考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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カテゴリ:医療・福祉・対人支援( 80 )

一昨日のつづきです。

図面だけを見てあれこれと言う意見と、
実際に肌で感じてみて述べる意見とでは、
同じ意見でも違います

自宅に訪問できれば、
実際の利用者さんの動きを実地で確かめることができるので、
こちら側もより具体的にアドバイスをすることが可能になります。

それに、図面判断では、
現実とは違う少し理想的な意見 (言葉は悪いですが、ある程度好き勝手なこと) 
を言うこともできますが、

実地での検証では、
自分の考えと、利用者の実際にできる動きや生活との、
具体的な擦り合わせ作業が必要とされます。

つまり、自分の意見に責任を持つことができるのです。

これは、リハビリだけでなく、他の職種にも言えることだと思います。


そして何よりも、もし時間が合い、
家族の方や在宅のケアマネさんからも、自宅で直接お話を伺い、
実地に基づく意見交換をすることができれば、

施設から在宅への、より具体的な流れのあるプラン
も立てやすくなるというのが、
各専門職と利用者双方の間における、収穫でもあるのではないでしょうか。


以前、 
『利用者さんから学ぶ思考 その1~4』 (2011年5月20日~31日の記事) 
という記事を書きましたが、

Fさんの場合も、
自宅退所前にケアマネと本人の間でぎくしゃくした苦い経験があります。

Fさんは、自宅の様子をリハビリもケアマネも見に来ることさえしないのに、
あれこれと好き勝手なことを言われるのが、癪に障ってしまったのです。

それを、何かの折に施設ケアマネさんに話したことがあります。

彼女は、大変興味深く僕の話を聞いて下さったどころか、
彼女自身も以前から、退所前の利用者宅への訪問の必要性は、認めていたようです。


しかし、事務所側と僕の上司は、 
費用対効果が上がらない』 『今の方法で充分である』 との理由で、
居宅訪問の必要性はないと判断しています。

費用対効果が上がらない』 とは、
業務時間中にケアマネとリハビリ職員がそれぞれ抜けることは、
その時間に業務の空きができることを意味し、
他の職員に業務のシワ寄せがいく可能性が高く、

また、例え退所前後訪問指導加算を算定できたとしても、
人件費等の必要経費を割り引けば、
収支の上でも割に合わなくなるということです。

実際、周辺の老健でも、
よほど母体経営がしっかりとしているところしか、
退所前後訪問指導加算算定していません。

ですので、退所前の利用者宅訪問の話は、事実上、棚上げ状態です。


しかし、一専門職の立場で言わせていただけば、
老健の趣旨利用者の在宅復帰支援である以上、

各専門職が居宅を訪問し、
 実際場面をその目で確認しながら、そこで意見交換をすることは、
 お互いのスキルアップの最も近道


であるし、

そこで出された提案が、
 利用者と家族の生活を支える、最も具体的なヒントと成り得る


ならば、

それは彼らに安心と自信を与え、
 結果として、利用者の在宅復帰を促進する


と、僕は考えています。


また、僕自身は、仕事の時間は自分で作るものだと思っていますし、

例えそれが短期的に見て
収支に釣り合うだけの労働ではないにしても、

その目先のコストを、
未来への投資へと変換していけるよい方法はないものか、

というのが僕の本音なのですが、

しかしこれは、 『あまりにもきれい事』 であるのかもしれません。


こんなきれい事が空しく感じるとき、少しだけこの仕事を辞めたくなります。


ま、そんなことを言っても何も始まりませんね。

せめて今できる仕事を、
一所懸命やっていくことだけは、怠らないようにしたいものです。

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by hiro-ito55 | 2011-07-30 00:08 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(2)
今回は、老健に入所している利用者さんが自宅に退所する際
施設のリハビリ職員として、自分はどのように関わっていけるのか、

僕の経験を少しお話ししたいと思います。

書いている裡に、文章が少し長くなってしまったので、
前後半に分けて記事にします (後半はほとんど愚痴ですが(^_^;))。

今日は、前半部分です。



僕の働く老健では、利用者の自宅退所前に、
自宅がどういった造りであるかといった
住環境の情報を入手することがあります。

大抵の場合、
それは図面 (利用者の家族にお願いして、手書きで作成してもらったものもある) 
写真であることが多いのですが、
ケアマネさんから口頭で情報を伝えられることもあります。

いずれにしろ、その情報を基に、利用者の在宅生活で必要な動作の獲得や、
より適切な補助具の選定などをケアマネに提案し、
話を進めていきます。


例えば、高さ10cm段差がどこそこに何段あって、
利用者の生活の動線に一日に必ず一回は絡むので、
退所前に段差超えのリハビリをしてみて、
それがクリアできる課題であるのかを判断したり、

もしできそうにない場合は、
移動式の手摺りなどの福祉用具を検討したりします。

或いはベッドがレンタルでき、もしこれを使うならば、
移乗の際には縦手摺り(I棒など)を設置してみてはどうかといったことも、
検討課題に上ることがあります。


しかし、図面や口頭での情報では判らないことがあるのも事実です。


例えば、自宅の居室が 『フローリング』 であると一言でいっても、
ベニヤ板のような素材のものもあれば、
もっと材質の硬い床もあります。

そういった、環境の持つ質感までは図面だけでは判りません。


また、玄関に続く屋外の通路も、
がどれぐらいで距離が何メートルであるかが判っても、
通路の不規則な傾斜凹凸みたいなものまでは、
詳しく知ることはできません。

そういった細かな情報が、
図面などで必ずしも充分に反映されているとは、
言えないことがあるのですが、

必要な情報の全てを拾い上げて、過不足なく伝えてもらえるよう、
事前にケアマネさんにお願いするのも無理な話です。


この判らない部分を明確にするには、
やはり自宅を一度訪問して、見せて頂くしかないのです。

一言でいえば、 『百聞は一見にしかず』 といったところでしょうか。


そうすれば、
訪問してみて改めて気付くこともあるかもしれませんし、

より具体性を持ったリハビリからの意見として、
検討課題に上げて頂くことも可能になります。

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by hiro-ito55 | 2011-07-28 22:19 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

介護・福祉のビジネス化

 『介護ロボット』 という言葉を聞いたことがあると思います。

介護ロボットと一口で言っても、
先髪ロボット食事介助ロボット歩行介助ロボットなど、
様々なロボットが研究・開発され、臨床的な試験も行われています。

今、この技術が世界中で注目を集めつつあり、市場も拡大しているようです。

実際、福祉先進国と言われているデンマークも、
積極的にこの市場に参入しようとする動きがあり、
日本の技術に注目してわざわざ見学に来られるそうです。

日本でも、この技術の国外への輸出を、
閉塞した経済の新たなビジネスチャンスとして捉え、
積極的に市場に参入しようとする動きもあるようです。



『高福祉社会』 といわれるデンマーク
しかし、国内では高齢社会を支えるために消費税は25%、
2010年現在で総人口の20%あまりを、65歳以上の高齢者が占めています。

そして、日本と同じでこれからも高齢者の比率は増加し、
福祉現場の人員不足と国民の負担は、増加し続けるものと予想されています。

このような現状を打破するために、注目されているのが、
介護ロボットに代表されるような『サイエンステクノロジー』です。

実際、認知症のお年寄りにリアルな動きをするネコのロボットを宛がったところ、
認知症の薬がほとんど必要なくなった、
という臨床報告も挙がっているそうです。


テクノロジーといえば、車椅子スライドボードなどもテクノロジーですが、
介護ロボットなどはこのような技術とは一線を画すもので、
サービスそれ自体を技術化しようとする、そのような技術です。

このような技術を普及させるための、そのための市場の掘り起しが、
世界規模で進みつつあります。

日本としては、経済の閉塞感を打破する新たなビジネス展開の場として、
介護・福祉サービスに狙いをつけ、
これを大規模に市場化していこうという動きが始まっています。

このような流れはこれからもどんどん加速していくでしょうし、
そのような動きもあっていいとは思います。

飽く迄、程度の問題でもあると思うので、
どこまでなら許容範囲であるのかは、真に微妙な問題ですが、

ただ、個人的な感想を述べさせていただけば、
介護や福祉の分野を、
あまりビジネスワードで語ったり、テクノロジーで括ったりしてほしくはない
(ちょっと今回は 『です・ます』口調はやめますね。)


まず、サイエンステクノロジーの大規模な導入が、
介護現場や国民の負担を軽減してくれるという期待は、
希望的観測の類である ということは申し上げておきたい。

それは、例えば一般的な企業をひとつ想像していただけると良いと思う。

例えば、機械化の導入で自動車から食器に至るまで、
大量に物を生産できるようになった。

確かに物は大量に作ることができる
しかしその分、生産に携わる人の労働は確実に減ったのである。

これが、物の生産という労働に限定されたものであればまだよいが、
機械化がサービスの分野にまで及べば、
サービスに携わっている人の労働も確実に減るのである。

そのくらいの計算は小学生にだってできる。

つまり、僕らの負担を減らし
人間を重労働から解放し、
にしてくれると期待されたサービステクノロジーは、

行き過ぎれば労働賃金の低下や、
僕らから労働の機会さえも奪うことに繋がるのは、
自明のことのような気がしてならない、
と申し上げたいのである。

物の生産大規模機械化して、
それでも賃金のアップ
雇用確保のために新たな人員を雇い続けようとして、

出口の見えない慢性的な不況に陥っている状況が、
今の日本の現状ではないのか。

それなのにそれを、福祉や介護の現場にも当て嵌めようというのだろうか。

これでは、経済や雇用問題の解決どころではないし、
何か暗澹たる思いに囚われてしまう。


そして、もうひとつは、
介護・福祉の世界をサイエンステクノロジーの枠で括ったり、
大規模なビジネス化を目指そうとしたりしている方々は、
一般企業でのサービスと、介護、福祉現場におけるサービスが、 
質的に異なる ということに気付いておられるのか、
ということである。

一般企業 (この際、家電量販店でも、ケイタイショップでもいいけど) 
におけるサービスは、
お客様の財布から如何に当店で、気持ちよくお金を(たくさん)出させるか、
あわよくばリピーターとなって繰り返しお金を払っていただけるか

がその主目的であり、そのためのサービス行使である。

だから、 『お辞儀は斜め45度まで』 なんていうマニュアルもあるし、
ひたすら 
『本日のお買い上げ、誠にありがとうございました!』 
と叫び続ける新入社員研修もあるのである。

全ては、お客様により多くのお金を出して頂くためである。

何もそれが、悪いと申し上げているのではない。
『そういうもの』 なのである。

けれど、
介護・福祉のサービスは、
お客様の財布の紐を緩めていただくためのものではない


相手を人間として尊重しているか、
つまり人間同士の最低限のマナーの問題なのである。

そこには 『この人にはちょっと気に入ってもらいたいな』 
という下心ぐらいは存在するかもしれないが、
僕らのサービスが、マネーによる対価の発現や等価交換という、
ギャランティーの場を、本質的に内包していないことだけは確かである。

それは、販売店で見られる 『うちで商品買ってもらえばそれでいい。』 
という、良くも悪くもドライなものではなく、
もっと 『人間臭いもの』 の筈である。

介護・福祉の世界をビジネスワードで語ったり、
サイエンステクノロジーで括ったりすれば、
この人間臭さというものはほとんど必要ではなくなり、
何か別のものに変質させられてしまうでしょう。

そのような姿が、介護や福祉と呼べるものなのか、
或いは介護・福祉の本質と、果たして相容れるものなのか、
よくよく考えてみなければならないのではないのか、

そのように思う。


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by hiro-ito55 | 2011-06-08 22:59 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)
先月の記事のつづき、 『その3』 です。
今回が最後です。

前回は、
『僕らの仕事というものは、個人的には、
利用者の 「したいこと」 よりも 「できること」 
を提示することを基本とし、
利用者の 
「今のままの自分を認めてもらえる」 という 「自尊心」 
を尊重するようにしたいものです。』
というようなことを述べました。

そして、
『 「大きな目標あっての日常」 という観点も、
実は、ひょっとしたら僕ら若い世代が、その若い時期に、
限定的に持つ価値観であるかもしれないことに留意し、
そのような価値観の押しつけになっていないか、
細心の注意を払うことも無駄ではない。』
と述べました。



あくまで個人的に思うことですが、
歳を取ってからも、
何かに毎日頑張らなければ、成り立たない日常というものは、
僕はごめんです。

そんな、何かに縋りついて一喜一憂するような毎日よりは、
今、自分にできることを他者に贈与してあげられる毎日のほうが、
例え些細なものしか贈れない自分であったとしても、
より充実しているように思えます。

そのためにも、 
『健康で、五体満足であることが何よりも幸せ』 という有り難味を感じ、
いつも健康であることを心がけるだけでなく 
(つまり、一元的価値観にどっぷり浸かるだけでなく)、 

今の内から 
『今の自分でできることを行使する』 という癖をつけておくことは、
身体に不自由を来すようになっても、
自尊心を保ち続けるための 『秘訣』 になるだろうと思います。


もちろん、このような予防的観点は、僕の個人的な価値観ですし、
幾つになっても、何かに取り組み頑張るという姿勢も、
時には必要であると思います。

ですので、これはどっちかの在り方を選べというよりは、 
『比重の問題』 であるとも思えてきます。

しかも、この比重は、
歳を取るとともに、徐々に変化していくもののように思えます。


一般的に 
『目標に向かって頑張る』 という目標志向型は、若い時代に強く現れ、 

『できることをする』 という現実志向型的な在り方は、
人生経験の積み重ねや、歳を取るという変化とともに、
強まっていくように感じます。

『地に足の着いた生き方を選択していく人』 ならば、
この傾向は強いでしょう。


しかし、そもそも歳を取るという実感自体も、とても曖昧なものであるし、
また、歳を取ったと感じることにも、
個人差というものが当然あるので、

この傾向に対する年齢や人生経験を軸にしたデータ的な裏付けはありません。

飽く迄、僕の想像に基づく見解です。

そういった僕の想像に基づけば、
歳を取って、施設で毎日在宅復帰という大きな目標に向かって、
リハビリに精を出さなければ、一日が終わった気になれない
『スーパーじいちゃん』
を、理想の将来像として、
僕は上手く想像することができないのです。

分かるのは、
想像することができないということは、
自分にとってはそれは現実的な将来像 (老人像?) ではないのだろう
ということぐらいです。


しかし、中には上手く想像できる人もいるかもしれませんし、
在宅復帰に向かって頑張ることが、
実際に日々の充実感に繋がっている人も、現に存在しますので、

今できることに重点を置くことが、
全ての利用者にとって充実した毎日であるとは、
一概に断定することはできません。

ですので、 
『大きな目標に向かって頑張る』 人もいれば、 
『できることをさせてもらえることで満たされている』 人もいるし、
そのどちらともつかない人もいる、

という現実の中で、
それを無視して一元論的に 
『在宅復帰に向けて毎日頑張りましょう。』 と、
乱暴に一括りにしてしまってはいけません。


『その1』 から述べてきたことを簡単に言えば、
ありきたりの事ですが、 
『私的な考えをあまり拡大適用しない』 という 『節度を伴った言動』 が、
僕ら現場のスタッフには必要である、
といったところでしょうか。





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by hiro-ito55 | 2011-02-09 20:07 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)
前回 『その1』 では、

『在宅や地域に 「共生機能集団」 としての 
「受け皿」 の機能が不足している現実があるにも拘らず、
僕の働く老健という職場のスタッフにも、
意外と 「利用者の自宅復帰」 に固執する人が多く、
そのような 「一元論的に絞った目標」 というものは、
意外と汎用性がないのではないか』 

ということを述べ、

『利用者が入所生活を送る中で、
「老健」 「自宅」 「特養」 「グループホーム」 
などといった選択肢の中から、 
「これはないな」 と思えるものをひとつずつ 「消去」 していく、
というやや 「後ろ向きな目標設定」 もひとつの手である』

ことを書きました。


今回はその続きです。



僕らの仕事というものは、個人的には、
利用者の 『したいこと』 よりも 『できること』 を提示して、
サービスを提供する機会が多いのではないかと思います。

また、利用者の日常での毎日を考えたとき、 
『今、自分にできること』 を、 『させてもらえる』 ということは、 
『生きていることをリアリティーとして感じられる』 
ということかもしれません。

そして、施設利用者の中には、
それだけで充分満足そうに見える人も、実は多くいたりします。

このことは、 
『今のままの自分を認めてもらえる』 という 『自尊心』 とも
無縁なことではないでしょう。

しかしそもそも、 
『できることしかさせてもらえない』 
という思いを抱かせてしまっては失敗ですので、 

『したいこと』 と 『できること』 のバランスを採る 
『さじ加減』 は最低限必要ですが、

個人的には、現実的な目標設定というものは、
この 『できること』 つまり 『自尊心』 に
根差したものであるべきだと思います。


そうでなければ、 
下手をすると 『今の自分を認めてもらえない』 という不安を、
最初の段階で、利用者に抱かせてしまうことにもなります。

そればかりか、
その不安を払拭するために
リハビリに依存する 『リハビリ依存症』 の利用者を、
スタッフ側から作り出すことにも繋がりかねません。

そして一旦、このようなサイクルに陥ってしまうと、
目標を修正するのは容易ではありませんし、
スタッフも利用者も、現実と折り合いをつけるために、
ついついお互いに無理をしてしまいがちです。


このようなボタンの掛け違いを避けるためにも、
前回の記事ような  『目標設定は消去法で』 という、
やや 『後ろ向きな目標設定の方法』 をお勧めします。


しかしもちろん、
大きな目標に向かってリハビリを頑張り続け、
それがうまくいって無事在宅に復帰する人がいるのも事実です。

ですので、その人たちの在り方まで否定するものではありませんが、 
『大きな目標あっての日常』 という観点も、
実は、ひょっとしたら僕ら若い世代が、
その若い時期に限定的に持つ価値観であるかもしれない、
とも思います。

もしそうであるならば、サービスを提供する際は、 
『そのような、世代特有の価値観に自分たちが立脚して、利用者を見ていないか』 
と疑ってみることも、
けして無駄ではないでしょう。


 (その3につづく......。)





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by hiro-ito55 | 2011-01-27 19:04 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)
今、地域と共同体のことについて、
僕なりに文章を纏める作業をしていますが、 
在宅や地域に 『共生機能集団』 としての 
『受け皿』 の機能が不足している現実を、
どう補っていくのかというのが、その最大のテーマになりつつあります。


しかし、僕が働く老健という職場のスタッフにも、
意外と 『利用者の自宅復帰』 に固執する人が多いのには、
正直驚かされます。

それが多角的にみた結果であればよいのですが、
中には 『利用者の特養待機はあり得ない』 
とまで言い切るスタッフもいますし、

そのような 『一元論』 もどうなんでしょうね、
と思うことがります。

ひとつ言えることは、 
一元論的に絞った目標というものは、
意外と汎用性がないものであるという事実を、
自覚することではないでしょうか。

先の記事でも触れましたが、利用者が自宅に復帰しても、
そこが新たな孤独や閉塞感が生成する場であっては、
せっかくの自宅復帰も意味を成しません。

そのような場合、 『特養待機』 も
選択肢としては 『あり』 かもしれないのです。



現場で働いていると、目標というものは案外、
消去法によって得られることが多い気がしたりします。

そうではなくて、数ある選択肢の中から、
最初に自宅復帰という大きな目標を選択して、
その目標に突き進んでいくのも、もちろん 『あり』 です。

しかし現実には、
利用者の心身状況というものは入所期間中も変化していきますし、

家族の健康状態や、
経済的事情などの環境、
思惑なども、変化していくものです。

そのために三か月に一回のケアプランの見直しがあるのですが、
現場のスタッフに 『なにがなんでも自宅復帰』 
という共通意識が根強くあると、
目標の軌道修正というものは、なかなか容易ではありません。

施設のケアマネさんも、その点で苦労している方もいらっしゃいます。


ですから、現場のスタッフは、
状況というものは常に変化していくものであることを、 
(当たり前のことですが)
最初に頭の片隅にでも置いておく必要があります。

そして、
その変化になるべく対応できるようにするためには、
最初から一元論的に思考することが、
以後のスタッフ間の合意形成の妨げになることを、
自覚しておかなければなりません。

それに、利用者が入所する前から、その施設のスタッフに 
『こうでなければならない』 
という強力な目標設定が既に存在すると、 

『その設定に合わない』 利用者が入所した場合、
入所したこと自体が不幸になってしまうことすらあるのです。


ですから、利用者が入所生活を送る中で、
『老健』 『自宅』 『特養』 『グループホーム』 
などといった選択肢の中から、 
『これはないな』 と思えるものを、

本人の希望や心身情況、家族状況の変化などから多角的に検討して、
ひとつずつ 『消去』 していくという、
やや 『後ろ向きな目標設定』 もひとつの手なのです。

そして、目標をより 『現実的な話』 にする場合は、
このような消去法が有効です。


高い目標設定は、 『こうでなければならない』 という 
『希望』 や 『幻想』 を多く含んでいますので、
いつまでもそれを修正できないような 『土壌』 を、
僕ら現場のスタッフが作り出していてはいけません。

高い目標設定というものは、あっても全く構いませんが、
それはいつでも 『現実的な話』 に修正可能なものであるべきなのです。

何故なら、そのような汎用性がなければ、
それはスタッフからの 
『理想の押しつけ』 にすぎないものに変化してしまうからです。

スタッフの考える 『私的な理想像』 を、
あたかも 『あなたのあるべき当然の姿』 として押し付けられては、
たまったものではありません。

そしてそこには、 『私的な考え』 を、
みんなが当然と思う 『公的な考え』 にすり替える
ロジックの飛躍が働いていることも、往々にしてあるのです。

このような 『すり替え』 をされると、
利用者や家族は、なかなかそれに 『NO』 と言えるだけの
根拠を示すのが難しくなります。

そして最悪なのは、この間に 
『現実的な目標』 を考える機会が失われてしまうことです。

そのようなことにならないためにも、
利用者の目標設定には常に慎重でありたいものです。


あと、消去法での目標設定の良いところは、
お互いに 『楽』 であることです。

それは何故かというと、 『無理をしない』 からなのですが、
このつづきは次回ということで....。




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by hiro-ito55 | 2011-01-17 01:09 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

 共生機能集団の補完

先日、 『ロジックの飛躍と適正化』 というタイトルで記事を書きましたが、
酒井穣さんのブログ 『NED-WLT』 でも、
コミュニティーについての大変興味深い記事を書いておられるので、
興味のある方は一度覗いてみてることをお勧めします。

データ的な裏付けがきちっとなされているので、説得力があります。

タイトルは 『コミュニティーが見直されつつある背景』 です
(僕の記事の右下の 『エキサイトブログ』 のところにもリンクを張ってあるので、
そこからジャンプできます。)。



その記事から、一部抜粋させていただきます。

日本では、少子高齢化によって地域コミュニティーの重要性が高まっているにも関わらず、そもそも日本人は他人と付き合いたがらない傾向があるとすれば、「なんらかのルールを自発的に共有しようとする人々の集まり」である地域コミュニティーを活性化していくのは相当難しいチャレンジと言えそうです。
コミュニティーが持っている「助け合いの精神(互酬性)」は利用したいものの、コミュニティーへの参加自体に気が乗らないという状態なのです。このギャップ(問題)を埋めようとしているのが、どうやら各種のNPO(非営利団体)のようです。 


(中略)

NPO法人も立派なコミュニティーの一種なので「ひたすら、サービスを行うコミュニティー」と「ひたすら、サービスを受ける孤立した個人」に分断されているという部分は、相当気になります



僕も現在、
地域や共同体についての考察を纏めている最中ですが、
下線部分の酒井氏の 『役割の分断』 に対する違和感は、
僕も全くの同感です。

介護保険制度を利用した各種在宅サービスも、
実はこれと同じで、 
『サービス提供者』 と 『サービス利用者』 という、 
『役割を固定化されたもの』 であると思うからです。

これについて、まだ書きかけの文章ですが、僕の考察を載せておきます。



現在、老健の抱えている大きな問題のひとつに、 
『入所している期間の長い利用者が少なからずいる』 
という問題があります。

ご存知の通り、老健の役割は 『利用者の在宅復帰の支援』 にあり、
そのために介護や医療などの様々なサービスを提供するもので、

利用者の早期の在宅復帰を実現することが望ましいとされています。

しかし、現実には、
家族が利用者を自宅に引き取ることを渋っていたり、
利用者が自宅に帰っても、妻(夫)も要介護者となって
他施設に入所中であるため、
一人暮らしをせざるを得なかったりするケースも存在します。

つまり、入所者の在宅復帰を目指すはいいが、
その 『受け皿』 がしっかりと機能しえないケースが、
少なからずあるということです。

これは、共同体や家族が、 
『共生機能集団』 としてはもはや機能していない、

もしくは機能するには能力的に不足し、
受け皿としては大きな負担となっているという事実を、
少なからず示しているのではないでしょうか。

そして、
このような 『長期入所』 の可能性を持った 『予備軍』 が、
現在の長期入所者よりも遥かに多いであろうことは、
老健に 『入所待ち』 をする人が全国に相当数いる現状を見ても、
容易に推測できます。


この問題に対して国は、
施設利用者の在宅復帰の推進を、更に推し進めていく方針で、

そのために介護保険下での在宅サービスの充実が、
急務であるとしています。

つまり、
共生機能集団である共同体や家族の能力的な不足を、
介護保険サービスで補おうという方針であるのですが、

現状はそれほど効果は上がっていないと言えるでしょう。 

そうでなければ、
老人の 『孤独死』 ということが、
昨今これほど多く話題に上ることもない筈です。


その効果が上がらない原因のひとつに、
『介護保険サービスを提供する者は、
介護保険サービス以外のサービスを提供してはならない』
というルールの存在があります。

これは、
『定められた時間通りにきっちり自分のサービスのみを提供する』 
ことを、厳密に規定することであり、

本来、人情的に 『してあげたいこと』 も 『認めてあげたいこと』 も、
提供したりされたりすることができないことを意味します。

もし、うっかりしてしまえば
それは 『法律違反』 となり、厳罰に処せられます。

これは、 『役割の固定』 のためのルールなのです。

このルールに則る限り、
サービス提供者は、あくまで提供者としての役割を、
利用者は、あくまでサービスを提供される者としての役割を、
それぞれ外れることはできません。

介護保険が
『利用者とサービス提供者』 との 『契約』 に基づくものである以上、
これはいたしかたのないことなのかもしれませんが、 

『贈与の往還』 という共同体の基本コンセプトを考えたとき、
現在の介護保険下での在宅サービスでは、
質的に、共同体を補完するための機能を十分に発揮することは、
今後もできないでしょう。


もはや、介護保険サービスの枠内で
地域を考える段階ではなくなっているということは、
介護・医療関係者の間では気付かれつつありますが、

介護保険も
共同体や家族の共生機能集団の不足を補う方法のひとつにすぎない
と捉え直した上で、

それと他の 『贈与』  をいかに組み合わせていけるか、
という 『もう一段大きな枠組み』 で
考えていく必要があるのではないでしょうか。

そうでなければ、
介護保険サービスのみに頼らなくてはならない高齢者の 『孤独』 は、
ますます深まっていくように思われるのです。




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by hiro-ito55 | 2011-01-11 20:39 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)
『少子化問題』 『高齢化問題』 『超高齢化社会』。
こういった言葉を、僕らはほぼ毎日のように目にしたり、耳にしたりします。
僕らの社会の構造が変化してきている証拠ですね。

しかし、そもそも 『少子化』 や 『高齢化』 というものは、 
『何を基準に』 したものであるのか、
という問いは見落とされがちです。

いや、見落とされがちというよりは、
ほとんど無視されてこれらの事柄が論じられている
というのが、現状ではないでしょうか。

僕はここにロジックの飛躍があるように思えてなりません。


例えば、

『まだまだ作業療法士の数が足りないので、養成校をどんどん増やしましょう』

という方針は、

『そもそも作業療法士になりたいと思っている人が現状で何人存在するのか』
『存在するとして、今後そのような人は増え続けていくのか』

といった考察が抜けているとしたら問題ですよね。


実際、養成校の中には
既に定員割れをおこしているところもありますし、
学生の募集を停止している養成校もあります。


『少子化』 問題や 『高齢化』 問題もこれと同じで、

『そもそも高齢化(少子化)とは、
何と比較してどれだけの人数に達したら
高齢化(少子化)していると言えるのか』

『高齢化(少子化)しているとして、
今後それは何を基準にして適正化を目指すのか』

といった筋道が見えてこないということです。

いや、具体的には
65歳以上の人口が総人口の21%以上に達したら 
『超高齢社会』 と呼ぶのだ、
という人がいるかもしれませんが、

では、その 『超高齢社会』 の21%という数字は 
『何を基準にして』 そう設定しているのか、
という問いの答には成り得ません。

この 『問い』 つまり 
『何を基準にしているのか』 という考察がスッポリ抜けてしまうと、

例えば、
『少子化対策として、出産を奨励する政策を立案施行したとしても、
産科や保育所が不足し』 たり、

『高齢化対策として施設数を増やしたが、
思った以上に高齢者が集まらない』 

という結果を招くということです。

そのような結果は、明らかに失敗です。


もちろん、この結果にはバラつき、
つまり地域差というものがありますが、
僕らが 『少子化』 や 『高齢化』 というものを考えるとき、
その言葉をそのまま鵜呑みにして考察していくことは、
少し危険であるように思えるのです。

何故なら、 『少子化』 『高齢化』 という言葉自体に、
それを 『問題である』 と捉える意識が、
既に刷り込まれていると思えるからです。

問題に対しては適正に処理されなければならない
という思考が働きます。

しかし、その適正状態がどのような状態なのか分からないのであれば、
そもそもその問いの立て方自体が問題であるのです。

もし、僕らの社会が世間で言うところの 
『少子化』 や 『高齢化』 といった 
『異常な状態』 に向かっているのではなく、

むしろ今までの出生率の高さや、
高齢者人口の比率の低さの方が 
『異常』 であったと捉えることは、
できないのでしょうか。

僕らの社会が、どこかで均衡な人口構成状態に戻り、
それがその社会の適正な構成状態であり、
現在はそれに向かう移行期である、
と考えることは不可能なのでしょうか。

それを社会の回帰的な成り行きであると考えれば、
今までのそれと 『相対的に比較』 して、

現在の社会が、
僕らの目に 『少子化し、高齢化しているように映る』 だけではないか
とも思えてくるのです。

もしそうであるならば、
出生率を上げて高齢人口の相対的減少を目指すのではなく、
高齢者が増えた(と見える)社会でも、
混乱なく移行していける社会を目指すべきではないのか。

そして、『少子化』 や 『高齢化』 を論ずるときには、
そのような 『問い』 の立て直しを図るべきなのではないのか
と思うのです。

仮に、そのような根本的な問の立て直しがあれば、
人口構成変化の流れに逆らうような対策は減少し、
ロジックの飛躍による失敗は避けられるように思えるのです。





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by hiro-ito55 | 2011-01-09 21:54 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

科学的な根拠というのは、
「同じ条件下或いは、同じ状況下の下では必ず同じ答えが繰り返し導き出せる」
ということです。

つまり、反証が可能ということです。

反証が可能ということは必ず計量化できるということであり、
科学では、計量化できるものだけが扱えることを意味します。

それが科学の守備範囲なのです。

更に付け加えれば、
計量化できるということは、
同じ条件(状況)がいつでも再現可能であるということですので、

それができないものは全て、
真に科学的であるとは言えないことになります。


例えば、
脳血管障害を持つ70歳以上の男性100人を対象に、HDS-Rを実施したとします。

その対象者の中から、同じ15点の人たちをサムプルとして抽出し、
更にその中から記銘力に減点がある人の統計を取り、
そこから更に条件を絞り込んでいって、
共通点やその傾向を分析したとします。

ここから取り出されたデータは、
どんなに条件を細分化してバラバラにして吟味したところで、
真に科学的とは言えません。

これは、「科学的データ」 というよりも、
むしろ 「ある母集団の中での傾向とその分析」 
として扱われるべきものなのです。

この類のデータが科学的ではないという理由のひとつに、
共通の条件を絞り込む過程で 『再現不可能な項目の「漏れ」』 が、
必ず存在することが挙げられます。

再現不可能な項目の漏れは、
絞り込まれた条件の中にまだ埋もれているかもしれないし、

意図的ではなかったにしろ、
項目から選択されずに消去されていったものの中にあったのかもしれません。
 

僕の言う、「再現が不可能な項目」 というのは

例えば、検査の日はたまたま寝不足であったとか、
そのおかげで集中力が持続しなかったり、
はたまた検査をする人間が運悪く自分の嫌いな人間で、
そのせいで検査中に急に眠気が襲ってきてしまったとか、
ただ単にその日は気分的にボーっとしていたり

といったようなことです。

相手は 「人間」 ですから、
検査の日に限ってこのようなイレギュラーな条件が
追加され得ることは当然考えられますし、

それが検査に影響を与える可能性を排除することはできません。


このことは日常的には僕らも経験していることです。

例えば僕らが毎日同じ時間に出勤し、先日と同じ仕事をしても、
いつも同じ作業効率で同じ結果が出せるとは限りません。

何故かといえば、
天気とか気温とか、
今日は挨拶した同僚の返事がイマイチだったとか、
身体の疲れ具合が酷いだとかといった、

「変数的な諸条件」 が仕事に影響を与えているからです。

そして、それらの変数的な諸条件は無限に存在し、
それをひとつひとつピックアップして
因果関係を精査するという作業を完遂させることは、まず不可能です。

このような、再現不可能な変数が多数存在するのは、
ひとつには人間が 「心」 や 「精神」 といった
やっかいなものを抱えているためです。

心や精神は計量化することはできません。

何故なら心や精神の世界では、物理的な法則は通用しないからです。

例えば、想像の中では僕らは翼が無くとも空だって飛ぶことができます。

マッハ10で飛べます。
仕事中でも。

このように、物理的な法則が通用しない世界が確かにあり、
それを 「込み」 で人間というものが存在するという事実を考えると、

そこに 「科学的(と信じている)根拠」 をあまり拡大適用しないほうがよい
という在り方があることに気づきます。

(それを認めるか認めないかが、
 僕が医療人として相手を信用するかしないかの
 ひとつのバロメーターともなるのですが...)

しかし、科学的な根拠の適用は
人間の細胞や器官に対しては有効かもしれません。

例えば、上腕二頭筋に電気刺激を与え、
そこから得られる出力の統計を取り、
その分析をするといったようなことです。

この場合、筋肉の質・量と、
加えた電気刺激の違いによって出力される力の大きさとの間に、
相関関係を見出すことができるかもしれません。

このような人間の組織レベルの場合とは異なり、前述のような
計量化できないものが含まれている「人間全体として」 問題をみる場合は、

「ある母集団の中での傾向と分析」
として扱われるべきものなのです。

特に僕らのような維持期の対象者を治療する分野では、
「〇〇先生の科学的な△△療法」 が上手く適用できないことが多々あります。

それは、上肢や下肢という部分だけでなく、
人間全体或いは、
付随する住環境や家族関係などといった
変数も含めて診ていかなければならないことが、多くなるからです。

(加えて、セラピストとしての腕が悪いという僕の「変数」も存在しますから)

そこには、科学的な根拠以外の、別の物差しが必要なのです。

科学を 「秤」 に例えるとするなら、
秤で測れるのは重さのみです。

「光」 や 「匂い」 や 「質感」 は秤では測れません。

別の計器が必要です。

それでも光や匂いや質感を秤で測ろうとするなら、
その行為は科学に対する冒涜となります。

それを弁えることが、
医療人としての節度ある態度だと思いますし、

そのような俯瞰的な立ち位置を持った 「大人の医療人」 が、
これからは求められていくでしょう。
きっと。
(非科学的希望的観測)




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by hiro-ito55 | 2010-08-26 20:39 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)
最初の記事にしては内容が重いですが、
我々医療に携わる者にとって、
「死」 は避けては通れないテーマですので、載せておきます。

一応最初に断っておきますが、
僕は決して科学技術を否定しているわけではありません。

あるイデオロギーへの 「偏重」 や 「一元的な考え」
が嫌いなだけです。

そう思って読んでください。


僕が 「脳死」 に違和感を持つのは、
一言でいってしまえば 
『「脳の死」という一点で、人の死を規定してしまって良いものなのか』
ということです。

また、倫理的観点から言えば、
臓器提供されるために脳死を待つということは、

他人の死を待つということですから、
それは仏教における 「迷い」 に当たるのではないか
という意見も一部であるようです。

そもそも、死は生の一部であるという捉え方が、
長い間日本人には一般的だった
という話を聞いたことがあります。

ですから、長い間、「死」 自体
或いは死を含んだ 「生」 までもが
「割り切れないもの」 
として捉えられてきたのではないでしょうか。

その証拠に例えば、死をゆっくりと受け入れていくために、
「初七日」 や 「四十九日」 があり、

そういった一種の割り切れなさというか、
智慧みたいなものが、
死という在り方自体に含まれていたと想像できます。


そこで、今回のテーマですが、

脳死を人の死とすることは、
この割り切れない死と生の境界を、
科学的観点という 「線」 で無理やり明確化し、

我々が無意識的にも抱いている、
死を生の一部と捉える割り切れなさを、
無理やり割り切らせようとする行為
であるように、少なくとも僕には感じられてしまいます。

更に、「死」 を科学的観点という一点で規定してしまうことで、
ちょうど合わせ鏡のように 
「生」 も同じ観点で規定されてしまうのではないか、
と思えてきます。

つまり、科学的に 「死」 を規定すれば、
「生」 も科学的に計量化されてしまう

この問題は、そういう危険性を含んでいるように思います。

むしろ、こっちの方が恐ろしいかもしれません。

「いかに生きるか」 「いかに死と向き合うか」
といった個人個人の価値観に還元される
そういう性質のものに、

科学的に、或いは一元的に線を引いてしまうことは、
非常に危険な風潮のように思われるのです。


そういえば、
「心身一如観」を採用してきたのも日本人ですが、

日本語の中には、「身にしみて」 
或いは 「他人の身になって」 という表現があります。

これは 「全体的な存在になって思う」 という在り方であって、
「他人の身になって」 の 「身」 というのは、
単に英語で表現される 「Body」 のことではありません。

この 「全体的なものになって思う」 という心身一如観のあり方にも、
「心と身体」 という二元論からの観点では説明できない、
割り切れないものが多分に含まれていますね。


さて、少し話は逸れましたが、
極論を言ってしまえば、

現代において死や病とは 「事故」 であり、
「科学の敵」 です。

これは、死や病を戦うべき対象と規定し、

医療とは、
死や病という 「科学の敵」 に対し行なう 「戦争」 である
というような捉え方です。

そして、戦うべき対象と規定すれば、
次に、これをいかに、どのようにして克服するべきか
に主眼が置かれます。

これは何も医者の側に限ったことではなく、
それと向き合う患者さんも
死や病と戦うことを強制されていますし、

それを半ば当然のこととして受け入れているのが現代です。
(受け入れざるを得ないのかもしれませんが)

でも、本当に死や病とは敵であり、
単に戦う対象であるべきものなのでしょうか。

ここに脳死判定の是非も含めて、
人間の生死という問題を考えるとき、

そこに科学技術が深く関わっていることが、
この問題の根底を成しているように思われます。


科学技術は人間の役に立つために存在するものですから、
M.Heidegger的な表現を用いれば、

臓器までも 「人間に役立つ部品である」 
と捉える観点になっても不思議ではありません。

しかし、
臓器が 「役に立つという在り方」 においてのみ顕わになっていれば、

やがて役に立つこと以外の可能性や姿を追い払って
忘却せしめることに繋がります。

つまり、脳死を人の死と定めることは、
人の臓器も 「何かの役に立つ」 という点でしか注目されなくなる
ということに繋がりかねないということです。

この観点においては、当然人間の体は人間の体として、
死は死として守られなくなります。

そしてそれだけに留まらず、
人間がこの科学技術の持つ 「役に立つという在り方の連鎖」 
に加担していくことは、

更に 「何かの役に立つ」 という
技術の本質を手助けするように次々と用立てられていくのです。

一元論の本質は、
そのように連鎖的に関わるよう構造化されているのです。

これを、Heideggerは 「Gestellenの連鎖」 と表現しました。


科学的な観点からのみで人の死を規定するのは、
間違いなくGestellenの連鎖の中にいるからです。

そこに、僕はこの問題の根っこを感じます。


これに抵抗を感じるのは、
あらゆるものとの距離感や、融合の軸を大事にしてきた、
日本人としての抵抗感かもしれません。

また現代においては、この流れとは逆に、
「尊厳死」 ということが盛んに言われているのも事実です。

かつては 「死は尊厳である」 ということは
当たり前であったのかもしれませんが、

尊厳死が取り沙汰される現代は、
死は死として守られ、
死が死としてありうる場が開かれていないのかもしれません。 

むしろ死や病は敵であり、戦う対象である
というネガティヴな視点から見ているため、

守るというよりも、
克服するべき、或いは打ち勝つべき対象
として捉えてしまいがちなのではないでしょうか。

しかし、このように
生と死を二項対立的に捉える考え方は、
元々日本人には、あまり馴染まないように思うのですが
如何でしょう。

 
以上、内容の薄いまま、
脳死や人の死について思うことを
素人的につらつらと書いてみましたが、

要するに人の生や死というものについて、
もっと時間をかけて考えてもいいんじゃないかということです。

人間は 「心」 という厄介なものを抱えていますから、
それは哲学的、或いは宗教的になってしまうかもしれません。

ですが、それでいいと思います。

いつか、
科学とそれらが上手く統合するような観点が生まれれば。

というか、そう願ってます。




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by hiro-ito55 | 2010-08-09 18:20 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー