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追悼 レヴィ=ストロース


Claude Lévi-Strauss(1908~2009)
クロード・レヴィ=ストロース。ブリュッセル生まれの人類学者。
著書に『構造人類学』、『野生の思考』、『神話学』、『悲しき熱帯』など。

レヴィ=ストロースが亡くなって、
10月30日でちょうど一年が経ちました。

彼は、ソシュールに始まり、
ヤコブソンへと受け継がれた『構造言語学』 における 『音韻論』 を、
人類学という分野において発展させ、

今日一般的に言われる意味での 
『構造主義』 を作り上げた人です。


構造主義とは、非常に乱暴な言い方をすれば、
『我々は常に歴史的、空間的な制約の中に生きている。
 そのため、真に客観的・普遍的に物事を捉えることはできない。
 そして、そのように世界を見るならば、
 Aという立場に立脚した人間が、Bという立場に置かれた人間よりも
 常に正しく、普遍的に物事を見ていると言い切ることは不可能であり、
 論理的にも基礎づけることはできない。』
という、

相対主義が跋扈する今日においては、
半ば常識のように捉えられている『視点』を、提示しています。


レヴィ=ストロースは、
日本には1977年に初めて訪れて以来、
その後、数度に渡り滞在しています。

彼はまた非常な親日家でもあり、
日本の文化や神話などにも深い洞察を加えています。

特に1988年に来日した際は、
京都で 『混合と独創の文化』 と題した講演を行っています。

そこで彼は、『古事記』 や 『日本書紀』 などの日本の神話に触れ、
日本の文化の本質についての考察を述べています。

その中で、
日本の神話における特徴を 
『生と死との大きな対立を述べている』 
と分析し、

その対立を、
『交換』という行為において『中和』し、
中和したものは双方の『二重性を含んでしまう』ために、大きな代価を支払う。
と述べています。

そして、この対立を、
『空間の対立』 と 『時間の対立』 という、
次元の異なる対立項に分けて考察し、

空間の対立に周期的なリズムを与えることで、
再び時間の世界に属するという 『円環』 が与えられることにより、
その二律背反に解決が図られる。
と、分析しています。


このような分析から、
日本はその内部においては 『出会いと混和の場所』 であり、

また、外部においてはその地理的な位置から、
貴重なエッセンスだけを取り込むことのできる 
『フィルター』 の役割を果たしてきたとし、

このような日本の特質を、
『シンクレティズム(混合)とオリジナリティ(独創)の反復交替』
によって規定されるものである
として、

そのことが
『世界における日本文化の位置と役割を規定するのに最も相応しい』
と結論付けています。


彼の異文化に対する分析も然ることながら、
卓越なのは、西洋人にとっては 『質』 の異なる日本文化に対して、
オリエンタリズム的な視点で臨まず、

むしろ、それを超えた視点で語ろうとしたことです。

その視点は、『親和』 という言葉に置き換えられると思います。

『親和』 とは、
『その文化に属する人たちが感ずるのと同じように感じようとした』
ということです。

彼は日本語を話すことはできませんでしたので、
英訳された古事記や日本書紀を通して、

日本の古代人が感じた世界観を、
そのままの形で感じ取ろうとしたのでしょう。

この姿勢は、外部からの 『分析』 という視点を、
ある意味超越していなければ採れない構えです。

何故なら、外部からの分析という行為は 
『分析する主体』 と 『分析される客体』 を作り出すため、

異文化理解にこの関係を持ち込むことは、
『西洋人から見た日本』 という枠の中で思考することを意味し、

飽く迄、 
『西洋人にとって、意味のあると感じられるものだけが抽出される』 
という構図を描くことを意味します。

そして、これこそが、オリエンタリズムの思考なのです。


もともと 『質』 の異なる異文化に対して、
主体からの一方的な解釈を許さず、

『異質』 には 『異質』 の 『視点』 があり、
そこから見える世界が、我々西洋人と違うのは当たり前のことであり、

それは、本質的に優劣を競うものですらないということを、
彼は、人類学の基本姿勢として貫いてきました。

そして彼は、
自分が西洋文化圏に属する人間であり、
そこからの視点から完全に離れることは不可能であることを自覚しながらも、

異文化を理解するこのような思考に辿り着いた、
そのバランス感覚たるや、正に卓越の一言です。

相対主義そのものには充分に注意しつつも、
彼が残した構造主義的な視点を、彼からの贈り物として、
『質』の異なる『医療人』同士の『チーム医療』に生かせていければ、
面白いのではないでしょうか。




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by hiro-ito55 | 2010-10-31 21:49 | 哲学・考え方 | Comments(0)

「通い」と「断絶の構造化」

地域、家庭、職場(教育現場)。

この三つの仕組みが、それほど明瞭な境界線を持たないことで、
『通い』 のバランスのうちに社会というものが成り立っていた、
という側面は確かにあると思います。

しかし現代は、このそれぞれの関係性が希薄になっています。

関係性が薄れるということは、
抜け道がどんどん無くなるということですので、

それぞれの仕組みは、
それぞれにおいて 『自己完結型』 にならざるを得ないことを意味します。

これを、僕は 『断絶の構造化』 と名付けます。

外のシステムや世界との断絶については、
『地域や共同体について』 の記事の中でも繰り返し述べた通り、

個人レベルにおいても、他者との断絶を繰り返し、
自己完結型の人間が大量に再生産されています。

ひとつの個体から、
或いはひとつの立場から世界を主張し、

それを個性と称して、
自分を中心に 『同心円状に拡大』 していくという在り方が、
殊更強調されるのは、現代社会の病症とも言えるでしょう。

そして、外との関係性が断絶され、運動性が内側に向かう、
このようなベクトルを持った 『自己完結型』 の在り方は、
何も個人レベルの話に留まらず、
社会全体を巻き込んだ形で表面化しています。

この 『自己完結型』 に向かう仕組みが、
その内部で目指すものは何か。

それは、『完全主義』 です。

その中にいる構成員が望む望まないに関わらず、
必ずその仕組みは、自己の中での 『完全・完璧』 を目指します。

外部との 『通い』 が希薄になり、
自身の中で世界が完結する方向に運動が強調されれば、

その器全体から、そのように構造化されていくのです。

恐らく、
近年急増するモンスターペイシェントや、モンスターペアレントも、
この 『断絶の構造化』 と無関係ではありません。

彼らは何故、『キレる』 のか。
何を恐れてそのような在り方になるのか。

僕には、
彼らは 『完璧なお客様』 『完璧な親』 を演じようと、
強迫的に駆り立てられているように見えます。


『完璧』 を自作自演しなければ、誰も自分をフォローしてくれない。

それを恐れるあまり、自身の不完全さが許せず、認められない。

のみならず、
ひとつの個体(立場)から、
外部に不完全さの全ての原因があるかのごとき主張をする。

要するに他責的になるということです。

そのように駆り立てられているように見えます。

ここに、『断絶の構造化』 による 『完璧・完全な個体化』 への
ひとつの希求の形が、
痛々しいまでに、如実に表れているように思えるのです。


戦後、冒頭三つの内でまず力を弱めていったのは、『地域』でした。

それは、大量の若者の、都市部への集団就職という形で、
表面化しています。

それでも、職場が地域の代用品として機能していた頃は、
まだマシでした。

終身雇用制度がほぼ崩壊した現代では、
職場は最早、曲がりなりにも
地域の 『投影体』 としての 『幻影』 ですら、
演じきれなくなっています。

それも、
自己実現を目指す大量の個体を抱え込んだ企業が進んだ、
当然の帰結といえばそれまでですが。

若者が大量に都市部へと流れていき、
地域が社会機能を失っていくことで、
僕らの社会は 『断絶』 の色合いを強めていきました。

『断絶』 は、
外に捌け口のない自己完結的な閉塞感を生み、

また個人レベルでも、
モンスターペイシェントやモンスターペアレントのような、
『完全・完璧を希求する個体』 を生み出してきました。


歴史を振り返れば、
個人レベルでの 『断絶』 と、
地域、家庭、職場(教育現場)相互の 『断絶』 は、

長いスパンで見れば、ほぼ同時進行的に進んできたことが分かります。


現代は、『断絶が構造化』 している社会です。

それを、尚古主義的に、
昔の姿そのままに戻すのが良いとは思いませんが、

例えば成年後見制度のように 『制度化』 したものを、
『通い役』 として、そこに当て嵌めただけでは、

『通い』 の構造は
根本的なところで、立て直しを拒んでいるようにさえ感じます。



渡辺京二著 『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー 2005)は、
江戸末期から明治初期にかけて、
日本を訪れた外国人の目を通して書かれた見聞記を、
詳細に整理したものですが、

そこで彼は二人の外国人の記述を紹介し、次のように述べています。

・『(日本の)家は通りと中庭の方向に完全に開け放たれている。
 だから通りを歩けば視線はわけなく家の内側に入り込んでしまう。
 つまり家庭生活は好奇の目を向ける人に差し出されているわだ。
 人々は何も隠しはしない。』

・『日本人の生活の大部分は街頭で過ごされ、従ってそこで一番よく観察される。
  昔気質の日本人が思い出して溜息をつくよき時代にあっては、
  今日ふさわしいと思われるよりずっと多くの家内の出来ごとが
  公衆の目にさらされていた。...(中略)....
  家屋は暑い季節には屋根から床まで開け放たれており...(中略)...
  夜は障子がぴったりと引かれるが、
  深刻な悲劇や腹の皮のよじれる喜劇が演じられるのが、
  本人たちは気づいていないけれど、影に映って見えるのである。』

・『家屋があけっぴろげというのは、
  生活が近隣に対して隠さず解放されているということだ。
  従って近隣には強い親和と連帯が生じた。』


日本の社会を根本で基礎づけるものは、『通い』 の性格です。

『断絶が構造化』 し、
一人の人間の 『個性』 にその救いと責任を求めること
を強調する現代に生きる僕は、

正直、これが自然に行われていた社会を、
羨ましいと思わざるを得ません。





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by hiro-ito55 | 2010-10-26 23:16 | 社会 | Comments(0)

心のオアシス

           先日、久しぶりに実家に帰りました。
           すると、玄関で早速のお出迎えです。⇓
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                  「むほほほほ。待っとったぞい(出番を)。」



           ストレスの多い毎日で、こいつには本当に癒されます。
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                     「だって暇なんだも~ん♪」


           たまに会ったりすると、こいつに愚痴なんかこぼしたりします。
           また大人しく聞いてくれるんですよ、これが。
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                   「もっとブログで紹介してぇ~♡♡」



              僕の心のオアシスです♪
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                   「てか、愚痴なんかいいから俺の話きけよ」




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by hiro-ito55 | 2010-10-21 18:51 | ネコ | Comments(0)

姿を変えるグローバリゼーション

グローバリゼーション
という言葉を耳にするようになって久しいですが、

グローバリゼーションとは、一言で言ってしまえば
『社会、文化、経済など地球規模での均質化を図る』 
ことです。

ヨーロッパの大航海時代に始まったとされるグローバリゼーション、
第二次世界大戦までは、
『軍事力』 をその実現手段として用いてきました。

特に近代以降は、帝国主義と呼ばれるイデオロギーの下、
植民地化によってグローバリゼーションを実現しようとする動きが、
世界規模で加速していきました。

ところが、二つの世界大戦により、

軍事力を背景にしたグローバリゼーションは、
実現どころか、

種の滅亡の危機が現実味を帯びるところまで、
事態が進展しました。

その結果、グローバリゼーションの方法は
その姿を変えました。

では、その方法とはなんなのか。

『それ』 は 『経済に特化』 した 『資本主義という方法』 
に形を変えたのです。

『経済』 を支配するものが、世界を支配する
という 『平和的な』 構図を描くことで、

それは実現可能な手段として、
世界規模で展開されてきました。

しかし、それもリーマンショック以後の現在では、
少し勢いを失いつつあるのかもしれません。

しかし、
これからもグローバリゼーションは止まらないと仮定すれば、

それを実現する手段として、
市場経済によって、最も選ばれる可能性の高い分野は何か。

確信はありませんが、
それは、恐らく 『食糧』 の確保の展開であると思われます。

この現象は、表面化するとすれば、
『食糧地の確保』 から始まって、
やがて 『食糧技術の確保』 へと発展する
一連の流れをとるでしょう。

食糧を確保するものが、
グローバリゼーションの中心に位置することができる。

つまり、これは 『食糧地の奪い合い』 から始まって、
『技術の奪い合いに発展』 していくということを意味します。

これは現在はまだ不可視レベルの現象かもしれませんが、
ミクロレベルでは既にその動きが出ているように思います。


例えば、最近、農業を始めることがブームとなりつつありますが、
何故、今 『農業』 なのか、
と考えてみる。

それがブームとなるには、
そこに、共通する何らかの 『リズム』 が流れている筈ですが、
僕にはどうもそれがよく分かりませんでした。

しかし、この現象を
グローバリゼーションというイデオロギーと結びつけて考えれば、
少し納得がいきます。

本格的な農業でなくとも、
家の庭を使った菜園や、
田舎の土地を複数の人で借りてオーナー登録し、
作物の収穫を体験する人たちも増えていますが、

このような行動が、
地球規模で考えれば不可聴音レベルといえども、
拡大しつつある背景に、

人間の防衛本能というものが関与しているように思われるのです。

一人の人間に例えれば、
危険を察知してそれがまだどんな危険なのかは分からないが、
身体のセンサーは危険という信号を確かに伝えて来ている
という無意識レベルの防衛段階です。

農業がブームとなる現象が、
いわば、まだそれ程表面化されていない、
来るべく新たなグローバリゼーションへの、
大きな流れに備えるための 『前段階の』 防衛意識に見えてくるのは、
僕だけでしょうか。




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by hiro-ito55 | 2010-10-17 17:48 | 社会 | Comments(0)

経験の仕方を考察してみる

前回の続きです。
前回の最後に挙げた
『実在を実在としてそのままに経験する視点』 とは、
どういう種類の視点なのか、についてです。

宣言した通り、
やはり哲学的な内容になってしまいましたので、
読む人によっては、少し分かりづらいと思いますが、

慎重に読んでいただければ、『何となく分かる』 と思います。

この 『何となく分かる』 という 『親和感』 を、
僕は結構重要視してまして、
できれば同じOTの方にも、読んでいただきたいと思っていますが.....。

前置きはこれくらいにしておきます。



科学が発展して、僕らの生活が、
当たり前のようにその恩恵に携われるようになってきたのと比例して、
人は 『もの』 を、物的な在り方として捉える傾向が強くなりました。

その証拠に、僕らが日常 『もの』 という言葉から、
まず思い起こすのは、

多くの場合 『物質』 としての 『もの』 です。

つまり、現代人の 『もの』 との関わり方の大きな特徴は、
『もの』 に対して、『物質なもの』 
或いは、『実利的なもの』 
としての関わり方をする傾向が、強くなったということです。

ですので、
この記事で言う 『もの』 とは、
『対象のこと』 ぐらいに思考を広げて読んでいただけると、
以下、分かりやすいと思います。

実利的というのは、身近な例を挙げるとすれば、
例えば 『単位を取得するために授業を受ける』 
といったような関わり方のことです。

そのような関わり方をする人たちにとって、
単位を取得するために重要なのは、

①出席率を確保すること 
②テストに出そうなポイントを押えること

で、そのような観点で授業を受けるようになります。

このような、目的志向型の観点に立脚すれば、
しばしば、自分にとって有用である実利的な関わり方が優先され、

目指す 『目的』 によって、
『方法』 や 『手段』 の内容は変質させられるのです。

このような在り方、
つまり 『目的』 よって変質する、『もの』 との関わり方は、

現代人である我々の、
あらゆるものとの関わり方に影響しており、

哲学者Martin Heideggerはこれを、
『物の守りが失われている状態』 
と表現しました。

『物の守りが失われる』 とは、
上記の例でいえば、

授業の持つ 『知的思考の往還の場』 という在り方が、
単位を取得するという目的によって、
『①と②の場』 という在り方に変質し、

授業という 『もの』 の本来の在り方、
つまり授業の 『あるべき姿』 が、
経験されなくなるということです。


僕らは日常、
この 『物の守りが失われている』 在り方に慣れてしまっています。

『経験』 することと 『人生』 は同義であるならば、
僕らは、その人生を通してほとんどの経験が、
目的によって歪められている
と言ってもよいかもしれません。

しかし、目的によって歪められる経験は、
経験という実在(リアリティー)を感じる行為の中の、
ほんの一部分であることは、忘れてはなりません。

どんなものでも、
ものにはそのもの本来に備わっている性質というものがあります。

僕らが、目的という色眼鏡を翳してそのものに触れない限り、
ものはその本来の性質を変えず、
ただそこに存在しています。

そうであるなれば、
もの本来の存在(実在)を感じるには、
自分の主観を排して触れなければなりません。

言うなれば、『主観を突破した経験』 を通さなくては、
本質的な意味でのリアリティーを感じることは
不可能なのです。

小林秀雄は、これを
『知ると感ずるとがひとつであるような、全的な経験』
という言葉で表現しました。

それは、例えばこんなことです。
芭蕉の 『あかさうし』 の中の一文です。


    『松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、
     師の詞のおりしも私意をはなれよといふ事也。.......
     習へと云ふは、物に入りてその微の顕はれて情感ずるや、句となる所也。
     たとへ物あらはに云ひ出ても、そのものより自然に出る情にあらざれば、
     物と我二つになりて其の情誠にいたらず。
     私意のなす作意也。』


訳さなくとも、意味の大体は分かると思いますが、
芭蕉が言いたいのは、
    『例えば、松そのものの中に我が身が入ることができれば、
     松自身が語ることを聞くことができるように、
     人間が世界の、或いは宇宙の、特別な中心となっている
     という狭い自我意識から考えるのではなく、
     自分の心を開くこと、または根元的なものに身を投じることが、
     経験するということなのである』
ということです。

詩や芸術というものは、
ものや景色に対して、
ともすればこちら側から抱く主観的な表現と捉えられがちですが、

芭蕉はこの主観を捨てて、
『そのものの身になれ』 と言っているのです。

前回の記事で紹介した
『私心私意を捨てよ』 とは、

リアリティーを感じるための 『構え』 であり、 
『そのものの身になる』 という 『全的な経験』 
をするための手がかりなのです。

しかし、『そのものの身になれ』 ということは、
現代人の思い描きがちな 『擬人化』 
のことではありませんので、
そこは注意が必要です。


と、ここまで書いて、続きは次回に譲ります。

勿体つけるわけではありませんが、
もの(対象)をリアルに感じる視点の、
なんとなく触りぐらいは、分かっていただけたでしょうか。


今回も、最後まで粘り強く読んで頂いた方、
ありがとうございます。




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by hiro-ito55 | 2010-10-11 21:29 | 哲学・考え方 | Comments(0)

視点を変えるのも、いいかもしれません

人間関係においても、ものとの関係においても、
主体と客体という関係を成立させ、
主体が客体を捉えるという在り方は、

相手を分析的に見るという方法においては、
有効に働きます。

僕らは、知らず知らずの内に、
このような見方・在り方に慣れてしまっています。

それは、科学の発展と無関係ではありません。

科学はその特徴として、
対象を何らかの方法で計量化することによって、
それを反証が可能な事物に置き換えます。

そして、置き換えられた対象は、
「人間の役に立つ」という基準のもとで、
ジャンルごとに細分化されたり、体系化されたりします。

そしてそれはなにも、科学者だけに限った行為ではありません。

例えば、我々が携わる医療の世界では、
臨床の場においてEBMということが
盛んに言われるようになっています。

そして僕ら臨床家は、
科学的根拠に基づいた医療技術を、そこで実際に使用し、
実践していかなければならない。

それを追求することが、医療の発展に与し、
ひいては社会全体の福祉の発展に繋がる。

そう僕らは信じて止みません。

全て、人間の役に立つように、
或いは、患者や利用者の役に立つようにする
という目的を達成するためには、

自分の行為を、
或いは患者の行為を 「分析的に」 捉え、

治療という行為に変換することが、
極めて有効な手段であると信じています。

ざっくり言ってしまえば、
その 「分析的な視点をあらゆる行為に拡大すること」 によって、
現在の医療は基礎づけられてきました。

しかし、実際に現場に立って仕事をしていると、
その 「分析的な視点」 では 「分からない」 ことがある
ことに気づかされるのもまた、事実です。

「痛み」 の訴えなどはその良い例かもしれません。

患者の訴える痛みに対して、
例えば、鎮痛剤として用いられるロキソニンやボルタレンが効かないのに、
偽薬が効果的であった、
という臨床報告もあります。

何故、このようなことが起こるのかについて、
現代医療の持つ 「分析的性格」 や 「心身二元論」、
「機械論的身体観」 などでは、
なかなか説明し尽くせるものではありません。

むしろ、そのような分析的視点では 「見えない」、
という事実があることを認識し、

そこから問を立てる方が、
僕らの思考には、有効に作用するのかもしれません。

それは具体的には、
「患者の役に立つ」、「治療の役に立つ」 といった分析的視点から、
敢えて一旦 「離れてみる」 ということです。

言い換えれば、
目的を持った 「実利的視点」 を離れて、
「実在を実在としてそのままに経験する」 
という構えを採るということです。

そのためには、
主体と客体という関係を一旦、反古にしなければなりません。

そしてこれは、臨床の場でしばしば、
「無駄」 な行為として表面化します。


僕と同じような視点で考える方は、
感覚的になんとなく分かると思いますが、

作業療法は結構、一見すると 「無駄」 な行為が多いです。

例えば、以前の 「リハビリの歩行練習にて」 という記事の中で、
「ナンバ歩行」 について触れましたが、

リハビリでナンバ歩行を練習したからといって、
その後の施設生活や在宅生活で、ナンバ歩行をすることは、
まずあり得ませんよね。

それよりも、
実用的な移動手段を練習した方が、「理」 に適っています。

ですので、実利的な視点から捉えれば、
僕の行為はどうしても 「無駄なこと」 のように見えます。

一応、念のために断っておきますが、
僕は毎日こんな無駄に見えることばかりをやっている、
というわけでもありません。

ひとつの見方を過剰に拡大適用する程、
僕の思考は停止していませんし、

第一こんなことばかりしてたら、
上司や他部署の方から、
怒りのロケットパンチ(ブレストファイヤーでもいいんですが)
が飛んで来るやもしれませんので。

ま、くらってみたい気もしないではないですが、必殺技なんで...。


話は逸れましたが、要はバランスの取り方なのです。

実は、臨床的に行き詰っているOTさんは、
この 「分析的な視点」 と、
「実在を実在としてそのままに経験する視点」 との、

「バランスの取り方」 に悩んでいる方が、
割と多いような気がします。

このバランス感覚を、どう養うか。

そのヒントになるのが、
「自分自身の経験の仕方を、考察してみる」
ということであり、

ポイントは、その 「考察の仕方」 にあります。

しかし、どうやらこのままいくと、
哲学的な話になりそうなので、

「実在を実在としてそのままに経験する視点」 とは、
どういう種類の視点なのか
については、

次回の記事に譲ることとします。

その代り、
松尾芭蕉の有名な言葉と、俳句を載せてそのヒントとし、
今回の〆にしたいと思います。

興味ある人は考えてみて下さい。

 『私心私意を捨てよ』
 『よくみれば なずな花咲く 垣根かな』

 *なずな:ペンペン草のこと。何処にでもあるような有り触れた草。




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by hiro-ito55 | 2010-10-07 21:07 | 哲学・考え方 | Comments(0)

「地域」や「共同体」について ~その4~

前回、「その③」で述べた

『「個性の追及」 や 「自己実現」 と、
 「消費活動」の結びつきを究極に突き詰めれば、
 最早、消費活動という交換自体が成り立たなくなる』

とは、例えば次のようなことです。



「自己中心的な交換」 という原則に従えば、
自分の望む本当の自分を手に入れたいという願望は、
交換の場に差し出されることによって、

それに見合うだけの等価の何かを必要とします。

その等価に何を充てるか。

努力や忍耐という 「苦役」 である、
というのは比較的健全な答ですが、

残念ながら現代社会では、
それは結果ではなく 「プロセス」 として処理されます。

飽く迄、目標となる自分というものは、
常にそのプロセスの 「先に」 なければならない。

そして、差し出された努力や忍耐という苦役が、
大きければ大きいほど、
その交換によって齎される 「結果」 もまた、
大きくなければならないのです。

初期設定でプログラミングされた 「自己実現状態の自分」 は、
「小さな結果」 ではないですから、

それは等価交換という 「場」 の持つ
当然の帰結と言えます。

そして、この交換の大きさは、
自己への求心性が大きいほど、強力な運動になります。

このような交換のサイクルを成立させるには、
差し出すものと差し出されるものとの間に、
常に 「等価である」 という緊張関係が強いられます。


そして、
これをプロセスと捉えるということは、
この緊張関係を持続させることに他なりません。

しかし、この緊張関係を延々と持続させられる程、
人間は強くはないし、素直でもありません。

人間の弱さや狡賢さは、「プロセス」 を端折って、
結果を早く手に入れる方法を模索するように働きます。

その行為は 「合理的」 という言葉に
置き換えることができます。

ここでいう合理的とは、
最少の苦役によって、最大の結果を齎す方法のことです。

最少の苦役によって、
最大の結果を齎す合理性というものは、

例えば書店に並ぶ 「一年で〇〇万円稼ぐ方法」 といった類の、
「マニュアル本」 に顕著に現れています。

マニュアルというのは、「How to」 のことですから、
これに忠実に従うというのは、
一種の 「思考停止状態を作る」 ということです。

やや逆説的ですが、
「合理的」 に 「思考」 するほど、
思考は 「停止」 を目指すのです。

自ら思考する、
いわば手探り状態を持続するのは、
メンタル的にもフィジカル的にも負荷が大きいですから、

これを停止状態に追い込むということは、
この負荷を最小限に抑えて、
目的達成まで端折ることができそうな気にさせてくれます。

そして、自己実現までの道のりを、
平らにして圧縮するわけですから、

結果として、
その間の苦役を伴う負荷も圧縮され、
取り交わされる交換という行為も、限りなくゼロに近づきます。

つまり、
「合理的な交換方法」 を究極に突き詰めれば、
大きな結果を 「無時間的」 に求めるような交換が、
優先されるように働き、

小さな結果しか得られない交換は、
自己実現の手段としては 「無駄」 として、
限りなくゼロ査定され、カウントされなくなるということです。

自己中心的な交換というものは、
このような合理的形態を採ります。

その結果、
「ほとんどの交換を省略」 することになりますが、

前回 「その③」 で述べたように、
人間が社会性を持った生き物である以上、

必ず外部との 「交換」 という運動を伴うのならば、
少なくとも、「何か」 を差し出さなければなりません。

しかもそれは、思考停止状態でも交換できる
「合理的なもの」 でなくてはならないので、

その差し出すものは、「記号」 以外にはありえなくなります。

それは 「お金という記号」 です。


ここにおいて、
「自己実現」 や 「個性の追及」 と消費活動が、
自己中心性という互いの性格上の類似と、

「交換」 という、
人間が社会的生物であるための必然性故に、
結び付くことになります。


そして、まず交換を促進するためには、
より多くのお金を手に入れることが、
最優先課題として思考されます。

それまでの間、
交換は一旦 「保留」 にされるわけですから、

ここで、
お金を稼ぐことが目的化するという、
本末転倒な事態が起こります。

それは、消費活動を極力抑えた形で表面化します。

我々人間が、
消費活動を伴う生き物であるとすれば、

このような 「自己中心的性格をもった交換」 を思考する人が、
一定数以上存在すると、
社会全体としては大量消費活動は抑えられます。

何故なら、「大量消費」 というのは、
無駄な交換を促進するということでもあるので、

合理的な交換ではないからです。


(その⑤につづく....)




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by hiro-ito55 | 2010-10-04 20:17 | 社会 | Comments(0)

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