたっては、
『ノーベル賞を取ること』 『世界を舞台に活躍できること』 が、
その動機として、まず始めにあるわけではなく、

『知らないことを知りたい』 という知的好奇心が、
学び始める前には、
まず先になければならない。

大学の単位取得もそうですが、
ノーベル賞受賞というものは、
その人が 『知的対象と真摯に向き合い続けた結果』 であり、

けして『動機』などではありません。

僕が 『ものの順序が逆である』 と申し上げているのは、
そういうことです。


『ノーベル賞を取ること』 『世界を舞台に活躍できること』
を学びの動機付けに掲げ、
それを実際に実現できるのは、
本当の天才だけです。

しかし、この姿勢を
宛も学びへの 『スタンダード』 であるかのように、
大衆に向けてアナウンスするのは、

学問を志す動機付けとしては不向きであるどころか、
本当の意味での勉強を進めていく可能性を、
阻害し損なう行為にすらなり得るのです。

であるならば、
『世界を舞台に活躍できること』 
というキャッチフレーズをアナウンスすることで、
勉学を志す若者に夢を与える

というのが、たとえ報道の目的であったとしても、
『ものごとの順序が逆である』 という事実は、
指摘しておかなければなりません。


『ものごとの順逆を履き違えてはならない』
このことは、繰り返し強調しておきます。




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by hiro-ito55 | 2010-11-28 23:39 | 社会 | Comments(0)

野獣トム

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                   ジャングルに潜む野獣。





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                  『腹減ったなぁ....』





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                  『お。発見♪ 今日のエサは.....』





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                  『..........。』





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                          『お前だぁ!』

トムよ。頼むから俺をそんな目で見ないでくれ。
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by hiro-ito55 | 2010-11-25 21:38 | ネコ | Comments(0)

『認識論』 ~その3~

前回の『その2』の続きです。

前回は、
宣長にとっては 『歌論』 が 『認識論』 でもあり、
『言語論』 でもあった というところまで述べましたので、
今回はその残りの部分です。


宣長の言語論(=歌論)の核心は、
まず 『歌というものは何か』 と考え、
そこから 『歌というもののおこる所』 まで訪ねていき、
更に 『もとの心』 まで訪ねることで、

歌とは言葉の 『出で来る所』 である
と、結論づけたことにあります。

今回は、この認識論について、以下、詳しく述べてみます。


宣長は、まず 『歌う』 という言葉を吟味し、

『實情(じつじょう)ニ文(あや)ヲナシテ云フガ歌也』
『歌といふ物は ほどよくととのひて あやあるをいふ也』

と述べています。

ここで言う 『文(あや)』 とは 
『言葉のあや』 のことでも、『言葉の技巧』 のことでもなく、
『實情ヲ導クシカタ』 のことです。

そして、なぜ実情に 『文ヲナシテ』 なのかについて宣長は、

『歌はもののあはれより出来事(いでくること)をしるべし』

として、
それは 『物のあはれを知ることだ』 としています。

そしてそこから更に、
『歌うということはどこから生まれてきたのか』 
という、歌うことの 『根源』 にまで考えを及ばせます。


宣長によれば、
日常言語は 『ただの言葉』 『ツネノ言葉』 であり、
これに対して、詩的言語は 『歌の言葉』 です。

しかし、この区別が現れる以前に、
そもそも 『うたふ』 とは、

元々 『もの』 に触れ、『ああ』 とか 『はれ』 といった
『声を長く引く』 感嘆の言葉として、
思わず漏れ出てくるものであることから、

ものに感じて自然に出てくる 『あはれ』 という感動が、
『あはれ』 では収まりきれないために、

自ずと音声を整えるように出現し、
『嘆き長むる』 言葉として出現するのです。

このような 『嘆き長むる』 言葉を整えてできたのが歌なのであり、
そしてこの原初性が、
歌うことの元々の意味であると考えたのです。

歌の源泉、
つまり歌うという行為を通した対象認識の経験の源泉は、
人がものに感じて、思わず発する 『嘆きの言葉』 だというのです。


このように宣長は、
発生的には詩的言語の方が、日常言語よりも先にあるということを、
歌うということの分析を通して明らかにしました。

と同時に、『もの』・『こと』 に触れれば、まず心が動き、
その後に、言語化されることによって、はっきりと自覚されるものである

という 『認識のプロセス』 を、
認識の仕方の源泉にまで遡ることで、明らかにしたのです。


そして、この認識のプロセスを踏まえた上で、彼の言葉、

『詠歌ノ第一義ハ心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ』

となります。


僕らの心は常に妄念で取り留めのないものです。

しかし、この散乱した心だけでは捉えきれないものに、
例えば彼の言う歌のように、
言葉によってある秩序を与えることは、

有用性の影に隠れている本来の表現性(創造性)を
有用性から独立させることです。

秩序を与えるということは、
言語によって意識化すること、
つまりはっきりと自覚するということです。

ここに、創造力と呼ばれる言語の強い力を
意識せざるを得ないことは確かであり、

僕らが言語を介してものを認識する以上は、
このように、彼が明らかにした認識の仕方で以って、
対象を捉え直してみることも、
ものに対する認識方法には必要なことであると思われます。

それは、『認識論~その1~』 で紹介した、
『「知る」 と 「感ずる」 とが同じであるような全的な認識』
に繋がる認識方法でもあります。


このような認識方法について思慮することは、
ついつい 『実用性のみ』 で対象を捉えがちな僕らにとって、
実に豊かな 『認識の切り口』 を、示してくれているのです。




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by hiro-ito55 | 2010-11-20 22:10 | 哲学・考え方 | Comments(2)

『認識論』 ~その2~

僕らが対象を認識するに当たり、
その都度採用する 『常識』 というものは、非常にやっかいなものです。

常識と呼ばれるものは、『もの』 への疑いの余地のない、
『当たり前と思われる認識の仕方』 をされたものです。

『もの』 への 『ある認識』 が常識に位置づけられるには、
その時代を生きるマジョリティーによって、
その認識方法が採用される必要がありますが、

やっかいなのは、
その認識の仕方がマジョリティーに採用された後、
『あたかも時代を超えて受け入れられてきた価値観』 
と 『錯覚』 するような、
『普遍的立場』 に位置付けられることです。

そして、普遍的立場に位置付けられた認識の仕方は、
更に進んで、昔の人々よりも今を生きる僕らの方が
『進んだものの見方』 をしている
という驕りを伴うものです。

この驕りに対しては、
僕らは常に自分の所属する文化や時代に、
その立ち位置を縛られている以上、

そしてそこから、時間的・空間的座標軸を飛び越えた、
全く 『Free』 なポジションに立つことができない以上、

そもそも時間軸や空間軸の異なる 『時代』 を、
同列に比較することに対して、
常に反省的で慎重でなければなりません。

僕ら現代人のものの見方も、
一種の 『偏見』 にすぎない側面が、多分にあるということを、
忘れてはならないのです。

そして、物事を深く認識するためには、
まずこのような 『常識を反省する』 ことから、
意識をスタートさせなければなりません。

それは言い換えれば、
『生活上の必要性によって、僕らの認識力・知覚・意識が、
常に制限を受けているということを反省する』
ということです。

僕らが相互理解の進展・深化を望むならば、
このような控えめな態度から、
物事に対する認識はスタートさせなければなりません。


そして、この認識の反省の仕方について、
前回紹介した本居宣長が、
その重要な示唆を与えてくれています。

彼の創見は、
『まず、ものを認識することではなく、
「もの」・「こと」 に触れれば、まず心が動く』
という事実から、認識論を出発させたことにあります。

そして、そうであるならば、
『人がこの世に生きて、心を働かせているという在り方に、
「物事を経験する」 という、「一番基本的な在り方」 があるはずだ』
と捉えたのです。

どういうことかというと、
一般に 『経験』 というものを考えたとき、

僕らは 『心があり、自ずから心が動く』 
という在り方で経験しながら生きている、
という所までは思いが至ります。

しかし、冒頭でも述べたように、
それが僕らにとって 『制限されたものである』 
ということには、なかなか気付きません。

ですから、それに気付き、反省することから
経験という最初の認識を捉え直そうということなのであり、

宣長の 『経験の在り方』 は、
まさにこれを反省することから出発しました。

その 『制限されたものである』 という自覚の下に、
まず物事を経験してみる。

すると、『もの』・『こと』 に触れて、
心が動かされることが分かります。

そしてその後に、認識するという
はっきりとした自覚が表れるのです。

この段階に至って、
人は初めて経験を言語化することができるのです。

彼の認識論は、
経験を通して得られた、認識する(つまり言語化する)前に現れる、
不安定な感慨から離れずにある 『知』 を、
いかに損なわずに保持していけるか、
ということを問題としました。

そして、これを育む道を
『もののあはれを知る道』 と名付け、

詠歌の道(詩作の道)を介し、
言葉の道へと展開していったのです。


つまり、宣長にとっては 
『歌論』 が 『認識論』 でもあり、
『言語論』 でもあったのです。



と、ここまで書いて少し迷ったのですが、続きは次回にします。

というのも、内容が当初の思惑よりも少しだけ長くなりすぎたためです。

文章が長すぎると、
なかなか慎重に読みづらくなってしまうものですので、
できるだけ落ち着いて読んでいただきたい僕としては、
ここで一旦、文章を切ります。

次回ではちょっとだけ踏み込んで、
この文章の続きで、彼の言語論に少し触れてみます。

次回は少しコンパクトです。たぶん.......。





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by hiro-ito55 | 2010-11-16 21:19 | 哲学・考え方 | Comments(0)

『認識論』 ~その1~

僕がこのブログでつらつらと述べて、試みようとしていることは、
一言で言ってしまえば、一種の 『認識論』 です。

つまり、
『対象をどのように認識するか、その構造を意識化して改めて捉え直す』
ことです。

僕らは普段から、
ともすると自分の意志によって、物事を理性的に捉えることを
『認識』 することだと、思い込んでしまいがちです。

確かに、主体から客体を捉えるという
固定化された彼我の在り方においては、

そのような 『意志的な方法』 も、
『対象』 を 『知る』 ことに違いありませんが、

そのような在り方が適用できるのは、
多くの場合、対象を物質として捉えようとする場合においてのみです。

科学はこの 『主―客関係』 の対象認識の仕方を、
突き詰めることで発展してきました。


ですが、物質以外の対象認識において
この在り方を適用した場合は、

認識され意識されたものは、
自身のフィルターに映し出された映像の 『焼き増し』 にすぎないことは、
鋭く自覚しておくべきでしょう。

そうでなければ、認識という行為は、
個人個人の主観によっていくらでも歪められるものとなり、
そこに他の価値観の入り込む余地はなくなってしまいます。

言い換えればそれは、
独立して存在する認識のカオスが、
人間の数だけ存在することを意味し、

我々は科学以外の認識では、
互いに対象認識の感覚を共有できないものとなってしまいます。


では、『認識する』 ということは、
もっと根本的にはどういうことなのか。

僕らが深く共鳴する認識とは、
一体どのような姿で捉えられる可能性を持っているのか。

その問に対する答の一つのヒントが、
本居宣長の認識の仕方にあります。


本居宣長という人は、『もののあはれ』 を説いたことで有名です。

しかし、彼の言う 『もののあはれ』 とは、
確かに人の 『情』 には違いないですが、

それを認識の仕方として説明した 『もののあはれ論』 は、
一般に言われるような 『文学的情趣論』 ではないことに、
まず注意が必要です。

何故ならば、宣長は 
『我執を離れないと本当の経験はできない』 のであると述べており、

これは簡単に言えば、
彼の言うことが 『感情論』 ではなく 『認識論』 である
ということを意味しているからです。

ここで、彼の言うところの 『認識する』、
即ち 『知る』 というのは、
どのような 『仕方』 なのでしょうか。

それは、『知』 のみの理性で知るということではなく、
「『知・情・意』を総合したもので捉える」
ということです。

先に述べた 『感情論』 ではなく 『認識論』 である
ということの意味は、
彼の 『もののあはれ』 の言説が、
こういった捉え方に基づくものだからです。

つまり、彼の言う 『認識』 とは、
情(即ち感慨)を離れずに、

いや、むしろ
 『感慨(情)を意識化(意)して直感(知)する』 ことである、
と言ってもよいでしょう。

この、謂わば 
『物事に対する直感や共感で満たされた感慨』 という認識を、
小林秀雄は 『無私な認識力』 と呼びました。

『無私な』 とは、
そこに自我の入り込む余地がないということです。


意志の力を借りて、理性でもって対象を認識することは、
あくまでも 『自我の内側から』 対象を捉えるという在り方であり、

外部の対象を内側に取り込むまでの間に、
『我』 というフィルターによって収受選択されてしまいます。

これは謂わば、『削ぎ落とされた認識』 なのです。

しかし、『知』 のみを強調せずに、
『知』・『情』・『意』の 『総合したもの』 で認識することは、

このフィルターの目を 『粗く』 し、
同時に自分という 『内圧』 と、
外部の対象との 『外圧』 との 『差』 を、
限りなく 『ゼロ』 に近づけることになります。

内圧と外圧の差がゼロに近づけば、
相互方向の運動と共に、

自分と対象との境界は曖昧となり、
濃度は限りなく均等になります。

これが、『無私な』 状態です。

そのような 『構え』 で対象を認識するということは、
小林の言い方を借りると、
『「知る」と「感ずる」とが同じであるような全的な認識』
であるということになります。

このような認識においては、
ものに感ずるということがどこまでも深まることによって、

これを直感し、意識化するということもまた、
どこまでも深まる作用を持っています。

更に、直感し意識化することが、
『対象を認識すること』 であるならば、

『認識すること』 もまた、
どこまでも深まることになりはしないでしょうか。

これは、対象が現前する 
『一種のrealism(レアリスム)』 
と言える認識でしょう。


 (その2につづく........)




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by hiro-ito55 | 2010-11-11 21:23 | 哲学・考え方 | Comments(0)

「濃度」の問題

ここに、AさんとBさんという二人のPT(理学療法士)さんがいます。
二人とも介護保険を利用して、
『地域』 を良くしたいという思いでは共通していますが、
それぞれの方法は、その立ち位置によって異なります。


 Aさん:『地域』 について、その本質から迫るために 『社会システム』 を研究。
     そしてその最良の組み合わせを研究するために、大学院で研究活動。
     研究では社会システムから捉え直すという方法を用いるため、
     彼の活動は、先行研究の評論から始まり、
     それぞれの各論を自分の観点からアレンジし直して、
     組み合わせ、論ずるという点に集約されていく。

 Bさん:病院勤務の一介のPTとして、自分にできることに限界を覚え、
     もっと広い視点で活動したいと考えている。
     広い視点とは、自分がそれまでに身に着けた技術を、
     ツールとして使用することで 『地域』 に貢献すること。
     具体的には、『デイサービスの起業』 を考えている。


このようなAさんとBさん。

彼らに共通するのは 『地域』 だけでなく、
両者とも 『理学療法』 という 『枠』 を超えて、
『俯瞰的視座』 に位置しようとしている点です。


ここで、二人がやりとりをします。


Aさんの意見はこうです。

Aさんは現在、自分たちが一人でできることは
所詮未だ 『各論』 にすぎず、
もっと全体的視野に立たなければならない
と考えています。

現時点では各論である以上、
その立場に立脚したままの自分たちの行動は、
それ以上の意味を持ってはならないと考え、

そうであるならば、
そこから 『地域とは』 等と尤もらしい意見を述べることは、
些か分を弁えない言動に映ります。

ましてや、
『起業して成功する秘訣とは』 といったようなことをPT自身が語り出せば、
それは地域を 『市場原理』 で捉えることに他ならず、
我々が最も忌避すべき言動である
と考えています。


それに対して、Bさんの意見はこうです。

PTという 『枠』 を超えて、俯瞰的視座に立つことは重要である。

しかし、PTという 『枠』 を外から眺めて、
そこから意見を言うだけでは、
結局 『何もしていない』 ことと同じ。

せっかく枠を超えられるなら、具体的に自分が行動して、
そこから見える世界から、例え間違っていたとしても、
地域を変えていくアクションを起こすことの方が、
もっと重要である。


僕には、これは 『濃度』 の問題として映りました。


例えば、ここに 『ウィスキー』 があるとします。

ウィスキーを作る職人さんは、穀物を原料とし、
それを酵素の力で分解して糖化し、モロミを加えて蒸留した後に、
樽に寝かせて熟成させます。

こうして、『純度の高い』 ウィスキーを製造します。

一方、製造されたウィスキーを客に飲ませるバーテンダーは、
例えば水を入れて 『水割り』 にしたり、
氷を入れて 『ロック』 にしたり、
ソーダを入れて 『ハイボール』 にしたりして、

客が飲みやすいようにアレンジして、
ウィスキーを提供します。


『ウィスキー』 を 『地域』 に例えるならば、
Aさんは 『ウィスキー職人』 で、
Bさんは 『バーテンダー』、
客は 『地域の人々』 
といったところではないでしょうか。


純度の高いウィスキーを、そのまま客に飲ませるだけならば、
バーテンダーは要らない。

だから、バーテンダーは様々にアレンジして、
ウィスキーの 『純度』 を下げ、客に提供する。

客は自分の好みに合った飲み方で、それを楽しむことができる。

けれども、それが可能なのは、
元々、純度の高い良質のウィスキーというものがあればこその話で、

その製造を担当するのが、ウィスキー職人さんです。

ですから、バーテンダーが職人さんに、
『もっと飲みやすいように、純度の低いウィスキーも作ってくれ』
と言っても職人さんは困りますし、

逆に職人さんが、
『水で割ったりしてウィスキーの純度を下げると、
ウィスキー本来の良さが消されてしまう。ストレートで提供してくれ。』
とバーテンダーに要求しても、
これまた困ってしまいます。


ここには、ウィスキーを 『共通項』 とした、
『職人』 『バーテンダー』 『客』 といった 『棲み分け』、
つまり 『ニッチ』 が存在しています。

そしてそれぞれは、それぞれで独立して存在しているのではなく、
ウィスキーという共通項で 『通い』 合っています。

そのように
『生態学的にグラデーションを描くもの』 として、
これが構造化されていると見るならば、

AさんとBさんの議論は噛み合う筈がありません。

何故なら、この議論を続けることの根底には、
お互いの立場を 『均質』 に向かって切り取ろうとする
そういうベクトルが内包されているからです。

このベクトルは、
ニッチを構成して基礎づける 『通い』 とは反対の
『奪い合い』 の方向に作用する力を持っています。

立場の異なる両者の議論がそのような方向に働けば、
ニッチの性格は弱まって、
代わりに 『断絶』 が強調され、構造化される危険が増大します。



結局、議論は途中で終了しましたが、
終了したのはお互いの意見が出尽くしたのではなく、

このような危険性をAさんとBさんが、
互いに途中で感知したからではないか、
と僕は勝手に想像してみました。

試しにBさんに上記のウィスキーの例え話をしたら、
笑って聞いてくれましたので、
あながち的外れの見解でもなさそうです。

因みに僕は全くの 『下戸』 なので、
お酒の話をしていたらちょっと不快な気分になりました。
 
ゲップ......。




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by hiro-ito55 | 2010-11-07 19:21 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー