考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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カテゴリ:医療・福祉・対人支援( 81 )

長い廊下の向こう側


僕は訪問リハビリという仕事をしていますが、
この前、お世話になっているケアマネさんから、新規のリハ依頼を受けました。

ステーション宛てに詳しい情報を送ってもらうと、
その依頼のあったお宅は、車で40分近くかかる場所。

所長と相談し、
ちょっと遠いかもと感じながらも、お引き受けすることにしました。

地図で場所を確認して、
実際にいざ行ってみると、所要時間はやはり予想通りの40分。

今回に限らず、訪問リハには次の利用者さん宅に伺うまで、
その間に、数km単位の移動距離や、
数十分単位の移動時間が発生する場合があります。

僕の場合、
それを煩わしいと感じたり、
移動によって掛かる距離や時間によって、
自分自身のモチベーションが左右されたりすることはない。

だって、
在宅で訪問看護や訪問リハの依頼を掛けるということは、
病院や施設でいえば、患者さんがナースコールを押すこと、
それと同じこと
だと思うから。

利用者さんやご家族は、
ケアマネを通じて、きっと必死の思いでそのボタンを押している

プロであれば、僕らにはそれに応える責任があるのは当然のこと。

だから、
病院や施設のナースステーションやリハ室から、患者さんの病室に向かうことと、
訪問看護ステーションから、利用者さんのご自宅に伺うこと、

この二つは同じことで、
ただその間に、渋滞や脇道や抜け道がいっぱいあるというだけで、
言うなれば訪問看護ステーションからの道中は、
病院や施設の中にある廊下のようなもの


街全体が長い廊下で結ばれていると考えれば、
コールや依頼があったときに、そこを通って駆け付けるのは当然のこと。

だから、
移動時間や距離など、僕には全く苦にならない。


ですが、利用者さんの中には、
こちらの移動に掛かる時間や手間にまで気を遣って、
毎回、遠慮がちにサービスを受けられる方がいらっしゃいます。

医療を提供する側とされる側の関係性が、そうさせているのかもしれませんが、
僕個人としては、そんなことにあまり気を使ってほしくはない。

それよりも、
利用者さんやご家族のワガママを、もっと引き出していきたいし、
それを引き出せる自分でありたいと、いつも思うのです。

ワガママを引き出せないようなサービスでは、
利用者さんが、医療従事者の都合に合わせているだけで、
多分、本当に良いサービスであるとは言えない

以前書いたように、対人支援の基本は、
僕ら専門職が良いと思うものをまず提供していくのではなく、
利用者のよいと思うもの、或いは、利用者の潜在能力を上手く引き出すこと、

それを支援することにおいて、
僕らの専門性というものは発揮されるべきものだと思うから、

利用者さんのワガママに振り回されることは、
出されたワガママを、けっしてそのまま聞き入れるということではなく、
利用者さんと共に考え、悩むということだと思っています。

こういう仕事を通して、
そういった繋がりを継続していけることを、対人支援と言うのだと思うし、

長い廊下の向こう側に、そういう出会いがあることが、
自分の最良のものを提供するためのモチベーションにも繋がっていく...。

それは、
生かす側と生かされる側というものが、
支援する側とされる側の間に、固定されて在るではなく、
お互いに、生かし生かされる現実という機会を持つことで、

その機会は大げさに言えば、
相手と共に生きていくための態度、
その切っ掛けを見つけ、それが損なわれないように幾重にも編み込んでいく作業

そういうことなのかもしれない。

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by hiro-ito55 | 2013-06-05 00:37 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

結果に拘っていきたい』という言葉を、最近はよく耳にします。
多くの場合、その言葉は前向きな良い姿勢として捉えられます。

僕ら医療・介護従事者にとっても、
結果や正しさに拘るのは、もちろん大事なことです。

それに、結果が出るということは、
その方法が正しかったことの証明にもなります。

しかし、
いつの間にかその耳触りの良い言葉だけが、
独り歩きしてはいないだろうか
と、ふと思うこともあります。


結果を待つ姿勢が必要とされる時期や、
思うような結果がなかなか出せない時というのは、
どんな仕事をしていても必ず経験するものであると思うし、

そんなときは、自分が一所懸命であればあるほど、
『こんなに精一杯やっているのに...。』
と、ついつい愚痴を溢してしまいがちです。

一所懸命に取り組んだあとの結果。
そして、それに拘ること。

それは確かに大事なことですが、
仕事をする上では、まず結果に拘る、そういう姿勢を持つことよりも、

自分の出来ることを探し、
その確実性を上げていくための、自分なりのプロセスを作り上げること、
そういう姿勢を持つことの方が、先である
と思うのです。


当たり前のことですが、
自分のできないことをいくら考えても、結果には繋がっていきません。

結果というのは、
いつでも、自分のできることを積み重ねた先にしかない
のです。

だから、
今、目の前の自分ができ得る精一杯のことを探そう、
そういう姿勢を、まずは持たなければいけないし、

結果について言えば、根拠や論拠に従って、
ある程度今後のことに予測を立てることはできますが、
そもそも未来のことなんて、確実には誰にも分からないものです。

僕の経験でいうと、
訪問リハの世界ではそもそも、
事前に準備できていないことは、実際のリハの現場でもできないし、

たとえ事前にあれこれ準備していたとしても、
そのうちの2~3割ぐらいしかできない、ということがよくあります。

準備していないことはできないし、
自分の準備したことが結果に繋がる保証さえ、どこにもないのです。

けれど、どんな人でも、
今、自分にできることというものは、確かにあります。
自分にできることならば、その責任を引き受けることもできます。

ならば、
『今』に立ち会う僕らがしなければいけないことは、
どんな状況でも『その時』に、
自分にできることを、最大限に発揮できるように準備していくことと、
できることのその確実性を、高めていくための努力をすることである

と言えるのではないでしょうか。

そして、
準備と実践を反復していく、そういう姿勢の中からでしか、
自分のできることの確実性は、けっして育ってはいかない。

自己満足に浸るでも、闇雲に突っ走るでもなく、
それが、全力を尽くすということだと思います。

結果や正しさは、それを積み重ねた先にしかありません。

だから、
結果として良い医療やケアをしたければ、
各々が各々のやり方で、真摯に粘り強く、
それらと向き合い続けていけばよいのだろうと思います。

そして大事なのは、それが、
僕らが利用者の前に立ったとき、
自分のすることを、正しいとか正しくないとか、
そういう基準と照らし合わせてみる前に、
まずは必要とされる姿勢でもあるということで、

そしてそういう姿勢がなければ、後々それが良い結果を齎したとしても、
自分のしたことが正しかったのか、間違っていたのか、
自分でそれを判断する資格すらなくなってしまう

つまり、
結果に拘る資格さえ、なくなってしまうように思うのです。


どんな仕事でも、
結果に拘る姿勢を持つというのは、もちろん大事なことです。

けれど僕らが、結果という未来に拘るあまり、
今、自分自身にできることを選択する努力を怠っていれば、

利用者が本当に必要とするような医療やケアなど、
初めから提供できないだろう
と思います。


明日も訪問6件。
僕もまだまだ、準備と実践を反復していく道の、その途上にいます。

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by hiro-ito55 | 2013-05-22 00:20 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

闘う人


端坐位になりたい...。
車いすに移って散歩をしたい...。 


あなたがそう言ったとき、
そこには、あなたの一大決心があったはず。

僕は、それを叶えてやりたい。

たとえ、その望みの切っ掛けしか、
作ってあげることができなかったとしても、

僕は、
その望みを、あなたのその願いを、
叶えてやりたい。

勇気をふりしぼって言ったその言葉。
今でもその重みを、僕は忘れたくはない。

たとえ失敗しても、成功しても、
その姿が人間らしいということならば、

そこに、挑戦する価値はあると思う。

僕の力が微々たるものだとしても、
あなたが望むなら、僕は全力でそれを支援する。




今の職場では、同行訪問の時期から、
ターミナル(終末期)の方も、数名担当させて頂いています。

ご自宅に伺うと、
痛みや体調不良から、呼吸介助やリラクゼーション、
或いは、可動域運動のみで終わってしまう場合もあります。

今日も、
ターミナルの方数名に、訪問リハをさせて頂きました。

比較的自立度の高い方から終末期の方まで、
毎日、色々な方を担当させて頂いている中で、

いったい、
良い医療やケアとはなんなんだろう、と考えることがあります。

例えば結果を出すこと、それができたとき、
確かにそれは良い医療やケアだった』と、
後から言うことはできると思います。

しかし、
自分がもし相手(利用者)の立場だったら...、
そういうことに思いを至らせる、僕らの感性想像力と、

そしてそこから、
自分のできることをひとつずつ丁寧に見極めていく姿勢

そこにヒントはないだろうか


自分がもし、目の前の利用者と同じ立場だったら、
きっとこういうことに苦しさを感じ、
こういうことに手を差し伸べてもらいたいと思うだろうな...

もし、良い医療やケアをしたいのであれば、
利用者と向き合うとき、相手が例えどんな状態であろうとも、

僕らはいつも、
そういう問い方や関わり方を、忘れてはいけないと思うのです。


目の前にいる人と対峙したとき、
何かを感じ取ろうとする姿勢や共感から、知り得るものがあり、
そこから繋がりが生まれてくる
ということ。

自分のできること、できないことも、その中にしかないということ。

それが分かったとき、
自分にできることを、最大限に発揮できるように準備していく

そういう姿勢が、やがて支援の形となっていく、
そういうこともあるのだろうと思います。

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by hiro-ito55 | 2013-05-15 01:33 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

寄り添うことの難しさ


事務所のトイレで見つけた、相田みつをの言葉

 花には人間のようなかけひきがないからいい
  ただ咲いてただ散ってゆくからいい
  ただになれない人間のわたし ―



これを見たとき、小林秀雄の言葉を思い出しました。

― 美しい花がある、花の美しさというようなものはない。―

上手く言えないけれど、
この二つの言葉は、どこかで繋がっているように思う

『かけひき』や『花の美しさ』を作り出すのは、
そのままの姿を見ようとしない、或いは見ることのできない、
人の持つ弱さや悲しさかもしれない。

何かを見て、誰かに触れて、
そこから意味なり何なりを読み取ろうとする姿勢。

それは、人として重要な姿勢でもあれば、
時として一方通行な解釈と、紙一重な場合もあるのです。

僕らの世界では、
よく『その人に寄り添う』という言葉が使われるけれど、

自分なりに解釈してしまうことの恐ろしさを知らないと、
寄り添うことなんてできないと思う。

利用者さんは時として、
セラピストや介護者に、様々なことを訴えることがあります。

それは聞いてほしい、分かってほしいという要求であったり、
或いは、こうなりたい、ああなりたいという願望であったり...。

僕らは専門職なので、
それらを自分の専門性に照らし合わせて解釈しようとします。

けれど、ただ一緒にその時を過ごす、
そういう時間を持てたことだけで、それらが解決してしまう場合もあります。

そういった場合そこには、専門職としての専門的な言動が、
却って、利用者さんの孤立感を深めてしまう、そういう事実があるのだと思います。

僕らの言動によって、治療者と被治療者という関係性を確かめること、
それが、両者の距離感を作り出してしまうのかもしれません。

私は治療者で、あなたは被治療者である、
そういう距離感が、僕らとしては当たり前のものでも、
利用者さんにとっては、不自然なものであったりする....。

特に、訪問リハビリや訪問看護といった在宅医療の世界では、
相手からの要求や願望が、被治療者としてのそれではなく、
生活者としての心の葛藤から来るものであることが多い。

まずはただ、額面通りに受け取ってほしいという訴え。

それは、専門的な解釈を求めているのではなく、
まずは、ただ受け止めてほしいという、切実なサイン。

その時に、僕らに求められるのは、専門職としての見解ではなく、
ただここにいる一人の人間として、それを聞いてあげられるという姿勢。

でもそれが、寄り添うことの難しさでもあると思うのです。

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by hiro-ito55 | 2013-04-08 20:18 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

人の感情や気持ちというものは不安定で、
言葉でその全てを言い尽くすことはできない

けれど、
言葉はそれにを与え、安定させることができる

僕らは言葉でもってしか、考えることはできないし、
言葉でもってしか、何かを伝えようとすることはできない

だから、
言い尽くせないものをできるだけしっかりと見定め
それを伝えようとするところに、言葉の持つ力があると思う。

言葉は、自分の気持ちを伝える道具にも成り得るし、
時に、人の共感を呼び起こす表現力にも成り得る

言葉は世界との繋がり
言葉を持つということは、世界との繋がりを持つということ

世界と繋がりを持つことができるから、人は安心することができる

だから、
どのような状況に置かれたときに人はもっとも絶望する
それは言葉を失ったときであろうと思う。

痛み苦しみを抱えてしまうことは、
ときに居た堪れないほどの孤独感を齎すけれど、

それを誰かに伝えることができるならば
本人が気付かなくてもそれは本当に孤独ではない

けれど
痛み苦しみを抱え、それを伝える力さえ持てなくなったとすれば...。

言葉を失うということは、
外界への道が閉ざされるということ


外界から全てが一方的に齎されるだけで、
自分にはそれを表現し、伝えることができない


そんなとき、
人は本当に絶望や孤独の淵に追いやられてしまうのではないだろうか


訪問リハで担当させて頂いている方の中に、ALSの方がいます。

呼吸機能が低下し、発声量も少なく
絞り出す言葉もたどたどしい

ジェスチャーや、文字盤などのコミュニケーションエイドを使って、
何かを伝えようとするけれど、
上手く伝わらないことの方が圧倒的に多い

訪問看護担当のNrs.からは、
体力も急激に失われつつあり、
週末に遊びに来た曾孫との交流を最後に、
車椅子に座る気力もなくなっている
、との報告を受けました。

食事も、今はベッド上で摂っています

主介護者奥さまは、ご本人の言わんとすることを聴き逃すまいと、
毎日付きっきりになって、傍で介護されています

僕も、
訪問中は、ご本人からのサインを出来るだけ漏らすまいとする


そんな周りの人の態度が、
却ってご本人の苛立ちを募らせてしまうこともあります。

そんなとき、
僕や周りの人は、溢れだしたご本人の感情に蓋をすることもできない


この人ね、クラシック音楽が好きなんですよ。』
 奥さまがボソッと僕に呟く

訪問リハ中に不謹慎とは思いながら、
部屋にあるオーディオのスイッチを入れ、
クラシック音楽を掛けさせて頂く

すると、
親指と人差し指で円を作り、僕らに一瞬『にこり』と笑いかける

自分から何かを伝えることができなくなりつつあるこの方にとって、
孤独感絶望感癒すのは
誰かと何かを共有する場と時間を、
誰かに作ってもらうことだけ
になりつつあります。

言葉を持つということは、世界との繋がりを持つということ。
言葉を失うということは、外界への道が閉ざされるということ。


絶望孤独の淵に追いやられてしまいそうなご本人を、
なんとか踏み止まらせているのは、
誰かと何かを共有する場と時間を持つため
家族という良き理解者が傍にいるということで、

ご本人にとってそれが
世界と自分を繋ぐために残された、たったひとつの道なのかもしれない


帰り際両手で握手をしながらまた来週も伺う旨をお伝えすると、
葉を出そうとして何度も失敗
最後は、笑いながら顔をくしゃくしゃにして泣いてしまう

奥さまからは、
週に一度来て下さることが、本人はとっても嬉しいみたいなんですよ。』
との言葉を頂く

正直、これから先この方たちに
僕が一体何をできるのか分からないけれど
せめて今、僕にできる精一杯を出せるようにしたいと思う

それができなければ、
僕には、ここに立つ資格すらない
ということ

それは忘れちゃいけないと思う




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by hiro-ito55 | 2013-03-17 20:45 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

僕らの仕事には、
利用者からの支援ニーズを引き出し、
それを個人レベル、或いは生活レベル、社会レベルにおいて、
上手くコントロールしていく役割
があります。

それを対人支援と呼ぶのですが、
相手の支援ニーズを知ることが、人の価値を知ることで、
それを活用することが、人の価値を広げることだ
というふうに、安易に結び付けて考えられやすいことも、
また事実かもしれません。

自分の意志に基づく活動という視点で人を見ていると、
ついついそのように考えがちなのですが、

人の価値そのものは、
動いていても止まっていても、変わるものではなく


これらは、本来は別次元の話であり、
同列に考えて論じてはいけない
と思うのです

例えば、極端な例でいえば、終末期の患者さんがいて、
その家族が胃瘻の造設を望む場合も、あるかと思います。

ベッド上で自分の意志で指一本動かすことができなくても、
息子や娘にとっての父親妻にとっての夫という姿変わらず
少しでも長く生きていてほしいという思いから、
胃瘻造設を希望する。

そんな家族もいらっしゃると思います

結局のところ、
その人に寄り添うその人の存在や価値というものは、
その家族や、本人にしか分からないものですから、

他人から見て、
その望み非人間的な望みであろうと揶揄されようが、
その妻や子にとっての、その人の存在や価値というものは、
活動や静止の観点を超えたものがある
と、僕は思うのです。

人の価値というものを、
もし、活動や静止の観点から推し量り切れると考えるならば、
それは、物質の運動モデルを人に当て嵌めて、
人の価値を、それと同程度のもとして扱うということ
で、

これを基に作業療法や医療倫理、終末期医療を考えることは、
たいへん危険なことのように思われます。

確かに僕ら現代人が、人として生きることに不安を感じるとき、
そこには『活動できなくなるのではないか』という恐怖があります。

でも、
なぜ、活動できなくなることに恐怖を覚えるのか
ということについては、自分自身の奥底を見詰めても
なかなか答を出し切れるものではありません

僕はここに、
自分の意志に基づく活動の価値と、人の価値を同列に考えるという、
そういう捉え方の限界があると思うのです


人の全てが、
法則という名の、何がしかの運動変換が可能
というのは、

結局、
人の心身の活動は全て理論化し、外部化して推し量ることができる
という思い込みに基づいています。

そういう、科学への思い込みや不適切な使用がまずあって、
活動に対する驚き共感は、
その後に随伴して明らかにされる現象である

という考えにも、依然根強いものがあります

僕は今、
現代人不安にして、そこから人としての尊厳を脅かしているのは、
自分の意志に基づいてより活動できる生活の方が、
 より充実した人生を送ることができる

という、近代思想に基づいて作られた価値観であると考えています。

本質的には、
自分以外のものと何かを共有できる状態であることにおいて、
人が存在する価値というものは確保されるものですが、

何かを共有する在り方そのものについては
多種多様な姿というものがあると思います。

少なくとも対人支援として
人の価値について考えたいのであれば

医療や介護に携わる者は、
物質の運動モデルや活動理論に基づく価値観から、
脱却した考え方を身に着けていく必要がある
と思っていますし、

それを考えていくことが、
これからの僕らのテーマであろうと思っています。

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by hiro-ito55 | 2013-01-20 20:15 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

僕ら作業療法士は、人の価値を知ることとは別に、
形としては、人の活動を(再)支援する仕事だと言えます。

ですから、僕らは、
支援していく活動を評価するのと同時に、
人を活動していくように導くことに、その存在価値を見出す
と、一応の形としては言えるかもしれません。

対人支援の基本は、
僕ら専門職が良いと思うものをまず提供するのではなく

利用者のよいと思うもの、
或いは、利用者の潜在能力を上手く引き出すこと


それを支援することにおいて、僕らの専門性は発揮されるものです

そういう基本に立って考えてみれば、
利用者と直に向き合う時間を大切にして、

そこから、
僕らがどれだけ多くのものを感じ取れるかが、
対人支援においては重要となってきます。

ごく単純に言ってしまえば、
それは支援ニーズの発掘と、それを調整する作業
ということになろうかと思います。

支援ニーズには、大きく分けて ①要求 ②必要性 の二種類があり、

要求とは、
こうしてほしい』『ああしてほしい
または、『こうしたい』『ああしたい』という、
本人発の支援ニーズのことです。

必要性とは、
本人は支援してもらいたいと感じてはいる
それが伝えられなくて困っているかもしれないもの
或いは、感じていても
本人だけでは如何しようもできない状況にあるものです。

要求必要性どちらにも、
本人のはっきりとした意思が隠されています
が、

本人が『困る』と感じることができなければ、
そもそも支援ニーズというものは成り立たない
ので、
重要なのは、本人の支援ニーズへの『気付き』にあります


また、僕らが日常的に参考にしているICFは、
活動理論モデルにしてはいますが、

支援ニーズの中には、
安静安らぎの、時間を提供してもらいたい
というものもあります


実際に、デイに通う利用者さんの中には、
午前中は、縁側で畑や景色を眺めながら過ごして
美味しい昼食を食べた後は、昼寝でもして静かに過ごしたい
という方もいらっしゃいます。

デイに通うときぐらいは、
『あれをやりなさい』『これをして下さい』などと、
他人の干渉を受けたくない
というのです。

ですので、
支援ニーズ要求必要性の中にも、活動安静があり、
そこにも、本人のはっきりとした意思が隠されているのです

ちょうど、様々に絡まった糸の中から、一本だけ引っ張ると、
結び目が、余計に硬くなっていってしまうこと
があります。

それと同じように、
僕らは、単純に活動を推進するのではなく
まずは、これら支援ニーズを、しっかりと受け止める必要があるのです。

つまり、
支援ニーズを受け止める段階から、僕ら対人支援職にとって重要なのは
利用者本人に、清く正しい生活をしてもらいたいと要求するのではなく

その人なりの社会生活を営む上で
その人なりの支援ニーズを、上手くコントロールしていくことにある
と言えるでしょう。

そしてそれは、
人の価値を知ることと、次元の異なる話であるということにも
実は、注意が必要なことと思っています。

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by hiro-ito55 | 2013-01-13 20:45 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

思い込みによる弊害


この利用者さんとは私も久しぶりにお会いするのですが、
 この方には、嚥下体操を強くお勧めしておきました
。』

担当ケアマネさんからの突然の電話連絡に、
思わず『え!?』と答えて絶句してしまいました。

その方の食事中の咽込みについては、モニタリングなどを通して
担当ケアマネさんに今まで何度も上申しており、

呂律が回らない言葉を噛むといった問題や、
食事後に口腔内に食物残差物が残るといった問題
異食行為や食べ物を上手く口元に運ぶことがでない
などの認知機能の障害見受けられないこと

そういった情報は幾度となく伝えてあるはずなのに、
その電話一本の反応で、
こちら側の情報が全て無効にされてしまったような、
残念な気持ちになりました

電話での話を聞くうちに、どうやらそのケアマネさんの頭の中では、
咽込み ⇒ 嚥下体操 という図式既に出来上がっていて

咽込みのある利用者さんには、とにかく嚥下体操を行なえば良くなる
という、間違った思い込みをされているようでした。


利用者さんと細目にお会いして接していれば、
或いは、いつも一番近くにいるご家族お話を伺えば

本人呂律の問題食物残差物の問題
異食行為弄食などの、認知機能の問題全く見られないことは、
すぐに分かるはずだし、

摂食・嚥下についての最低限の知識を持っていれば
嚥下のどの相での問題であるかといったことは明白なはずです。


ならば、この利用者さんの場合
今問題となっているのは、咽頭期食道期での機能低下であり、

STなどの嚥下の専門家ではない僕らが、
取り敢えずの対応として出来ることは、
反射運動重力蠕動運動が上手く働くためにはどうすればよいか
考えることです。

そのためには、例えば、
横を向きながら食べ物を飲み込まない
食べ物を口にしているときには話し掛けない
といった環境を整えることも、ひとつの手でしょう。

嚥下体操で、
随意筋の動きを促すこと無効だとは言いませんが、

それよりも、
今は、形成された食塊スムーズに胃に送り込む環境作り
それを考えること重要な段階であること

そのことを、嚥下のメカニズムと併せて説明したのですが、
それよりもとにかく嚥下体操を』というのが、
このケアマネさんの方針

そしてボケないためにも、
みんなでわいわいお喋りをしながら楽しく食事をしましょうと、
事ある毎にご本人とご家族に勧めている様子


対人支援の基本は、
僕ら専門職が良いと思うものをまず提供するのではなく
ひとつには、利用者さんの潜在能力を上手く引き出すこと

そしてそれを支援することにおいて、僕らの専門性発揮されます

しかし、自分の思い込み強ければ強いほど
そういう重要なことに、気付くことができない

結果として、利用者さんの不利益に繋がったり
危険因子増やすことになったりしたとしても
僕の経験から言えば、そこにあるのは身勝手な弁解ばかりです


そんな状況で、この方のサービス担当者会議に臨んだので、
当然、ケアマネさんとの話は噛み合わない

なぜ嚥下体操を勧めているのか
その根拠についても話をはぐらかすだけで、
ご本人やご家族にも、何も示して頂けない

幸いにご家族ご本人には、
僕の伝えたいこと充分ご理解して頂け

後日、彼らから、
嚥下食事に関する素直な相談もして頂けたので良かったものの、

僕にとっては、対人支援専門職としての在り方など、
根本的なことを考えさせられた一例でした

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by hiro-ito55 | 2012-11-25 00:01 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(4)

まっちゃんとの座談会


介護保険には、
介護度に応じた区分支給限度額月単位)というものがあります。

受けるサービスがどのように組み合わされているかは、
利用者毎に異なりますが、

どの利用者も、限度額を毎月ピッタリには使い切れず
きっとみんな、毎月足りないと感じているか、
余ってしまっているのではないでしょうか。

これを何とかできたら面白いなと、
以前、同じ職場の松田さんというPTさんと話したことがあります。

そしてそれには、
ケータイ会社のパケット通信サービス参考に出来るのでは、
松田さんが言い出したことで、たいへん話が盛り上がりました。


例えば、ケータイのパケット料金には、
使わなかった無料通話分を、自身の翌月分に持ち越したり
家族間でシェアしたりすることができるサービスがあります。

分け合えるとか、『繰り越しなどと呼ばれているサービスです

このサービスを、
もし、介護保険の区分支給限度額当て嵌めることができるとしたら...。


例えば、
区分支給限度額が、35830単位要介護5の方で、
毎月30000単位を使用すると、5830単位は余ります

今の制度では、この余った5830単位
そのまま使わずに立ち消えとなってしまいますが、

彼と話したのは、
自身に与えられた区分支給額を、
利用者自身が、数か月間保有する権利として位置付け

それをどのように使用するかは、
利用者自身の判断に委ねるという発想で、

これによって、利用者自身主体性を持って、
中・長期的に、介護保険選択的に利用できるというもの。

それは、
余った単位を毎月、保険者である各市町村プールして、
翌月の限度額に上乗せする、或いは、他者に分けてあげるというで、
具現化することができます


例えば今月リハビリの回数が8回だったけど、
翌月12回分利用することができるとすれば、
来月デイに通う回数や時間を増やして
リハビリ強化月間として少し頑張ってみようと、

そういう、
自分のための、緩急を付けた利用の仕方が可能になります。

また、
自分片麻痺であれば、
同じように片麻痺で苦しんでいる方に、
自分の使わない単位を、分けてあげることができる場合を考えてみると、

毎月のサービス利用の組み合わせで、
自分には使い切ることができない単位発生すれば、

その使用権利を、他者に分けてあげることで、
自分が誰かの役に立っているという満足感を得ることができるし、
無理なく他者の役に立つことができます

使わない限度額分は、
自分ではなく、他者に分けてあげることで、

共に支え合うという、
ちょっとした共存意識を、作り上げることができます


つまり、
余った限度額自分のために使うか
或いは他人のために使うか

それを、
利用者自身が決めることができれば

介護保険サービスは、
今よりももっとバラエティーに富んだ利用の仕方可能になり、

介護保険を使用するに当たっての、
利用者自身の主体性や、共存の意識も芽生えてきます


こういった利用の仕方可能になれば、
個人的には面白いと思うのですが、

松田さんの話によれば、
厚労省が制定した現在の介護保険制度では、
限度額算定基準となる標準モデルからいって、
保険サービスの質や選択が、
利用者のニーズに基づいているようには設計されておらず

また、
多くの利用者が、支給限度額ギリギリまで使うようになったら
社会保障としての介護保険の財源が、破綻する恐れもあります。

ですから、
保険単位繰り越せる、或いは分け合えるという発想は、
彼らの側からは、恐らく出てこない

仮にそういう発想生まれたとしても
新たにサービス利用率統計取り直し

まずは、支給する区分限度額を低く抑えるように、
標準モデルそのものを、変更するのではないでしょうか。


その他にも、
介護保険サービス選択に関して、
所得再分配機能被保険者側保険者側事業者側の、

それぞれの視点から論じた場合に、
どのような問題点浮き彫りになるのか

そのへんのお話を、
先月、松田さんとお会いして、また色々と聞かせて頂けました
(4時間ぐらいしゃべったかな...。)

彼は、
利用実績から、介護保険サービス研究をされており、
彼の論文も、たいへん興味深く読ませて頂いています


個人的に思うのは、
サービス選択に対して、
利用者自身の主体的な判断に委ねられるというのは良い制度であり、
介護保険制度というのは、元来それを具現化するべきものだと思います

松田さんの言うように、
保険あってのサービスなし
という状況が発生してしまうのを回避するために、
支給限度基準額設定が、
事業所運営が成り立つことを、第一に配慮して
決められた可能性が高いのであれば、

利用者自身の保険単位繰り越せる、或いは分け合える
という発想出てくる筈もないし、
制度化してバックアップされることもないでしょう。

しかし、
今の介護保険サービスは、
本当に利用者が使いたいと思っているサービスで、
そして彼らが、主体的それを選択して利用しているのかどうか


これを考えることは、
利用者の笑顔が増えるという、
専門家からバカにされがちな効果も含めて、
自分たち提供するサービス
ひいてはエビデンスそのもの見直すことにも繋がるし、

それは、
現場で働く僕らにとっても、研究者にとっても共通の、
根本的な課題であると思います。

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by hiro-ito55 | 2012-10-13 16:00 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

高齢者向け住まい


10月1日厚労省老健局から
高齢者向け住まいについてのガイドブック』が出されました。
      ↓↓
-高齢者向け住まいを選ぶ前に-消費者向けガイドブック

これを見ると今後、高齢者向け住まいを、
①介護付有料老人ホーム
②住宅型有料老人ホーム
③サービス付き高齢者向け住宅 
三種類落ち着かせようという意図が読み取れます。

以前の記事(増え続ける有料老人ホーム)でも触れましたが、
有料老人ホームは、その経営主体のほとんどが民間企業

高齢者介護に対する市場の適正化を含めて、
貧困ビジネス化これ以上加速しないことを願います。
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by hiro-ito55 | 2012-10-06 11:51 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー