カテゴリ:社会( 37 )

書く責任をどこまで引き受けるか


僕は、このブログを書いていることを、
直接会う人に対して、自分から極力教えないようにしている。
特に仕事を通じて、直接関係を持っている人には教えていない。

その理由は単純なこと。

僕の書いた内容によって、
それが、ある個人や団体のことについて書かれたものだと特定されたくない、
という思いがあるからだ。

もし、書いた人物が誰なのか予め分かっていれば、たとえ実名で書いていなくても、
その内容や書き方次第で、個人や団体が特定されてしまうことだってあると思う。

それによって、相手に嫌な思いをさせてしまったり、
個人や職場間の人間関係や、信頼を壊してしまったりしたとしたら、
僕はその責任を取ることができない。

ブログというのは、本人にその意図がなくても、
書いたことで特定の誰かや団体が、悪い印象を持たれてしまう可能性があることも、
事実だと思う。


先日、ある人のブログで、
日常出入りしている人たちの、具体的なトラブルについて書かれていた。
読む人が読めば、それがあの人たちのことだと分かってしまう、そんな内容だった。

もちろん、どんなことを書こうがその人の自由には違いない。
その自由について、どうこう言うつもりも全くない。
だから、このことに触れようかどうか、ずいぶんと迷ったけど....。


その後、トラブルを起こしてしまった人たちの事業者間で話し合いが持たれ、
お互い反省するという形で問題は決着している。

けれど、その記事を読んだだけの人は、当事者の近しい人でない限り、
そういう事実があったことまでは、知りようがないのだ。

だから、その人たちを知る第三者が、その記事を読んだとき、
あの事業所は、あんなことでトラブルを起こしてしまったという事実と、
悪い印象を残しただけで終わってしまっている。

そして、書いた本人が誰であるかは、当事者にも分かっているから、
下手をすると本人までも嫌な印象を持たれ、その後の関係を壊してしまいかねない。


もちろん、他所様の家で勝手にトラブルを起こし、
家人に不快な思いをさせてしまった人たちが、問題であることには違いない。

だから、それについて思うことがあれば、具体的に書いてもいいだろうし、
どのように書くかは、書き手の判断に基づいているものだと思う。

でも僕は、そのあたりの判断というものは、極めて微妙で、難しいものだと思っている。
僕が、自分のブログを直接会う人に教えていないのも、そう思うからだ。


自分の思いや考えを言葉にするのは、とても大事なことだし、
そして言葉は、誰かに伝えるためにあるものだとも思う。

書いたことで、個人や団体が簡単に特定されてしまい、
その書いた内容だけで判断されてしまうことも、伝えた結果だと思う。

言葉というのは、自分の責任の及ぶ範囲で発するべきものであって、
その責任をどこまで引き受けるかは、書き手自身の判断だ。

もし読み手に対して、自分で決めたその責任が果たせないとしたら、
それについて書くことは控えるか、自分の素性を明かすべきでないと僕は思っている。


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by hiro-ito55 | 2014-12-02 18:23 | 社会 | Comments(2)

ブリタニーさんの死の選択についての雑感


アメリカの末期ガン患者、ブリタニー・メイナードさんの決断が話題になっている。




僕は、彼女の下した決断は、ひとつの尊重すべき選択であったと思う。

世間では、賛否両論などと色々と言われているようだが、
彼女の決断が、人間の生は、死を含めてその人の「生」なのだという本質的な姿勢を、
改めて伝えてくれているのだと考えれば、それは尊重すべき選択として扱われるべきもののはずである。

それが、正しいか正しくないか、という観点からまず論じられているのは、
非常にナンセンスな問いの立て方であるように感じている。


確かに、所属する民族や宗教によって死生観の違いはあるにせよ、
人がどのように自分の死を迎えるか、という問題は、
その人の人生観や美意識と、非常に強く結びついているものだということは、
もう少し考えてみる必要のあることではないだろうか、というのが僕の率直な意見だ。

たとえば、日本には「生老病死」という言葉がある。
僕ら日本人は、人間の一生を、死をも含めた連環の中で捉えてきた。

これは、生まれてから死するまでという、一生のうちで経験する一連の変化を、
その都度の人の在り様として受け入れ、それらと向き合う姿勢を示した言葉だ。

しかしこの言葉とは裏腹に、現代ではどのような社会においても、
「生」以外の「老病死」をネガティブなものとして捉える傾向が強いことも確かで、
技術的にも、生きるためにあらゆる選択をすることが、可能なように思える。

そうであれば、どんな状況になろうとも、兎に角生きることを選ぶこと、
それがどんな選択よりも優先されるべき選択であるという価値観は、
確かにひとつの絶対的な真理に成り得るに違いない。

けれど、
人として生きることを選択するならば、美しく生きたいと思うのと同じように、
美しく老い、病であってもそれを願い、美しく死を迎えたいと考えるのは、
生を全うする人間として、ごく自然な思いでもあるのではないだろうか。


どんなに技術が発達しても、それに伴う多くの選択が可能であったとしても、
老いることや病を患うこと、そしてやがて死を迎えること、
どの時代においても、それらとその都度どう向き合うのか、ということを考えずして、
自分の生について、深く知ることはないと思う。

そしてそれは、その人なりの人生観や生に対する美意識になるのだと思う。


確かに、彼女が自分で死を選択したという事実は、
生を否定することに繋がりかねない、という社会的側面を持つことは否定できない。

しかし逆に、美しく生き続けるため、生を肯定的に捉えるのと同じように、
死というものを肯定的に捉えたがための選択である、と言うこともできるように思う。

また、生物体としての生は、死を選択することで確かに終わってしまうのだが、
死というものを、単なる一個体としての死として扱うのではなく、
その人の人生を思い出す人がいる限り、その人の生は続いているのだと捉えれば、
これを受け入れる人にとっても、その都度の人の在り様のひとつの形として、
人の生と向き合う姿勢を示した選択である、と言うこともできると思う。

そう考えれば、彼女の下した決断は、ひとつの尊重すべき選択なのであって、
それを、正しいか正しくないかと問うことで、解決できるテーマではないというところに、
この問題の本質的性格があるように思う。

だからこの問題には、これが正しいという答えは恐らく存在しない。
社会的に、或いは法律的に正しいとか間違っているとか、
そうやって言いきってしまうことはできるかもしれないが、
この選択が、個人としての人生観や生に対する美意識に直結したものでもある限り、
ひとつの絶対的な真理を打ち立てることは、できないと思う。










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by hiro-ito55 | 2014-11-06 00:17 | 社会 | Comments(3)

今できることと、向上心や成長について


仕事では、準備したことの2~3割ほどしかできないと前に書いたことがあります。
向上心を持つということは大切なことですが、
自分のできることを急に増やしたりしようとすると、結局うまくいかないものです。

上手くいかないどころか、
事前にいっぱい準備して、たくさんのことをやろうとするだけで、
毎日がただ、とても目まぐるしいだけのものに変わってしまい、
一日一日のその流れの中に、埋もれてしまいそうになります。

そういった姿勢が、いつの間にか焦りや無力感を生み、
やがて燃えつきることに繋がってしまうのではないかということに、
最近気付きました。

自分の今できることと向上心というのは、ある意味ひとつのパラドックスです。
今の自分にできることばかりしていては、成長というものはありません。
逆に、向上心だけに身を任せていると、目の前のことが疎かになり、
足元を掬われるリスクは増大します。

大事なのは、
準備したことの2~3割ほどしか「やらない」のではなく、
2~3割ほどしか「できない」ということに、まず気付くことだと思います。
そして向上心や成長は、そういった気付きから生まれてくるものだと思います。


確かに、人生には何が何でも頑張らなければいけない時期というものがあります。
けれど基本的に、実力以上のものを出そうとしてはいけないと思います。

全力を尽くすこととは、
常に自分のできる範囲の中で、一番いいものを出そうとする姿勢。
そしてそれを続けていくことが、自分自身の成長に繋がっていく
ということ。

そこに気付かなければ、現実はいつも自分に足りないものだらけになってしまうか、
或いは、自分を取り囲む現実に、うまく適応できなくなってしまうものだと思います。


恐らくどんな仕事でも、
責任感の強い人ほど、多くのものをその身に背負い込んでしまいがちですが、
責任を持って仕事をすることと、全部を背負い込んで仕事をすることは違うと思います。

けれど、
このパラドックスの存在から、ちょっとしたバランスの取り方を間違えてしまえば、
現実に対処していく体力というものは、どんどん奪われていってしまうし、
それが、職業人としてのポテンシャルも下げていってしまうというのは、
生き抜く上で知っておくべきことだと思います。

今の自分にできること、そして向上心を持ち続け成長していくこと。
最近は反省することの多い毎日ですが、バランス感覚だけは大事にしたいですね。


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by hiro-ito55 | 2013-09-15 19:40 | 社会 | Comments(2)

ドキュメンタリー映画『四つの空 いのちにありがとう』

この秋、興味深いドキュメンタリー映画が公開されます。
NPO法人いのちをバトンタッチする会主催の映画「四つの空 いのちにありがとう」。

この映画は、大切な家族を病気で亡くしたり、
障害を抱えた子供を懸命に支えたりする四組の家族の物語です。

NPO法人主催の映画のため、シネコンなどの映画館での上映ではなく、
上映会を希望する団体から、会場を借りて公開するという形式を取っているようです。

近場の会場にいくつか問い合わせてみましたが、チケットは既に完売とのこと。
先週、メディアでこの映画が紹介されたため、現在、チケットの入手はかなり困難になっているようですが、機会があれば観に行きたいと思っています。





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by hiro-ito55 | 2013-08-29 22:50 | 社会 | Comments(0)

違いを認めること


としさんのブログで知ったのですが、
作家の乙武さんがイタリア料理店の入店を拒否されたことを、
自身のツイッターで呟いたことが、先週話題になっていました。

今回の彼自身の言動は、
健常者との違いを再認識させられたために出たものだと僕は思っていますし、

乙武さん自身は後で否定してはいますが、
お店の実名までツイッターで公表したところをみると、
介助してもらって当然』とする考えが、彼自身の中にあったのかもしれません。

もし、
『してもらって当然』という考え方が彼自身にあったとすれば、
それは、実は乙武さん自身が自分は障害者であり、
その立場から主張しているからこそ、取ることが可能な態度であったはずです。

しかしそれは、
彼自身が常に主張しているような、健常者も障害者も同じだという考え方と、
矛盾するように思うのです。

だから僕は、
彼の言動に、少なからずの違和感を覚えてしまいました。


どのような場面においても、
差別する、されるということは勿論いけないことですが、
健常者と障害者は、やはり同じではないのです。

もし、
健常者と障害者の間に壁が存在するならば、
この問題は、両者の違いを受け取り、それをどう扱うか、
終始一貫して、そこに注意が注がれなければならない筈
です。

問題を受け取ったときに、
両者が同じでなければならない、というところから捉え始めるのと、
両者の違いを認めるところから捉え始めるのとでは、

健常者が障害者に、
或いは、障害者が健常者に接したときの態度も、大きく違ってきます。

結果として同じなのではなく、
方法や手段として違いを同じにしていくことが、生きやすい社会であるのか、

或いは、違いを当たり前のこととして受け取れることを目指していく、
それが生きやすい社会であるのか、
ということは、根本的な問いの投げかけ方であろうと思います。

それを考えたとき、
僕自身は、健常者と障害者が違っていること、
それを認めるというのは、何も特別なことではなく、

それは例えば、
僕と僕のブログを読んで下さっているあなたが違う、
ということと、同じではなかろうか
と思うのです。

もし、
人としての僕とあなたは違うし、
同じに扱われないのは当たり前のことというのは認めるけれど、
健常者と障害者は同じに扱われるべきで、その違いは認められない、と考えるならば、

それは、人と人との間で、健常者と障害者の違いだけを
解消されるべき、且つ存在してはならない特別な違いとして、見ていることになります。

もし、健常者も障害者も同じであると本気で考えているならば、
そもそも片方の立場からの主張を、一切してはいけないことになるはずですが、

そのように考える人たちは、バリアが存在する場面に出くわすと、
片方の立場を強調して、それはおかしいと主張し、
違いを解消するように求めてきたりします。

しかし、
健常者と障害者が同じであると主張するために、
逆に自分の置かれた一方の立場を強調して、その考えを主張するというのは、
随分とご都合主義的な態度のように思えるし、
論理的に考えれば、矛盾する主張なのではないでしょうか。

僕の感じる違和感は、実はそれなのです。


繰り返しますが、差別はあってはならないことです。

しかし、
その差別をなくすために、みんな同じにするのが良い社会であるとは思いません。

大切なのは、自分の理想を押し付けるのではなく、
そういう違いがあることを認め、その違いが不快なものとならないように、
感謝や親しみ、信頼で繋いでいく努力


つまり、『してもらって当然だ』と考えるのではなく、
少しでもその違いをお互いに認められるようにしていく、
多様性を許容していくような努力
だと思います。

そうだとすれば、ハード面もソフト面も含めて、
バリアフリー化という課題もそういった側面で捉え直し、
そこからのアプローチが求められる問題でもありそうな気がします。

僕が思うのは、
殊更、自分の立場を強調すること、
或いは、『みんな同じ』であるのが生きやすい社会なのではなく、
『みんな違っていること、それを認める』のが、
きっと生きやすい社会なのではないか
、ということです。

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by hiro-ito55 | 2013-05-27 18:12 | 社会 | Comments(2)

本当は違和感だらけ


自殺者を出した大阪市立桜宮高校体罰問題が、
今メディアを賑わせています。↓↓

『橋下氏「入試やめさせます」』(YOMIURI ONLINE)

体罰の是非については、賛否両論あるかと思いますが、
その後の橋下市長の対応の仕方が、少し気になります

桜宮高校市立の高校であるため、
高校の教師市の職員ということになりますが、

橋下市長が選択した入試中止という決断は、
行政のあるセクション問題が発生したため、
しばらくの間、その部署の行政サービス停止させて頂きます
という、
極めて行政的な枠組みで、事を捉えているように思えてならないからです。

このような手法からは、恐らくよい結果は齎されないだろうし、
僕は、ここにデジャブのような違和感を覚えます。

橋下市長には、
弁護士出身という経歴も関係しているのか、
彼には、A対Bという対立軸の上で物事を論ずる傾向が、
どうも強いように思います。

今回の入試中止という対応を見てみると、
教師側行政側という対立軸を作り出し、
その自分が作り出した一元的な軸の上に、
世論を巻き込んで『命とは』『人生とは』を論じさせ、
白か黒かを決めさせる

そういう、
彼のこれまでの常套的な手法が垣間見えてきますが、

それはちょうど、
小泉首相が『既得権益 対 搾取された者たち』という構図を作り上げ、
その構図に国民を巻き込んで、総裁選や選挙を戦った
あのやり方と同じではないか、と感じるのです。

小泉政策の特徴は、
負け犬をさらに叩く』ような嗜虐性にあり、
弱い者や持たざる者は、
半永久的に、何かを望むことは許されない

そういう根拠のない階層意識
国民に植え付けたことにある、と僕は思うのです。

そして、何故だかはっきりと解らないままに、
大多数の国民は、その嗜虐性を支持した

その結果、どうなったかと言えば、
いわゆる資本主義の焼野原のような現状です。

今、橋下市長がやろうとしていることも、
いわば、教育における焼野原を作り出そうとしているように感じるのです。

あるスケープゴートを見立てて、これを吊し上げ、
問題を起こせば、お前らもこうなるぞ』と恫喝する、

そういう、チラつかせて扇動する方法は、
恐怖政治そのものの姿であり、
こういった手法が、古今うまくいった試しはありません。

それは何故かというと、
恐怖の回避という、問題の本質とは掛け離れたところで、
どんどんと事が運ばれていくようになるからです



確かに、何かと何かを対立させ、
その対立構図を国民の前にオープンにして、
白か黒かを論じさせるようなやり方は、解り易いといえば解り易いですが、

こういう問題解決の方法は、
本質的には、日本人には合わないようにも思えます。

対立軸よりも、融合軸を多く取って合意形成していくのが、
日本人の問題解決のお家芸であり、
それは、古いやり方と一蹴するべきものではなくて、
先人たちの智恵と呼べるものではないかと思います。

現に、欧米のビジネス界でも、
最近は『会議前の根回し』という、日本的な手法が見直され
この手法を積極的に取り入れている企業も多いそうです。

今回の事件で、
橋下市長が行政長として、今の時点で成すべきことは、
徒に対立を煽って、不信感を掻き立てるのではなく、

教員側と協力して、
指導に適切な新しい教師を、三月末までに早急に探すこと

彼の市長としての責任や、振るうべき手腕というものは、
そこにあるのではないでしょうか

そしてその上で、
教育の在り方を問うのが、物事のスジである筈です


そういう物事の順序立てを行なう前に、
まずは対立軸を作り出して、これを問うというやり方に、
在校生や、これから入学を考えていた学生翻弄されることに、
僕は、奇妙な逆転現象を感じます

そして、
このような捻れをアナウンスする人が少ないことにも、
僕は、違和感を覚えるのです

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by hiro-ito55 | 2013-01-27 21:38 | 社会 | Comments(0)

日本語由来の中国語


各メディアでも取り上げられていますが、
尖閣諸島の領有権を巡って、
中国国内での反日運動激化している様子。
↓↓
中華ボイス(exciteニュース)


領有権問題とは別に、この記事の中では
日本が中国に輸出した最も多いものが、
 自動車やテレビましてや漫画・アニメではなく、言葉の単語

であるとし、

現代中国語の社会科学単語の70%が日本語に由来する』とする
中国CCTVディレクター許文広(シュー・ウェングアン)氏
言葉紹介されています。

例えば次のような単語
経済”や“哲学”、“環境”、“芸術”、“医学”、“法律”、“人権”、
 そして“抗議”も日本語に由来する外来語』であること、

つまり、
中国語になった日本語の一例を紹介しています。


僕らは何となく、
漢字は全て大陸(今の中国)から我が国に伝わったもの
と思っていますが、

逆に、中国に輸出されて
中国語化された日本語も、数多く存在していることに、
僕ら日本人も、ほとんど気付いていないようです。

記事で紹介されている単語の他にも、
日本語由来の中国語はたくさんあります

調べてみただけでも、これだけありました

体操 体育 記録 代表 優勢 劣性 入口 出口 大型 小型
市場 組合 絶対 相対 直接 間接 左翼 右翼 主体 客体
主観 客観 時間 空間 理性 感性 予算 決算 動脈 静脈
商業 工業 理想 理念 重工業 軽工業 石油 出版 支配
民主 民族 政党 原子 電子 電波 保険 国際 協定 社会
企業 投資 広告 景気 歴史 科学 農民 総理 漫画 世紀
注射 資本家 百貨店 伝染病 図書館 所得税 所有権 自然科学
土木工学 保健 保障 保証 保釈 背景 必要 便所 表情 表現
博士 不動産 材料 倉庫 財閥 財務 財政 弁護士 承認 抽象
出席 初歩 癌 処方 処刑 病理学 舶来品 意味 意志 改善
根本的 宗教 取締 取消 高利貸 自由 哲学 経済 信用 人格
住所 労働力 政策 固定資産 人民 共和 共産主義  etc...。



実に多くの日本語が中国語化されていること
びっくりしますが、

中でも、彼らが掲げる 『共産主義』までも、
日本語由来であることには、驚きです。


また、記事の中では
自分の国を愛しているのなら、
 祖国が他国から尊敬や畏敬の念を
 抱かせるように努力すべきであり、
 安っぽい怒りで自分の無知でちっぽけな考えを
 訴えるべきではない

と、許文広氏の言葉紹介しています。

尖閣諸島歴史的に見て、
我が国の領土であることに、間違いはありませんが、

許文広の言葉は、我が国の一部の過激な人たちにも、
当て嵌まることではないでしょうか。

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by hiro-ito55 | 2012-08-21 00:10 | 社会 | Comments(0)

逝きし世の面影


僕の好きな本に、
渡辺京二著 『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)があります。

知る人ぞ知る名著で、
密かにロングセラーとなっているそうですが、

この本で紹介されているのは、
江戸後期から明治にかけての日本の文明の姿について。

当時、
日本を訪れた外国人たちが残した膨大な量の手記を基に、
著者の鋭い洞察が加えられています。

ここには、
近代日本が失ってきたもの
そしてそれが、
西欧社会とは違う質の、立派な文明であったことが、
克明に記されています

この本の中では、
日本に対して批判的な外国人と、親日的な外国人
その双方の手記が、随所に記されていますが、

彼らが押し並べて感じたことは、
この国の住人(日本人のこと)は、幸福そうだ。』
という点。

当時は西欧中心の帝国主義の時代ですから、
日本を訪れた西欧人たちも、自分たちの文明こそ世界一だ
という価値観で日本を見ていた筈で、

その彼らを以ってしても、
日本人は幸福そうに見えたというのは、一体どういうことなのか
今一度考える機会を与えてくれるし、

そして、
僕ら日本人が本当に誇るべき過去を持っていたことに、
懐かしいなと単に感傷に耽るのではなく

現代と照らし合わせることによって、
逆に、今の混沌とした社会の姿を、
読者それぞれの心に鮮明に映し出すことができる

そんな一冊だと思います。


現代に生きる僕らも時代の子

自分自身主体的自分の人生を決めているように思えても、
自由、平等、民主主義、社会福祉といった近代的な価値観影響
少なからず受けています。

その一方で、
環境破壊人種差別いじめなど、
反人間的な面も生まれていることは、否定しようのない事実です。

ある時期まで、日本人自然と個々に身に着けていた
人に対する情の深さ信頼、或いは礼節といったものが、
封建的、或いは前近代的という理由で解体され、

代わりに、
個人を束縛するものから解放する自由平等といった、
観念的なシステムとしての近代的価値観がもてはやされる、

僕らは、そんな時代に生きています


例えば、
東京スカイツリーイオンに、万人と挙って出かける現象は、
メディア携帯端末から得られる情報から、
僕らが画一的な行動駆り立てられているだけであって、

それは、
自分自身各自の意思に従って、
自分の行動主体的に決めているわけではないし、
自由を謳歌していることにもならない

その反面、
東日本大震災に伴う震災がれきの問題や、
絆という言葉があれほど声高に叫ばれるのは、

僕らが嘗て当たり前のように持っていた
人に対する情や信頼、礼節といったものが、
逆に今の社会では、当たり前でなくなっている証拠
なのかもしれません。


思うに、
礼節といったものは、人の自由を束縛するものではなく
人がお互いを生きやすくするための智恵である筈で、

自由とは、分を守る中で、
それぞれが自主的に生きることだと思う。


例えば、
商売人の家の子が、商売人として生きるということは、
商売を通じて様々な人と出会い
社会との繋がりの中礼節学び
自分を表現する機会を得るということで、

それが、彼が生きるという意味になります。

この場合、
商売人という枠組みは、
彼の自由を束縛する制限とはならないし、

そういったことに、
自由が齎す幸福というものがあるように思うのです。


分を守る中で、それぞれが自主的に生きること自由ならば、
それは、人と環境に有機的な連環を生み出すことと、同義だと思う。

そういった人や社会との繋がりは、
ポストモダニストが好んで口にする 
対幻想』 や 『大きな物語』 といった、
人間が作り出した恣意的なものではなく、

歴史や文明の中で生きるしかない僕らの、
確かな大地だと思うのです。

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by hiro-ito55 | 2012-08-01 17:42 | 社会 | Comments(0)

放射線ホルミシス


昨年の福島第一原発事故以降、世間を賑わしている放射線量

震災がれきを題材に、
以前の記事でもそのことについて少し触れましたが、

実際のところ、放射線が人体に与える影響如何ほどなのか
年間1ミリシーベルトの被曝とは、どういうことなのか
素人の僕には見当がつきませんでしたが、
ある雑誌で、興味深い記事を見つけました。

その記事の著者「史実を世界に発信する会」事務局長
茂木弘道(もてぎひろみち)氏

記事の中で彼は、『放射線ホルミシス』 を論拠に、
放射線量が1ミリシーベルト以下でなければ安全ではない
現在のマスコミが騒いでいることは、『狂気の沙汰』 だとしています。

放射線ホルミシス効果とは、
高線量の放射線では、生物に重大な害を与えるが、
低線量の被曝では、害がないばかりか、
生物にとって、逆に良い影響を与える効果がある
というもの。


以下、彼の論点を纏めてみました。

・福島市では震災以降、バラや枯れたサボテンなど、
 植物や農作物が、異常に成長している事例がいくつも報告されている。
・これは、ミズーリ大学名誉教授トーマス博士が提唱した
 『放射線ホルミシス効果』である。
・放射線ホルミシス効果は、世界中から放射線医学の専門家が集まる
 1985年のオークランド会議で、その説が認められている




放射線ホルミシス効果の例

・地上の三百倍もの宇宙放射線を浴びる宇宙飛行士の健康チェックを
 十年間行なったところ、宇宙に行く前よりも帰ってきたときの方が、
 一様に健康データが良くなっていた

・広島、長崎の被爆生存者(母数十万人以上)の追跡調査を行なったところ、
 被爆者の癌や白血病の発症率、寿命、子供への影響など、
 全ての統計において、年間100ミリシーベルト以下の被爆者は、
 一般平均値よりも数値がよい

・世界八つの核施設で働く被曝労働者の癌死亡率を調べたところ、
 いずれも年間100ミリシーベルト以下の被曝労働者のほうが、
 全く被曝していない労働者よりも50~90%も死亡率が低い




放射線量に関する誤解

・「放射線は体に悪い」とされている論拠は、
 ICRP(国際放射線防護委員会)が採用している「LNT仮説」にある。

・LNT仮説とは、1927年に米国のマラー博士によって提唱された仮設で、
 オスのショウジョウバエに高線量の放射線を当てたところ、
 二代目、三代目に奇形などの異常が確認されたことから、
 その被害の度合いは、放射線量に比例するとするもの。

LNT仮説では、高線量の実験は行なったが、
 低線量の実験は行なっておらず、「恐らく放射線量に比例するであろう」
 という、あくまで「仮説」にすぎない

・ICRPは博士のこの仮説を採用し、「どんな放射線も有害である」と訴え、
 世界中に放射線の恐怖を印象付けた

・「人体に影響を与えない放射線量は年間1ミリシーベルト以下」とは、
 ICRPの設けた基準で、科学的根拠はない

・この基準は、どこまで放射線量を減らせるかという可能性に対し、
 「年間1ミリシーベルト以下」と言っているのであって、
 それ以上の放射線が人体に有害であるという根拠はどこにもない

・我が国では、1954年に起きた第五福竜丸事件以来、
 放射線の恐ろしさが広く知られるところとなったが、
 事件の半年後に、被曝によって亡くなったとされた乗組員の死因は、
 実は被曝が原因ではなく、売血輸血による急性肝炎であった。

・また、第五福竜丸が被曝した付近のマーシャル諸島の住民や、
 他の乗組員には、肝機能障害は一切認められなかった。

・昨年、東京都世田谷区の民家から高線量が検出され、
 マスコミがその恐怖を騒ぎ立てたが、その後の調査で、
 線量の原因は床下に保管された放射線ラジウムの入ったビン
 (夜光塗料の原料)であったことが判明。

・専門家によれば、この家の住人は年間30ミリシーベルトの線量を
 浴び続けている筈だが、50年間この家に住んでいる女性は健康で、
 人体への影響は確認されていない。

・また、大手マスコミは国民に不安を煽り立てておいて、
 その後の調査結果については、報道していない




このような事実を報告した上で茂木氏は、
「事実はどうあれ、放射能は絶対に悪」という前提に立っている限り、
 物事は何も伸展しない。
「別な意見もあるようだが、本当はどうなのか」
「根拠となっている説は古いようだが、最新の情報はどうなのか」
 と調べる姿勢がいまの日本に一番必要

としています。

こちらは放射線量に関しては素人なので、
ICRPが採用している「LNT仮説」基準の妥当性や、
放射線ホルミシス効果の信憑性については、
依然、疑問が残りますが、

少なくとも、
徒に国民の不安煽り立てる大手マスコミ情報を
そのまま信じるよりは、いくらか説得力のある報告です。







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by hiro-ito55 | 2012-06-21 00:10 | 社会 | Comments(0)

震災がれきと心のがれき


報道を見る限り、
東日本大震災後の復興が、なかなか進んでいないようです。

これを政治の主体性のなさ原因だと、
他人事のように言ってしまうのは容易い

今回の震災復興は、よく敗戦後の復興比較されるけれど、
60年前と今とで根本的に違うのは、
復興を国民レベルで共有できているかいないかの差
ではないかと思えてきます。


敗戦後の日本では、
全国で百万人規模の餓死者が出たといいます。

家族も、家も、食べ物も、何もない人たちが全国に溢れていたわけで、
そういう同じような体験が、
望まずとも日本人全体に共有されていたように思います。

そこから、東洋の奇跡とまで言われた復興が成し遂げられたのは、
生き残った人たちが、戦争で亡くなった人たちに対する
負い目を背負って生きてきたからかもしれない。

けれど、去年の震災では
その共有感が、限定的なものに留まっている
という現実があります。

現に、被災地以外に住む人たちは、去年の震災後も、
これまで通りの生活ができてしまっているわけで、

電力不足だ、なんだと言われても、
これまで通りの生活が、一応の形でできてしまっている人たちと、
住むところや職を失って、家族と一緒に暮らすこともできない人たちでは、
どうしたって復興の意識に、大きな差が生まれてしまう

このを何とかして縮めていくことも、
復興への道筋のひとつになっていくと思います。



僕の住む愛知県では、
震災がれきの処理を政治判断で受け入れました

周知のことですが、被災地では、
震災後、処分できずに現地で放置されている多くのがれきがあり、

愛知県の方針は、
その処分を一部引き受けようというものです。

僕は、基本的にこういう取り組みには賛成で、
受け入れていくためには、具体的にどうすればよいかを、
もっと積極的に検討していくべきだと感じています。

しかし、その一方で、
根強い反対意見があるのも事実です。

報道を見る限りでは、
反対意見の理由の大半が、安全性に対する疑いで、
放射性セシウムのことが、盛んに言われています。

それで、断固反対している人も多くいるけれど、

仮に彼らの言うように、がれきが放射性物質汚染されていたら、
それらを被災地に放置することが、
被災地の人に被爆を強制するということになる
というふうには、考えないのだろうか。

それとも、それも政治のせいにして、
適切な処置をしない〇〇が悪い』 と、
他人のせいにしてしまうのだろうか。

それではまるで他人事です



例えば、主要エネルギーは、
石炭→石油→原子力推移してきた歴史があるから、
電気自動車だって、オール電化の家だって、自動販売機だって、
結果として、
原子力エネルギーの需要を推進してきたことに変わりはない

今、原発に反対している人たちでも、
そうやって僕らは、
今までどこかで原子力のエネルギーを使って生きてきた筈だし、

今の生活が成り立っているのも、
エネルギーを、何かの形で原子力に依存してきたからだと考えれば、
多かれ少なかれ、
僕らは原発推進への、共犯的な役割を担っていたことになります

だとすれば、
それは最早、他人事とは呼べない

むしろ、僕らが等しく共有し
いかにこれを乗り越えていかなければならないかという
そういう方向性を持って、
臨まなければならない種類の問題なのです。

そういう方向性を持って、
国民の知性は使われなくてはならない筈ですし、
今まで原子力エネルギーの恩恵だけを受け続けられたことを幸いにして、
その負の部分に関しては、他人が処理してくれというのは、
随分と身勝手な振る舞いではないのか、と思えてきます。

今回は、たまたま東北に住む人たちが不幸に見舞われただけであって、
負の清算を、被災地だけに押し付けるのは、
あまりにも虫のよすぎる話だと思う。


と、ここまでは、震災がれきに放射能に汚染された物質が含まれていたら
という仮定の話ですが、
汚染されていなくても、基本的には同じことです。

政府が全国の自治体処分を要請しているのは、
あくまで汚染リスクの少ない宮城、岩手の震災がれきであって、
福島は含まれていません。(福島の方には気の毒ですが...。)

だから、
ここまで反対するのは、少し過敏な反応ではないでしょうか。



この前、細野大臣が、震災がれき受け入れのために、
各地の自治体に説明に赴いている映像がニュースで流れていましたが、

そこで 『一般市民』 と紹介された一人の中年女性が、
私たちの町が放射能で汚染されたら、誰が責任を取ってくれるのですか
と、物凄い剣幕で大臣に捲くし立てていました。

この女性の顔を、僕はひどく醜いものに感じました。

人間は、物事を他人事と決めつけて処理するためなら、
こうも醜くなれるのかと、悲しい気持ちになりました。

同時に、僕だったら、
こういう種類の人間の目などは、まともに見ることはできないな、
という、何とも言えない嫌な気分にもなったのです。

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by hiro-ito55 | 2012-05-22 16:22 | 社会 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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