考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

hiroyan55.exblog.jp
ブログトップ

<   2010年 09月 ( 9 )   > この月の画像一覧

久しぶりのブログ更新です。

別にサボっていたわけではなく、
この10日間程は、色々と考えることが多かったことと、
何故か忙しかったことが原因です。

ですので、
もし楽しみに待っていてくれる人がいたら、すみませんでした。

今回は、3度目の 「地域や共同体について」 です。

またまた、前回の続きとして
読んでいただけるとよろしいかと思います。



共同体の細分化が加速していったひとつの原因は、
「個性の追及」 や 「自己実現」 という名の、

病的なまでのイデオロギーが、
戦後急速に僕らの社会に蔓延したことにあります。

そして、そのイデオロギーが
消費活動と結びつくことによって、

消費主体の若年化と、
より個人レベルへと細分化が進み、
加速していったことにあります。

それは同時に、
「もの」 や 「ひと」 の価値が相対化され、
下がり続ける歴史でもあったわけですが、

消費主体を個人という、
共同体にとってこれ以上分割できないところまで
細分化していった結果、

どのようなことが起こったでしょうか。

消費活動を伴わない、ニートやひきこもりの大量創出です。


人間の 「社会性」 を確保する
最も基本的な行為は何か。

それは、
「自分と、自分以外の他者との交換」 
という行為です。

言葉であったり、
食べ物であったり、
お金であったり、

自分以外の存在と 「何か」 を交換することで、
人間は自分の存在を確認することができます。

自分が 「何か」 を送りたいという願望があって、
それを受け取る相手が存在し、

更に送られたその相手が、
別の 「何か」 を自分に送り返してくれる。

その送り返された 「何か」 を自分が確認して、
そこで初めて、
人は自分の 「何か」 が、
自分以外の存在と確かに繋がっている

ということを、確かめることができる。

人間の社会性とはそういうものです。


例え自分の周りに100人の人間が居ようとも、
お互い言葉も心も物も一切通わせられない、

つまり
交換という行為が一切できない状況であるならば、
それは社会とは呼べません。

絶対的な孤独とは、
他者と何も交換できない状況であることを意味し、

そうであるならば、
「そこ」 にいる101人は、最早人間ではなく、
ただの「記号」なのです。

自分の周りを、
この 「記号」 だけで囲まれれば、
人間は自分の存在を確認する手立てを失います。

この 「交換の場」 という、
社会の基本舞台から降り、

自分の周りを 「記号」 で固めた者が、
ひきこもりと呼ばれる人たちです。


では、消費活動の動機は何か。

これも、「お金」 と 「何か」 を 「交換したい」 
という願望です。

もっと言えば、
「自分の手に入れたいものとお金を交換する」
という願望です。

この 「消費活動」 も、
人間の社会行為のひとつであるため、

「交換」 という行為で成立する
という性格を持っています。

ただ、消費活動の持つ 「交換」 というものは、
消費主体にとって、
「等価であるかそれ以上の価値を持つものとして願望される」
という事実において、

非常に 「自己中心的な性格」 
を持っていることを、忘れてはなりません。

そして、「個性の追及」 や 「自己実現」 というものも、
追及されたり、実現されたりするものが、
「私」 という個人に還元されていくものである以上、

「個」 や 「自己」 という 
「個人」 のフレームへの求心性の強さを持っています。


つまり、
両者は 「自己中心性」 という性格を持っている点で、
その性質は非常に類似しているのです。


前回、「その②」で、

『一旦、他人との関係を 「断絶」 するところから世界をスタートさせ、
 その断絶から生まれた僅かな差異を、自分の個性の断片だと思い込み、
 それをひとつでも多く増やしていくことに労力を費やしていく
 「削り落とし作業」 が、「個性の追及」 や 「自己実現」 の本質である。』

と述べました。

これは、
自分と自分以外にある外部との 「交換」 を、
断絶していくことでもあるのです。

しかし、この場合であっても、
人間が社会性を持った生き物である以上は、
必ず外部との 「交換」 という運動を渇望します。

その交換こそが、
往々にして、消費活動という運動なのです。


何故なら、
両者の 「自己中心性」 という互いの性質上の類似と、

「交換」 という、
人間が社会的生物であるための必然性故に、

「個性の追及」 や 「自己実現」 が、
その手段として、しばしば消費活動を必要とするからです。

しかし、この結びつきを究極に突き詰めれば、
最早消費活動という交換自体が成り立たなくなるのですが、

この話の続きは次回ということで....。

(その④につづく....)




[PR]
by hiro-ito55 | 2010-09-29 23:44 | 社会 | Comments(0)

お知らせ

ブログ名を変更します。

新しいタイトルは、
「作業療法士の零度~私的思考の現場(リアル)~」 です。
 
今のタイトルは、僕の尊敬するある方からのご指摘もあり、
ちょっとひねり過ぎのような気がしてきましたので、
このようなシンプルなタイトルに変更します。

ブログの内容としては、今まで通り、
直接作業療法に結びつくものに限らず、
僕が経験して思考していることをつらつらと書いていきます。

引き続き、よろしくお願いします。




[PR]
by hiro-ito55 | 2010-09-23 22:46 | Comments(0)
先日の記事 「場的コミュニケーションの奨め」 の中で、
人との距離感について触れました。

人との距離を適切に保つ。

これは、
コミュニケーションを円滑に進めるための、
ベースとなる部分です。 

そして、距離を適切に保つために、
二項対立的な観点に立脚するよりも、

「間」 や 「空」 を生み出す 
「〇〇しながら」 コミュニケーションを取るスタイルを、
その方法として取り上げました。

実は 「よそ見」 の程度の違いはあるにせよ、
僕ら日本人は、結構このスタイルで
人とコミュニケーションを取っているのではないでしょうか。

外国の方とあまり話をしたことはありませんが、
一般的に西洋人は他者に向けて言葉を発するとき、
相手の目をしっかりと見据えて話します。

たぶんね。

ところが僕ら日本人は、
相手の目を見るというより、

むしろ 「相手の輪郭をなぞるような視線」 で、
或いは、「相手の目を見てはいるが、焦点が微妙にズレている状態」で
話をするという、

「微妙なよそ見」をしがちです。

これには理由があります。

例えば、隣にAさんという方がいて、
彼(彼女)は自分の意見の正当性を主張するために、
一所懸命に話をしていたとします。

そして、隣の私が彼(彼女)とはちょっと違う意見を持っていて、
それをAさんに話しましたが、

Aさんは自分の意見こそが正しいといって、
私の意見をそれほど取り上げようとしなかったとします。

ここで、私が 
「いや、君の意見こそ観点が微妙にズレている。私の意見の方が正しい」
と主張してしまったら、

それこそ当に二項対立的関係が成立してしまいます。

そうなると、どちらかが 「折れる」 まで、
或いは相手を完全に論破するまで、

この関係は持続することになります。

しかし、もし仮に 
「ふむ。僕の意見も正しいと思うが、君の言うことももっともだね。
 では、ここはひとつ、お互いの意見の良いとこどりをしてだね...」
という展開に落ち着けば、

この対立関係は解消することになります。

或いは、私が
最初から自分の意見の正当性を、
Aさんと同じように主張しなければ、

二項対立はそもそも成立しません。

これは、意図的に「ズラす」というテクニックです。


日本人には、何故、論争が苦手な人が多いのか。

それは、無意識的にこの 「ズラしのテクニック」 を、
身に着けてしまっているからだと思うのです。

では、何故、
このテクニックが身に着いてしまっているのか。


そのルーツを、完全に説明することはできませんが、
恐らくこういうことだろうと思います。

ここに、ある問いに対して、
「論理的に全く非の打ちどころのない意見」
を持っている人がいたとします。

誰がどのような反論をしようとも、
その人は見事に、その反論に対して
全て論理的に打ち破ることができます。

そんな、論理的に完璧な人がいたとします。

僕らは普通、このような人を信頼しません。

このような人を前にすれば、
僕らは 「あなたの意見ももっともだが、でもねぇ...」 と、
腑に落ちない思いを抱くものでしょう。

ちょうど、これと似たような 「腑に落ちない」 感覚に関して、
数学者の岡潔は、数学の問題を例に出して、

それは 「情」 というものがごっそり抜け落ちているからだ
と説明しています。


コミュニケーションの場において、
論理的な正当性を確保することは、
この 「情」 を排する作業です。

それは、
「白か黒かはっきりさせる」という、
二色の世界を打ち立てていくことに他なりません。

しかし、この、モノトーンの世界を追及すれば、
必ずどちらかが論理的にクラッシュして、
一方の立つ瀬がなくなることになります。

上記の例でいえば、
「論理的に完璧な人」以外の他者は、

全員沈黙して、
消滅した存在になるということです。


「ズラす」 というテクニックは、
このクラッシュを避けるために、

つまり予防するために、
先人が経験的に身に着けた 「智恵」 なのではないでしょうか。

そして、モノトーンの世界の代わりに、
カラフルな世界を選択したのです。


カラフルな世界というのは、

「あなたは、どこか間違っている。
 どこがどう間違っているのかは分からないかもしれないけれども、
 私もあなたと同じ分だけ、多分間違っている。
 『だから』、私はあなたを認めます。」

というメッセージを発するような世界です。

元々、単一民族的な集団の日本人ですから、
隣人や他者との差異は、
それ程大きなものではなかったでしょう。

その 「自分とちょっとだけ違う」 他者同士が、
その差異を基準にして、
淡いグラデーションを描くように存在していたわけですから、

対立の軸を他者との間に持ってくるよりも、
融合の軸を多く採る方が、
遥かに他者との関係を成立させ易かった

というのは、充分に考えられます。

そのためには、
「あなたも私もどこか間違っている。だから、私はあなたを認める。」

という 「のりしろ」 がなくては、成立しません。

それは、
二項対立で成り立つ、はっきりと色分けされた世界ではなく、

境界を 「ぼかし」 て 「ズラし」 て、存在していく
ような世界になることを、
意味するように思えます。

ですが、他者との関係を、融合の軸を基準にしても、
お互いのちょっとした差異のために、
完全に融合することはできません。

ですから、
そこに 「他者との距離」 というものが存在していることを、
意識するようになります。

しかし、
この距離感をあまり固定しすぎると、
却って対立は強調されるように働いていきますから、

距離感は 「その都度適正に」 
という 「振れ幅を持たせた形」 をとります。


このような、「微妙で繊細な距離感」 を
他者との間に保つためには、

コミュニケーションの場において我々日本人は、
自分と相手を互いにロックオンするのではなく、

「相手の輪郭をなぞるような視線」 や、
「相手の目を見てはいるが、焦点が微妙にズレている状態」
となるのでしょう。

それは、お互いを微妙にズラすことで、
互いの立つ瀬がなくなることを回避するための智恵なのであり、

カラフルな世界を選択した先人の経験から身についた、
対人テクニックの結果なのでしょう。

日本人が、お互いに意見が違っても
「話をしましょう。そうすれば、きっと最後には分かり合える筈。」
と考えがちなのは、

このような、
「融合の軸を多く採る下地」
もあるからだと思うのです。


だから、
話し合いであんまりガッつくの、止めましょうね。(^_^;)




[PR]
by hiro-ito55 | 2010-09-19 02:20 | 日本人 | Comments(0)
僕は、現場で仕事をしながら、
日本人に合ったリハビリテーションを探しています。

それは、「自分の経験を通して」 形にできるものでありたい
と思っているものなので、

「先行文献の研究」 ではなくて、
「経験からの思考」 といった形を採ります。

ですから、専門的に研究されている方に、
僕みたいな門外漢が敵うわけはありませんので、

どうしても素人的な解釈が、その都度ついて回ります。

ですがそれでも、
思考して言葉にしなければ、
それを次に繋げることもできませんから、

数少ない僕の経験という欠片を集めて、
僕なりの頼りない解釈を施しています。


現在、僕は日本人の文化・思想といったものを勉強しています。

それは、
仕事で関わる相手(利用者さんやスタッフ)が日本人であり、
その相手のことをよく知りたいと思ったからです。

個人的な資質に還元されるものに興味を持ったわけではなく、
僕らに共通に流れる 「リズム」 みたいなものをそこに見出したい。

そして作業療法を、
その 「リズム」 に乗せて展開することができれば、

思想的な底辺の部分で、
より普遍的なものに作り変えることができるかもしれない。

そう考えています。

僕らに半ば当たり前に備わってしまっている
言動や思考パターンの癖を、

言語によってもう一度意識化し、
意識化したものを経験するという回り道を通して、

そこから生まれ出てきたものを見定め、
リハビリを介した 「経験からの思考」 として、
繋げていきたいと考えています。

しかし、
リハビリを通してまだ何も具現化できていませんので、
そこは未だ一兵卒OTの頭の中の出来事
として受け取って下さい。


前置きが長くなりましたが、
今回は、日本の近代化には二つの問題が隠されている、
ということについて、少し書きたいと思います。

余談ですが、ざっくり言ってしまえば、
リハビリテーションという概念自体は、
元々日本には存在しなかったものです。

西洋からその概念が入ってきて、
日本で体系化されていく過程において、

西洋とは異なる独自の意味付けも成されていった
という歴史があります。

そしてこの、
現在まで続く日本におけるリハビリテーションの体系化も、
日本の近代化そのものとほぼ同時代の出来事で、

「輸入物」 という点でも共通していますので、
問題の本質をシェアする部分も多いと思います。


日本における近代化には、次の二つの問題が内包されています。
①近代化それ自体に予め内包されていた問題(西洋と共通の問題)
②異質文明を受け入れたがための「歪み」の問題(異質性の問題)

元々、非西洋文明圏であった日本では、
近代化の問題の根底に、
この 「二種類の質の異なる問題」 が絡み合って存在しています。

当然ですよね。
日本にとっては 「異質なもの」 を、
その 「身体」 に 「取り込んだ」 形になるわけですから。

移植されたものだって完璧ではないですし、
受け入れた身体も自分なりに歪みを解消し、

「それ」 に馴染むまでの過程において、
多少の拒絶反応を含めた様々な問題が生じることは、
容易に想像できます。

ただ、その問題が症状として表面化して、
意識されるかされないかの違いはありますが。

この観点からすれば、例えば 
「ドイツでは森林荒廃についてこのように考えられているから、
日本でもこのようにするべきである」

といったような、単純な問題として捉えることは、
まずできません。

何故なら、①と②のような、「西洋と共通する問題」 と、
日本自身が異質なものを受け入れたという、
「『異質性』から来る問題」

との二種類の問題が存在するわけですから、

西洋ではある方法で環境問題に対処して上手くいったからといって、
その手法を、単純にステージの異なる日本に当てはめて、
西洋の方法に習えば解決

というわけにはいかないのです。

「異質性」 は 「外来性」 という言葉に置き換えることができますが、
これは日本文化の宿命と言えます。

例えば古代においては、
中国から漢字を受け入れたという大きな出来事がありました。

それまで日本では文字を持たなかったために、
この時に、日本語を漢字で表現しようという試みが成されました。
 
しかし、日本語にとっては
元々 「異質なもの」 である漢字を使って表現されるものと、
日本語自身が表現するものとの間には、

微妙な差異があることに気付かされます。

例えば、漢字で表現される 「天」 と、
日本語で表現される 「あめ」 の間には、

その語の持つ意味の幅において、微妙な 「ズレ」 があります。

そこで、この微妙なズレの存在を意識しながら、
漢字で日本語を表現する場合、

どのように表現するかという問題が生じました。

結局、このニュアンスのズレの問題を解消し、
漢字を完全に日本語化するのに、
その後数百年の歳月を要しました。

これが、異質性を受け入れる日本が抱える宿命なのです。


福沢諭吉は、その著書「文明論之概略」で次のように述べています。

   「今の日本国を文明に進むるには、
    この国の独立を保たんがため西洋文明を受け入れることは、
    日本人の人心風俗の最良の部分を犠牲にするような転換
    という覚悟で受け入れなければならない。」

要するに、福沢の目には、
西洋文化と日本文化の間に、我々の価値観を犠牲にするほどの、
根本的な隔たりがあると映ったということです。

また福沢は、
「西洋の文明の精神から、文明を徹底的に取り入れなければ、近代化はできない」
とも述べています。

独立を守るために、
却って独立を内側から突き崩してしまうかもしれない
という懸念を、彼は抱いていました。

そして、日本において
「文明の精神まで受け入れることは容易ではない」 
と、福沢は分析しています。

その、「容易ではない」 がために、
日本人に西洋文明に対するコンプレックスが生まれます。

そのコンプレックスは、
日本における 「西洋文明の受容」 に対し、
その表面だけを真似て取り入れている、

という批判を招く 「スキ」 を作ることになります。

そしてその批判は更に、
このように 「近代化が不徹底」 であるがために、
日本は自らの前近代性を克服するに至っていない、

という考え方に結びついていきます。

これは、
「自生的に近代を生み出した西洋」 と 「前近代を引きずった日本」 
という二項の対比で捉える思考です。

現代でも、このような捉え方を採用する人は多くいます。

しかし、このような捉え方は、
あくまで 「近代化を成し遂げた西洋が尺度となっている」 もので、

その 「西洋の近代化に普遍的価値がある」 
というイデオロギーの下に成り立っています。

でも、
本当に西洋の近代化というものには普遍的な価値があり、
この 「不徹底さ」 は西洋がその社会でやったことと同じように、
「徹底する」 という形で克服するべきものなのでしょうか。

むしろ、漢字を日本語化したように、
異質性に内包されているもう一種類の問題を見据え、

それを作り変えていく作業が、
必要なのではないでしょうか。

それは、「融合する作業」 と言い換えることもできます。

異質性を、その身に受け入れるためには、
「自生的に近代を生み出した西洋」 と
「前近代を引きずった日本」 

という二項の対比で思考するのではなく、

「融合という軸」 からも思考することが必要だと、
日本人の経験が教えてくれているように感じます。




[PR]
by hiro-ito55 | 2010-09-17 22:06 | 日本人 | Comments(0)
「なりたい自分になる」  
「自分にしかできない仕事を探す」  
「自分の無限の可能性を切り開く」

といったようなキャッチフレーズを、
新聞、広告などでよく目にします。

こういった宣伝のターゲットとする年代は、
10代後半~30代といったところでしょうか。

大人になるということは、
対象喪失を受け入れていくことに他なりません。

少年・少女時代に抱いていた自分自身への万能感が、
少しずつ縮小していき、

等身大の自分に落ち着くその過程が、
大人になるということです。

けれど、
この 「少しずつ縮小していく」 過程を受け入れられない人が、
けっこう多いように思います。

対象喪失=自己の全否定という極端なものの見方しかできない人が、
或いは多いのかもしれませんが、

このようなAll or Nothing的な観点から脱却できない人の生存率は、
極めて低いのではないでしょうか。

自分自身に無限と呼べるような可能性があり、
「自分にしかできないことを実現させていく」 ことができるのは、
ほんの一握りの恵まれた人間か天才だけです。

残りの大多数の人たちは、
等身大の自分を受け入れていくことでしか、
現実社会では生き残れないものなのです。

このことはなにも、
あきらめて人生に悲観的になることでは、けっしてありません。

「自分に無限の可能性がない」 と知ることは、
「現実に自分のできることを見極めていく」 ということと同義です。

そのように考えられる人が、
今の自分の立ち位置を再確認して、

そこから今の自分の手の届く範囲や、
目視できる世界の限界を、実感することができます。

この実感は同時に、
自分自身に、まだ自分の知らない世界や
手の届かない現実というものが、
確かに存在する

というリアリティーを突き付けます。

その、自分のまだ知らない世界に、
自分はこれから辿り着けるかもしれないし、
辿り着けないかもしれないが、

現時点ではそれは分からない。

ただ、自分は世界にたったひとつだけの花だ
と思い込んでいたものが、

実はそこらへんに生えているような、
ありきたりの雑草だったということを
思い知ることになるかもしれない。

このリアリティーは、
そういった 「可能性としての未来」 があることも、
僕らに教えてくれます。


「自分の知らない世界がある。」
つまり、このリアリティーが突き付けるものは、

自分の立ち位置を再確認して、
自分の関われるリーチの範囲を知れということなのです。

野球に例えれば、
例えばサードを守る野手が、
サードの守備をきっちりこなそうとすることに似ています。

自分は9人の野手の内の一人であり、
サードというポジションに就いています。

そして、
サードの守備でやれるべきこと・やらなければならないことを自覚し、

そこから試合を組み立てていくことが求められます。

自分のところに球が飛んでこないからといって、
ライトに上がった打球を全力で取りにいってもいけませんし、

野球の主役はピッチャーだといって、
試合中にピッチング練習を始めても、なんの意味もありません。

仮にそんなことをしたら、試合で使ってもらえなくなります。

試合で使ってもらえなくなるということは、
プレイヤーとしての死を意味します。

「それなら、他のチームを探すからいいよ」
といって出ていくのも「あり」ですが、

その場合、
それなりのリスクを伴うことは覚悟しておいた方がよいですね。


自分の立ち位置を再確認して、
自分の関われるリーチの範囲を知ることができれば、

自分の見えている世界が、
他の人には見えていないかもしれない、

或いは、自分は正しいと感じるものを、
他の人はそう感じないかもしれない、

という予想をつけることができます。

この予想は重要で、
そこから、「だから」 今の自分の物差しを、
あまり拡大適用しないようにしよう

といった心構えや、節度ある態度が生まれます。

そういう態度からしか、
己の現実大の姿を知ることはできません。

「一兵卒」 から見える世界は、
所詮 「一兵卒」 から見える世界であり、
他の人から見たら正しくないのかもしれないのです。

個人的にはこの心構えや態度が、
実はチーム医療を支える基本の部分でも、とても重要だと思いますが、

そのことについては別の機会に書きたいと思います。


「対象喪失=現実に自分のできることを見極めていく」
ということが理解できない、

或いは理解したくないと頑なに拒否する人は、

冒頭のようなキャッチフレーズに魅力を感じて、
自己イメージを膨らませていくでしょうが、

それは現実に存在する自分のポジションから目をそらし、
己の現実大の姿を確認するどころか、

そのギャップを、
ひたすら拡大させ続けていく作業に他なりません。

そしてその落差が大きい程、
人は絶望感に苛まれることになります。

どこかでそれに歯止めをかけなければならないのですが、
残念ながら今の社会では 「落差が拡大するのを未然に防ぐこと」 よりも、

「絶望感に苛まれた後のケア」 に
重点が置かれているように思われます。

ですから、僕らの年代でも、
僅か数か月で退職してしまったり、
鬱になって職場に出られなくなったりする人が、
なかなか減りません。

「自己イメージを拡大させていくことは子供時代の特権」で、
「大人はそれを現実の自分にジャストフィットさせていく特権を持っている」
のです。
 
この事実は、
誰かが声高に叫ぶのを待つより、
自分自身でそれに気づいていかなければならないものなのかもしれませんが、

それを全て個人の責任に還元してしまうのは、
少し酷なことのように思います。




[PR]
by hiro-ito55 | 2010-09-12 23:13 | 社会 | Comments(0)
何か作業をしながら人と話すということを、僕は時々します。

仕事中でもそうですし、普段の何気ない会話でもそうですが。

仕事でいえば、作業療法もそのような
「よそ見をしながら」 というスタイルを採ることがあります。

パラレルな場で、
貼り絵をしながら利用者さんと話をするのは、その一例です。

或いは、寝転んで利用者さんをマッサージしながら、
手元を見て世間話やリハビリの話をすることもあります。

プライベートでは、
車を運転しながら同乗者と前を向いて話をすることもあります。

僕の経験では、こんなときは
コミュニケーションのスピードというものは、
比較的ゆっくりとしたテンポで進行します。

なにしろ、相手と話をするのに 「よそ見をする」 のですから。

僕は、このようなコミュニケーションを
「場的コミュニケーション」 と呼んでいます。

この、
場的コミュニケーションの 「何かをしながら」 というスタイルは、

コミュニケーションに独特の 「間」 や、
「会話をしていない」 という 「空」 の時間を生み出します。

そして、こういうときに割と話の核心を突くというか、
相手の言外の意図を汲み取りやすい状況を、
僕らは経験したりします。
 
それは、実はこの 「間」 や 「空」 が
重要な意味を持っているからなのです。

この 「間」 は、何か作業をしながら、
或いは単に他所を向きながら
という状況が生み出したものですが、

それは少し大げさに言い換えれば、
相手をしっかり見るという 「視覚」 を、
意図的に麻痺させる行為に近いと思います。


人間には、五感というものがありますが、
そのうちのひとつの感覚が極度に鈍くなったり、麻痺したりすると、

残りの感覚が鋭くなる場合がある
ということは、よく知られています。

僕は、「何かをしながら」 というコミュニケーションスタイルは、
実はこれに近いんじゃないか
という気がするのです。


一般的に僕らは、
幼少期の頃から 「人の目を見て話しなさい」 と教えられ、

目を見て話さないのは
相手に対して失礼だと教えられてきました。

それが礼儀であるとは思いますし、
相手をしっかり見て話さなければいけない場面も勿論あります。

ただ、これは日常のコミュニケーション方法としては、
あまり拡大適用できない方法じゃないのか、
と思うのです。

「相手の目を見て話をする」 という行為は、
コミュニケーションの場において、

自分の立ち位置を明確に固定し、
同時に、コミュニケーションの受け手を
客体として 「固定する」 ことで成り立つ方法です。

つまり、「主体」 と 「客体」 をコミュニケーションの場に作り出し、
そこに 「二項対立的な関係を成立させる」 ということです。

相手からみれば、私は 「客体」 ですし、
私からみれば、相手は 「客体」 です。

私から(つまり主体から)放たれた言葉は、
相手(つまり客体)に届き、

それに応えて相手は私に言葉を返します。

この、相手が私に言葉を返す段階で、
主体と客体は逆転しています。

つまり、「相手の目を見ながら話を続ける」
というコミュニケーション方法は、

「二項対立的に、主体という立場の往還・奪い合いの場」
になるのです。
 
相手の目を見続けて言葉の往還を繰り返していけば、
必ずこの対立は強調されるように働いていきます。

「議論」がその典型です。

西洋人は比較的に
日本人よりも議論が得意であると言われていますが、

それは 「二項対立的な方法に優れている」 ということです。

何故、優れているかといえば、
普遍主義的宗教が、彼らのバックボーンにあるからなのですが、
取り敢えずそれはここでは深入りしません。

これに対して、
「何かをしながら」 「よそ見をしながら」 コミュニケーションを進める
という在り方は、

相手を二項対立的にロックオンしないわけですから、
対立項は薄らぎます。

代わりに、「相手との距離感」 というものが場を包むようになります。

主体と客体の関係性が場を支配する代わりに、
その都度揺れ動くお互いの距離感が場に生まれ、

その距離感の 「さじ加減」 によって
「間」 や 「空」 が生まれるのです。

「間」 や 「空」 は、その 「場」 にいながら、
僕らにその都度リセットする余裕を与えてくれます。

それは、相手の言葉を一旦、
全的に受け入れる経験をするということです。

一瞬にしろ、全的に受け入れられれば、
人間の感覚センサーの感度は上がります。

そして、この感度の上がったセンサーによって
キャッチアップされた情報を処理するために、

受け手には新たな 「間」 が必要とされます。

その 「間」 は、場を共有する相手にも伝わりますし、
相手にも感覚センサーの感度が上がる可能性を生み出します。

先程述べた 「感覚が鋭くなる」 というのは、
そういう経験のことなのです。

少し解りづらいかもしれませんが、
このような 「〇〇しながら」 のコミュニケーションが生み出す効果
というものを、もう少し深く考えてみると面白いかもしれません。

なにしろこのようなコミュニケーションというものは、
基本的に心地よいものですし、

人間関係を円滑に進めるためにも、
日常のコミュニケーションにこのような方法を積極的に適用することは、

充分意味のあることだと思いますので。

それに、こんな時代だからね。




[PR]
by hiro-ito55 | 2010-09-09 22:42 | 日本人 | Comments(0)

息抜きっす

息抜きにブログのデザインを少しだけ変えました。

 ついでに、紹介しときます。
 我が家(といっても実家)の主、Mr.Tomです。

                   ↓
b0197735_21294949.jpg

                   「ども。ついでのTomです...」

 普段は、僕と同じで こんな風にだらけています。
b0197735_21341228.jpg

                      「あ~...贅沢してぇ....」

 わっはっは。いいぞTom。お前はかわいいぞ。

 失礼。

 以後、ちょくちょく顔を出すかもしれませんので(出さないかもしれませんが)、
 よろしくお願いします。


                              「出せよ!」
b0197735_21442755.jpg

[PR]
by hiro-ito55 | 2010-09-07 21:47 | ネコ | Comments(1)
最近(でもないか)、
「マイ箸」 を持参して割り箸を使用しないようにしよう
という風潮がありますね。

たまにNHKでも朝のニュースの中で取り上げているのを見かけます。

理由は、その方が 「エコ」 だからだそうで、
「割り箸を使用するのは、森林伐採を推し進める要因のひとつである」
というのが、その大義のようです。

また、これとは別に、
日本のトイレットペーパーの 「白さ」 について、
西洋人(ドイツ人など)から問題視されることがあるそうです。

現在、日本で一般に普及しているトイレットペーパーの色は、「真っ白」です。

しかし、再生紙を使用するのが一般的な外国の方から見れば、
この真っ白な日本のトイレットペーパーは、
資源を無駄使いしている象徴のように映るそうなのです。

しかし、このような
日本人の 「割り箸」 と 「真っ白なトイレットペーパー」 の使用について、

「エコ」 という一面的な側面からのみで、
その価値全体を判断しきれるものであろうか

というのが今回のお題です。


物事には、どうしても 「割り切れない部分」 というものがあります。

そして、それが 「文化」 の土壌となっていることも世の中にはあります。

例えば、日本には伝統的に 『「白」は清める』 
という意味や信仰が関わっているという事実があります。

これは、再生利用という
実用的な部分からでは判断の及ばない側面であると言えます。

「実用性という価値観では割り切れない部分」 と言ってもよいものです。


そしてもうひとつ、日本人の清潔感との関係を考えてみます。

例えば、家庭において、
フォークやナイフを自分専用の食器として使っている人、

つまり洋式食器の 「マイフォーク」 や 「マイナイフ」 
を持っている人は珍しいでしょう。

「おひとり様暮らし」 をしている人は別ですけど...

しかし、箸や茶碗に関しては、
家庭では 「自分のはこれです」 と、
決まっているのが通常ではないでしょうか。

たとえお父ちゃんのこの箸は、洗剤できれいに洗って
ナノレベルまで完璧にきれいにしたから、
娘のお前が使用しても清潔です、

と父親がいくら熱心に説明しても、
何となく使うのは嫌なものだと感じるでしょうね。

というか、熱心に説明する程、
お父さま方は娘の逆鱗に触れて、
逆ギレされる危険に晒されそうです。

これはつまり、
他人の使った箸は物理的には汚れていなくても、
そこに嫌悪感を感じる
ということを示しており、

言うなればこれは、「清潔感という感性の問題」 なのです。

飲食店などでマイ箸を持参する人には、
いわゆるエコ意識と呼ばれるものに、
このような日本人の感性が結びついているように思われます。


また、実用性という側面から見ても、
現在、日本では広く 「皆伐」 が行なわれていますが、

木を伐るのには本来、「伐り旬」 と呼ばれる時期があります。

江戸時代の日本では、
木の育て方や材木としての利用方法の知恵の蓄積といった林業思想が、
世界中で最も進んでいたと言われていますが、

その際に出た 「廃材」 を利用して、
割り箸は使われていたそうです。

ところが、明治になって
外国との経済貿易の必要性が重要になると、

日本でも森林を伐採し、
産業を推し進めなくてはならなくなり、

次第に 「皆伐」 の規模は広まっていきました。

現在、割り箸の使用が問題視されるのは、
往々にしてこの 「皆伐」 という方法で、
割り箸が大量に生産されていることによるものです。

しかし、それでもなお総合的に判断して、
割り箸を使用することが無駄な使い方だというならば、

使った後に燃料として使用するなど、
再利用法も考慮するべきかもしれません。

現に、ウィスキーの樽などは、
使わなくなった後に、丸みを延ばして 
「床材」として使用する技術が研究されているそうです。




[PR]
by hiro-ito55 | 2010-09-06 20:36 | 哲学・考え方 | Comments(0)
先月、地域や共同体について書きましたが、
今回はその続きです。

前回は、
「僕らの生活を消費行動を主体にして考えれば、
どうしても 「もの」 や 「ひと」 の価値は下がってしまう」
というところまで書きました。

今回は、共同体の細分化を、
個人の行動レベルという視点から少し書きたいと思います。


戦後、誰もが 「個性」 や 「自由」 や 「自己実現」 を、
人間であれば当然の権利のように追求してきたら、

似たような他人が、
気づけば自分の周りにたくさん溢れていました。

それでも自分には自分にしかない 「個性」 というものがある筈で、
それが他人との差異を決定する境界であり、

存在の証であると信じ、
多くの人が必死でそれを追い求めてきたのです。

社会もまた、個性を強調するその姿勢を個人に求めてきました。

就職面接の時に訊かれる 「自己アピール」 
などがその例かもしれません。

でも、元々そんなに自分たちが思っている程、
他人との間に 「差異」 があったわけでもなく、

本当はむしろ 「他人と似たりよったり」 
の面の方が、遥かに多いものなのです。

共同体の細分化が、
消費活動以外にも 「個性の追及」 や 「自己実現」 といったような
個人のアイデンティティーのレベルからも加速した理由のひとつは、

他人との 「差異」 に重点を置くか、
或いは 「似たりよったり」 の面に重点を置くか、

その比重を、スタートの時点で履き違えた人が、
マジョリティーを占めたことにあるのです。

「他人と似たりよったり」 の部分に重点を置く人は、
他人との関わりの中で、つまり 「他人との関係性の中」 で、

自分と他人との違いにっゆっくりと気づいていきます。

しかし、他人との 「差異」 に重点を置いてそこから世界を眺める人は、
一旦他人との関係を 「断絶」 するところから世界をスタートさせます。

そしてその断絶から生まれた僅かな差異を、
自分の個性の断片だと思い込み、

それをひとつでも多く増やしていくことに
労力を費やしていきます。

目指すのは 「完成された個性」 「自己実現の完成」なのですから。

しかし、それは言い換えれば
「他人との断絶」 の 「積み重ね」 を繰り返す作業になるのです。

個性という主体性確立の実現は、
残念ながらそのような方法では成しえません。

実は、自己実現というものを、
このように他人との差異の積み重ねで実現しようとすることは、

確固とした主体性というものが、
「もともと」 自分の中に内包されていると思い込み、

それを自分の中に見出していくために、
他人との断絶を繰り返していく
という 「削り落とし作業」 なのです。

それは突き詰めれば、
云わばひたすら 「孤独」 を選択していく作業を意味します。

しかし、孤独になってしまったら
誰も自分の 「差異」 に気づいてくれません。

だから、そうして他人との断絶を繰り返して得た
「誰も気づいてくれないもの」 は

最早、個性なんかでもなく、
下手をすれば、
ただの独りよがり以外の何物でもなくなってしまうものなのです。

この事実に気づき立ち止まる人は、残念ながらあまり多くはなく、
むしろこの病的なイデオロギーはマジョリティーに浸透し、

個人消費活動と結びついて
その勢いを加速させていったように思います。

(その③につづく...)




[PR]
by hiro-ito55 | 2010-09-02 20:37 | 社会 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー