考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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カテゴリ:医療・福祉・対人支援( 80 )

看取る人の選択と判断


先日、亡くなった患者さんのご家族が、ステーションにご挨拶にいらした。
最期は自宅で迎えたいという、本人の意思に反してしまったことが、
ただひとつ、心残りとなっているご様子だった。

看取りというのは、家族にとって難しい選択を迫られる場でもある。
予め、お互いの意思をしっかりと確認していたとしても、
やがて患者さん本人が、自分の意思を伝えることができなくなれば、
支える家族はそのとき、どのように判断し行動すればいいのだろうかと、
具体的に選択するその瞬間まで、迷うものだと思う。

いや、選択したその後も、なのかもしれない。
だから後悔したり悔んだり、自分を責めたりしてしまうことがあるのだと思う。

でも大事なことは、
自分のできる精一杯のことを、その人にしてあげられたかどうかという事実にある、
と僕は思いたい。

本人は、苦しみながらでも、少しでも長く生きたいと願っているかもしれない。
或いは、苦しむよりも、楽に最期を迎えたいと思っているかもしれない。

そういう本当のところは本人にしか分からないし、
その気持ちは最期を迎えるときまで、はっきりと定まった考えではないかもしれない。

だから周りにできる精一杯のことも、
その方の、その時の思いを反映していないことだって、往々にしてあるだろうと思う。

そして、意思を伝えることのできなくなった本人に代わって、
何かを選択しなければいけない、そんな状況に置かれたときに、
携わる人間はどう判断し行動すればいいのか、本当に迷うものだと思う。

けれど僕はそれでもやはり、見守ることのできる人がそれぞれ、
自分のできることを、精一杯やっていくしかないだろうと思う。
そしてそれは、看取る人にしかできないことであるとも思う。



誰だって、自分がしてきたことを振り返るとき、
あのときにああしていればよかった、と悔やむことがあると思う。

例えば、友人や恋人や家族を傷つけたこと。悲しませたこと。
がっかりさせてしまったこと...。そうした過去を振り返って反省することがある。

けれど、自分がそのときにそうしたのは、
そうするだけの理由が、自分自身や周りには必ずあったに違いないと思う。
そして逆に、それ以外の選択ができなかった理由も、ちゃんとそこにあったはず。

だからこそ、自分は多くの中からその都度、ひとつの選択をしてきたはずなんだけど、
そういう肝心なことを、ついつい忘れてしまうことが多い。


結果を知っている今から振り返ってみると、
その選択が限界だったとか、他にも方法があったんじゃないかと色々言えるけれど、
それは結果論から逆算しただけにすぎないし、
そういった反省の仕方は、過去への後悔しか生み出していかないと思う。

振り返っても、そのときの自分や周りの事情を、今に甦らせるように考えなければ、
その選択や判断の本当の意味は分からないだろうし、反省など無意味だと思う。

考えてみれば、自分がそのときにそれ以外の選択をしていたからといって、
それが実際に採った選択よりも、いい結果を齎していたなんて保証はどこにもないし、
逆に、今よりも悪い結果を齎していたという確証も、実はどこにもない。

ただひとつ、それ以外の選択をした、そこから繋がる未来というものが、
今という現在に存在しないという事実だけが、そこにあるんじゃないのだろうか。

だとすれば未来から過去を振り返った場合、どう考えたって、
実際に自分が選んだものが、ベストな選択であったとしか他に言いようがない、
ということにしかならないと思う。

そう考えれば、
選択や判断をするために、自分はその都度精一杯それと向き合うことしかできないし、
それをしなかったこと以外に、後悔しなければいけない理由はないように思う。

看取りを行う場合には、死という人生の究極のステージと向き合うからこそ、
それを見守る人には、自分の選択や判断に後悔なんかしてほしくないし、
また、するべきものでもないのだと思う。



最後のご挨拶にと、ステーションにいらしたご家族たち....。

容体が急変して救急搬送されたことは、確かに本人の意思に反していたかもしれない。
意思を伝えられなくなったとき、本人は何を望んでいたか、本当のところは分からない。
だからこそ、自分の判断を信じて、その人のためにできることをしてあげるしかなかった。

病院で最期を看取ったという奥さまは、ステーションを後にするとき、
それまでの一月あまりの間、いつも夫の傍にいてあげられたことがとても幸せだったし、
何よりも家族として、ともに過ごせたことがよかったと、そう仰っていた。

救急搬送され、その日のうちに病院で息を引き取ったというその結果がどうであれ、
玄関先で深々とお辞儀をするご家族の姿を見て、
最後まで間違っていなかったんじゃないかと、僕は勝手に思っている。











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by hiro-ito55 | 2015-02-18 21:43 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(2)

Humanity


訪問のたびに、妻の前で強がる人がいる。
できるのにやらないと愚痴れば、お前の介護がいけないんだと悪態をつく人がいる。
動けない自分が嫌だから、お前なんかもう来なくていいと言い放つ人がいる。

そうして気に入らないことは、いつも家族や誰かのせいにする。

でも、どんなに憎まれ口を叩いても、
向き合っているのは、「夫の障害」や「母の認知症」ではなく、
「障害を抱えた夫」や「年老いた母」だとしたら....。
目の前にいるその人は、いつも誰かにとって大切な人。

だから、本気で怒ったり責めたり愚痴ったり。
そうして後で悔んでしまっても、そこにはみんな人間らしさが宿っている。

それに触れる僕らにだって、人間くささが見え隠れ。
ともに泣いたり悔んだり。たまには一緒に笑ったり。

二度と繰り返すことのない瞬間の、全てが喜びではないけれど、
ともに何かを探している、その姿はいつも個性的。

妻や息子が気に入らない。自分の不甲斐なさが許せない。
その気持ちももみんな、一緒に生きているからこそのもの。

愚痴や不満も引き出して、ぶつける相手が僕ならば、
それを受け取る瞬間は、きっと人間らしくなっている。

一緒に何かをする限り、人と思えなくなったらお仕舞いだ。



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by hiro-ito55 | 2015-01-26 17:59 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(2)

起き上がることや座ること、
食事のために台所まで移動すること....。

どれも、わざわざ望んでするような難しいことなんかじゃない。
みんな、ありふれた日常の風景。

でもその人にてって、今は全て、自分の日常から遠く離れてしまった現実。
だから一日の大半を、ベッドの上で過ごしている。

無為な毎日を前に、深く傷ついている心へ、
どうかほんの少しでも、その気持ちが穏やかであればと願う。

不条理に振り回される怒りを、無力にも傷つくやり切れなさを、
そのざわめきに身を任せ、ただ心を無くしてしまうとき。

そんなふうに、不意に孤独を抱えてしまったなら、
そんなときこそ、思い出してほしい。

人が傷つくのは、
人が一人で生きていないということの、何よりの証でもあることを。

誰のためでもない自分の人生を、豊かにして生き切る術。
それを見つけ出し作り出す、本当の意味や味わいは、自分自身じゃないと解らない。

見つめる心がざわついていたら、
そのかけがえのなさに、気付くこともできない。


無くしてしまいそうな心に向かって。
頑張るよりも、諦めるよりも、
自分のひとつひとつを、大事にしていけるような平穏を見つけてほしい。

全ての大丈夫が、そこから始まっていくように。
ともに探すことはできるのだから。



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by hiro-ito55 | 2015-01-13 22:29 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(3)

先日、「ウェルネス看護」について、職場で拝聴する機会があった。
ウェルネス看護とは、患者さんの良い面にスポットを当て、
それを積極的に支援するというもの。

それまで、ついつい患者さんの抱える問題点に焦点を当て、
それを予測し、管理するという発想に行きがちだった看護を、
健康上の強みのアセスメントや、病みの軌跡理論などを通して、
患者さん自身の負の能力を、できる可能性や有効な資源として、
そこに位置づけられるようにアセスメントし直し、支援の形を捉え直すという考え方だ。

患者さんから提示された生活の諸問題に接し、
これを受け取る側が、アセスメントという形で捉え直す際にも、
患者さんとの協働によって道を開いていくことを、基礎に据えているという点において、
推論的問題解決の方法というよりは、
むしろ、患者さんとの直かな接触によって導かれる事実、
そこから、支援の構造を明らかにしていくことに、重点を置いていると言えそうだ。


このような支援の方向性そのものは、
患者さんの潜在価値や可能性を引き出し、それを支援するという、
僕ら作業療法士の基本姿勢に近いものがあると思う。

ただ、
理学療法士の方にとっては、僕らよりも少し抵抗のある捉え方かもしれない。

彼らは、主にその人の動作や活動の基礎を作ることを、支援の中心に据えており、
座るため、立つため、歩くために問題となる要素を、ひとつひとつ取り除いて、
人の動作や活動の形を、作り上げていく。

ところがウェルネス看護の考え方では、
問題点を問題として捉えることからの、発想の転換を求めている。

問題を取り除き、動作を作り上げていくというのはプラスの姿勢だが、
この姿勢からウェルネス看護の考え方を取り入れることは、
容易なことではないように思えてくる。

ただこれについては、
一度PTさん自身からも、話を伺ってみなければ分からないことでもあるので、
これ以上推論で物を言うことは控えたいと思う。



OTとして感じたことだけを述べれば、
ウェルネス看護理論の基礎には、人としての感受性が求められているということだ。

感受性の部分を理論で説明するのは確かに困難だが、
患者さんと直に向き合う経験の仕方、それを反省してみるという形で、
その都度、その考え方は実践可能なものだと確信している。

僕らはともに行う作業や活動を通じて、
ときに、患者さん自身も一番やっかいに感じている個性というものと、
一緒に対峙しなければならないことがある。

ともに向き合うために必要なのは、相手の身になって考えるという姿勢。
人としての感受性は、その中で育まれていくものだと思う。


もし、
感受性と言うと難しく聞こえるのなら、自分の個性よりも相手の個性を尊重する、
まずその姿勢が、患者さんと直に向き合う経験の、初めにあると言えば、
分かり易いかもしれない。

例えば、相手の話を本当に聞きたいと思ったときに、
僕の中で相手が現れる。同時に、相手の中にも僕が現れる。

ただそうやって知り得たものを、互いに素直に信じ、受け止める。
そういうやり方でもって、僕らは相手のことを知ることができる。

人は他人と同じ、つまり、一義的に誰かのことを知ることはできないから、
その知り様は、人それぞれであっていいものだ。

そこから僕らは、相手の潜在能力や価値を、それぞれがそれぞれの仕方で引き出し、
個別的な支援の方向性というものを作っていく。

ウェルネス看護の理論を参考にするならば、
僕らにとっては、そういう順序でもって支援の形を捉え直し、
実践することは可能だということだ。


理論というものは、言語化された思想だ。
ただ僕らには、思想を形作る前に、それぞれが向き合う経験というものがある。
言葉は、自分の経験を見定めたときに生まれてくる。

だから、経験も立派な言語だと思うが、
経験とは自分のためではなく、誰かと何かを分かつためにあるのだとすれば、
それは受け取る側の心とも、切り離せないものに違いない。

僕ら自身が、
それを磨くように経験していくことは、確かにたいへん困難な事ではあるけれど、
そうしなければ、そこから作られる理論も、ただの机上の空論になってしまう。

作業療法士であれ、理学療法士であれ、
そのような経験についてはよくよく考え、これを基礎にしていけるよう努力すること、

そうしなければ、
ウェルネス看護の考えを理解し、それを取り入れて実践の場で展開することも難しい、
僕はそう思うのだが、どうだろう。


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by hiro-ito55 | 2014-12-23 20:58 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

望まない孤独


「ワタシの体に、誰も触らないでほしい。」
看護師に涙を浮かべてポツリと呟いた、その人の痛みには理由がある。

自分を支援してくれるはずの人たち。
その人たちを信じられなくなることが、どれだけその人の孤独を深めてしまうか、
僕には、それを想像することでしか、痛みを分かってあげられないでいる。


通院や入院の必要性。
在宅でも受けられる医療とそうでないもの。
支援が必要なことと自分でできること。
そして、体調の変化とリスク管理の重要性。

在宅で生活するために、それらについて現実的な理解を成し、
そこから、自分らしく生活していくためにどうしていったらいいのか....。

生活する者として在り続けたい、
そう願う気持ちとのバランスを図りながら、その人は自分なりに考え、
具体的に自己責任で決められることと、支援者に委ねた方がいいことを区別して、
今までも、そしてこれからも、主体的に自分の生活と関わろうとしてきた。

日常動作全般に介助を必要としながらも、
自分の意思で判断する能力は、しっかりと持っている。

だから、不自由になってしまった身体でも、
自分のひとつひとつと、懸命に向き合っていくことはできる。

そう思って生活してきた。

だから、医師、看護師、セラピスト、ケアマネ、ヘルパー....、
自分を支援してくれる人たち。
みんな、自分の生活や意思決定が成り立つために、居てくれるのだと信じていた。

でも.....、
いくつかの重要な判断を下すために、優先されたのは自分の意思ではなかった。

その人に突き付けられた現実は、
支援者側の都合によって、生活が覆されていくという事実。

その現実を目の当たりにする度に、
自分の意思が踏みにじられていくことを知った。

そしてそれが、支援者側の連携によって成されていると知ったとき、
その人は深く傷ついた。


「ワタシの体に、誰も触らないでほしい。」.....

看護師を前に呟いたその言葉は、
自分の孤独を認める、深い悲しみへと変わった。


だからリハビリの間、
笑顔で話すその人を見ながら、僕はずっと考えていた。

僕らはときに、対象者を望まない孤独へと追いやる、
その現実を作り出す力を、持っているのだということを。


生活全般に介助が必要な方の場合、
ADL全てに、リスク管理という考え方が及ぶことだってある。

どんなに綺麗ごとを並べても、
医療者や介助者は、患者さんに対していつでも優位な立場に置かれているものだ。
僕らが望むと望まないとに関わらず、その力関係は存在しているし、
それは、否定することのできない現実だと思う。

だから、支援を進める上で、その力学的優位性を解消できないならば、
支援者の側から、相手に近づいていかなくてはいけないと思う。

支援が、本当に相手の自律を後押しするものとして働いているのかどうか、
そういった自省は、相手の身になって考えられる人でなければできないだろう。

現実に、支援者に優位な力関係が存在しているとしても、
そういう人が支援者側にいれば、患者さんはきっと孤独にはならないと思う。



僕らは大きな過ちを犯した。
リスク管理が、誰にとってのリスクなのかを履き違えてきた。
必要性が、誰にとっての必要性なのかを見誤ってきた。
大丈夫という言葉が、誰の思う大丈夫なのかを深く考えてこなかった。

それらは全て、
支援者側のリスクや必要性であり、大丈夫であったのではなかったのかと。

今、その人が深く傷ついているのは、僕らがそれに無自覚であったがために、
支援が、生活操作の実践の場へと変わってしまったからだ。


これからも、
訪問すれば、そこに屈託のない笑顔が待っているだろう。

でも、「あなたの気持ち分かるよ」なんて、
そんなふうに声を掛けることは、僕には出来なかった。

今そんな言葉は必要のないものだし、相手の心を深く傷つける。
ただそれだけでしかない。

作り出した孤独。
それをどう癒していくことができるか。僕は、そんなことをずっと考えていた....。


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by hiro-ito55 | 2014-12-09 17:21 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

仕事が終わっても、
ふと気づけば、利用者さんのことをあれこれと考えているときがある。

たとえば、ここ半年ほどで困難事例化してしまった方がいる。
これは、精神的フォローの甘さをきっかけに、鬱症状を加速させてしまったひとつの例。

今から1年半ほど前、
退院をきっかけにして、その方に訪問看護とリハが入ることになった。
そして、半年ほどでデイサービスの利用に結びつけることができた。

本来なら、ここで訪問リハは終了となる予定だったけど、
奥さまとご本人の強い希望もあり、そのまま継続の運びとなった。

理由は、対人交流目的で利用する今回のデイサービスでは、
ご本人の納得のいくリハが、できなくなることを恐れてのこと。

それでも、最初は不安に思っていたデイにも2か月ほどで慣れ、
訪問リハ、デイそれぞれ週二回の利用が可能となっていった。


半年ほどは、順調に進んでいっているように思えた。
ただひとつ気掛かりなのは、入院中に希死念慮と思われる言動があったという事実。

直接のきっかけは、たまたまお見舞いにきていたご近所の方の、
「ご主人、私の思っていた状態より悪いのね。」という心無い一言。
それを機に、一時的に鬱状態に陥っていたことがある。

退院する頃には回復していたけれど、
リハを進めている間も、いつもと違う体調や新しいことに対する不安と警戒心、
それらが特に強いと感じてはいた。


そして、最初のきっかけは意外なところから始まった。
合わなくなった入れ歯を作り直すため、訪問歯科診療を受け始めたときのこと。

入れ歯を引っ掛けるためのブリッジを、
2本にするか1本にするかというごく些細なことで、奥さまとご本人の意見が割れた。

奥さまは、入れ歯の着脱を自分でしやすいようにと1本を希望されたが、
ご本人は、脱着の手間よりも入れ歯が安定する2本でと言い張った。

結局、話し合いを重ねてブリッジは1本でということになったのだが、
そこから、ご本人の様子が明らかに変わってしまった。

まず、奥さまの作った料理をよく残すようになった。
理由は料理の味付けとかではなく、
入れ歯の固定方法に関することだというのは明らかだったけど、
奥さまはそれでは納得がいかない。

どうして食べないのだ、私が作ったのが気に入らないのかと、
度々ご本人に不満を漏らしていたようだ。

そして行き場のない奥さまの不満は、介護全般のことに向けられた。
夫は私の介護には非協力的だと、感じるようになっていったのである。

ケアマネさんも、看護師さんも、そして僕も、
訪問する度に誤解を解きつつ、奥さまの不満を傾聴する日が続いた。

そして、そうした気持ちをうまく解消しきれなかったことが、
ご本人の心を、時間を掛けて悪い方向へと導いていった。

「あなたたちは妻の話ばかり聞いて、俺の気持ちは分かってくれないのか。」
いつしかご本人の気持ちは、やり切れなさと孤立感で満たされていく....。


そして半年ほど前から、
そうした気持ちがはっきりと態度に現れるようになった。

訪問時、
布団を頭から引っ被って、人との関わりを拒否するようになったこと。
バイタルの測定さえ拒む日も、度々みられるようになったこと。
ご本人に話しかけても、布団を被って何も話そうとしない。
やり切れなさは、ときに暴力となって現れることもある。

デイに行かない日も増えてきた。
一日中ベッドから出てこない日も、このところ目立つようになってきた。

そしてそうかと思えば、奥さまの外出している隙に一人で歩き出し、
階段や庭先で転んでケガをするという事故が、度々起こるようになってきた。
奥さまからの連絡を受け、看護師と僕が急きょ駆け付けたこともあった。

鬱症状による無動と、不安から来る落ち着きの無さが、行動と結びついてしまう現実。
精神のバランスを崩しているのは、誰の目にも明らかだった。


全ての言動は、不安や孤立感から来るものだというのが、僕らの一致した見解。
そのため、まずしなければならないことは、ご本人との関係性を再構築していくこと。
そして、奥さまとの関係性も、見直さなければならない段階にある。

この事例を通して、対人支援の難しさを痛感している。
けれど、在宅生活継続のため、それぞれができることを今は探さなければいけない。

確かに、一度崩れてしまった関係性を修復するには、時間が掛かるかもしれないが、
支援の対象がご本人だけでなく、それを支えるご家族にも行き届くよう、
今一度考えてみたいと思う。


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by hiro-ito55 | 2014-10-08 19:25 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

その人の決断


「今までこんなに丁寧にして頂いて、ありがとうございました。」
玄関先で、少し涙ぐんで挨拶される奥さまの姿が印象的だった...。

昨年から、
途中数か月の中断を経て、訪問リハを継続してきた。

医師から、余命一年の宣告を受けたご主人を自宅に引き取り、
それから約一年もの間、献身的に介護を続けてきた奥さま。

そのご主人を、
療養型の病院に入院させることを決めたという。

理由は、奥さまの介護疲れ。


訪問リハの介入が始まったのは、退院されてから一か月ほどのこと。
それから二か月ほど経った頃だった。

最初はターミナルとしての関わりのつもりだったけど、
状態がどんどん上向いていき、一時的だけど屋内歩行まで行えるようになって、
自宅トイレまで、歩いていけるようになった。

デイサービスにも、週に3回も通えるようになった。

新に利用が決まったデイサービスでは、リハビリも行って頂けるということで、
訪問リハとしては目標達成という結論に至り、
開始から4ヶ月を経過した時点で、リハとしての関わりが終了。

時折見せる、子供のような人懐っこい笑顔が印象的だった。



それから数か月。
その後も継続してケアを行っていた訪看ナースから、
状態が思わしくなくなり、毎日の介護がたいへんになってきている、
という話を聞かされる。

そして、訪問リハの再開。
でも今度は本当に、ターミナルとしての関わりだった。

寝返りから起床、座位保持まで、ほぼ全介助で行う状態。
そして日中の傾眠傾向と、繰り返される誤嚥性の肺炎...。


口数もめっきり減ってしまったご主人に、
「ほれ、あんたしっかりしなさい。」
と頭をぺしぺし叩いて、後ろからぎゅっと抱きしめて話しかける奥さま。

けれどその彼女自身も、
座椅子にもたれ掛かり、日中もコクリコクリと居眠りをされてしまう...。

気力ではカバーできないほど、心身ともに疲れている様子だった。

デイサービスや訪問介護、訪問看護のサービスも継続していたけれど、
自宅での介護に限界が近づいているのは、誰の目にも明らかだった。


だからケアマネと相談し、受け入れ先の病院を探し始めたのも、
共倒れを防ぐためには、避けては通れない選択だったと思う。

そしてそのとき奥さまは、覚悟したのだと思う。
自宅ではなく、病院での看取りを...。



別れ際、深々とお辞儀をしながら、
「私の力が至らず...。今まで、ほんとに親切にして頂いてありがとうございました。」
そう挨拶をする奥さま。

反対だと思った。
今まで一所懸命に頑張ってきたのは、奥さま自身であったはず。


一年前、自宅での看取りを選択したけれど、
その時の覚悟と、今彼女自身が向き合っている覚悟は、全然違うものになってしまった。

でも、
その願いが叶わなくなったのは、誰のせいでもないと思う。

今、僕には上手い言葉が見当たらないけど、ご主人のために頑張った一年間、
その意味だけは、忘れないでいてほしいと願っている。


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by hiro-ito55 | 2014-04-01 21:28 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(2)

僕らは短い一生の間に、様々な人たちとの出会いを経験します。
そして、人がなぜ出会うのか、別れが訪れた後も、
その根源的な理由を、きっと最後まで僕らは知ることができません。

でも、
根源的な理由を知ることができない代わりに、共に時間を過ごすことで、
自分自身や相手と向き合う大切さを、ひとつひとつ確認していくことはできます。

そして、共に過ごしていく中で、
その時間にも限りがあること、それがはっきりと分かってしまったときに、
人は、その人との時間を、切実に振り返ることができるものなのかもしれません。


これから自宅での看取りを行おうとする、いわゆるターミナルの方。
彼らの場合、家族と一緒に過ごせる時間が本当に限られています。

彼らを見ていると、
きっと全部を受け入れて、終末期を迎えているわけではないように思います。

少し元気があるときには、外で散歩でもしてみたい...。
残り数か月の命であるけれど、それを本人に打ち明けられずにいる...。
もう少し頑張れば、なんとかなるんじゃないか...。

そこには少しぐらいの希望だってあるし、
その願いが叶わないことを確かめたはずの覚悟だってあります。

だからこそ、
お互いにどのような言葉をかけていいのか分からずに絶句してしまう時間、
そういうものがきっとあると思うのです。

確かに別れほど、人を悲しみの深淵に追いやるものはないのかもしれません。
それに対して、掛ける言葉が見つからないというのも、たいへん辛いことです。

でもだからこそ、
誰かに決して分かったように語ってもらいたくないような精一杯が、
その限られた時間の中には、あるのだと思います。

そして、それを確かに受け取ったという思いをしっかりと確認し、
それを別れの日まで大事にしていくことができるのは、
一番大切に、その人との時間を過ごした人だけであろうと思います。

彼らを見ていると、人は悲しい気持ちを残さずに、
大切な人の前を去る人ことができないのかもしれない、そんなふうに思えてきます。

人は、悲しみを残さなければ去ることができないのならば、
それこそが、生きた刻印のようなものであるのかもしれません。

そして、それを受け取る資格のある人は、
その人との時間を、大切に過ごした人だけであろうと思います。

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by hiro-ito55 | 2013-10-06 22:16 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

リスクとデンジャー


危険のことを英語でriskdangerと言います。

riskは、人がしっかりと認識してコントロールしたり回避したりできる危険で、
dangerは、一旦そこに足を踏み入れれば、何が起こるか分からない、
予測することやコントロールすることが不能な恐怖や脅威のことです。

認識しコントロールすることができる危険だからこそ、
それを回避するためのrisk hedge(危険回避)という言葉もあるのですが、
予測することもコントロールすることもできない危険を回避するために、
danger hedgeするとは言わないのです。(というか、言えないのです)

もし僕らにdangerを回避するための方法があるとすれば、
それは、『それに一切近づかない』ということだけです。

だから、
人がアプローチできる危険はdangerのほうではなく、riskのほうだ
ということも分かります。

同じ危険でも、riskは目に見える形でしかも回避(hedge)可能なものなので、
そこに関わる人はこれを管理し、コントロールしようとしますが、
専門家というのは、そのリスクをはっきりとした形で予測したり、
そこから対策を立てたりすることができる人たちです。

例えば身近なところでは、生活リスクという言葉がありますが、
障害者や医療・介護サービスを受けている人たちが在宅で生活していくためには、
健常者であれば普段は意識することのない危険(つまりリスク)も伴ってきます。

呼吸器の管理、褥瘡の管理、栄養の管理....
これらはみんな、リスクを回避するために行なうのであって、
そのために人手が入ったり、必要な機器・道具をレンタル・購入したりします。

障害者であっても、生活に伴うリスクさえしっかりと管理できていれば、
少なくとも、暮らしを続けていくことはできますが、

お腹が減れば、自分で弁当を買ってきて食べることができる、
という簡単なことも含めて、
健常者であれば、普段は意識することがなかったり、
意識しても自分一人で回避できるリスクであったりしても、

何らかのサービスを受けている人にとっては、
生活リスクを回避するために、様々な人やモノに頼らざるを得なくなります。

支援する側から見れば、
支援が目に見える形で行われているということは、
リスクの形もまた見えてしまうということで、

形が見えてしまう以上、
支援している人たちは、それを放っておくことはできないし、
形として、リスクを回避しなければいけない
と思ってしまいます。

けれど、支援される側から見れば、
自分が生活していくために、多くの人が直接関わったり連携したりすることは、
自分の生活の場に、他人が入り込んでくるということでもあって、

リスク管理のために、他者からの見守りや関係性を保持していくことが、
それがあることによって安心に繋がるものなのか逆に窮屈に感じるものなのか
よく考えてみると、それはとっても微妙なことでもあるのです。

あくまで支援する側から見れば、
関わる相手のriskを、dangerに変えてしまうわけにはいかない。
予測されるriskを、放っておくわけにはいかない


そこに、支援する側とされる側のジレンマも発生してしまう...
そういうこともあると思います。

僕自身は支援する側の人間ですから、
少なくとも、専門職から見た場合に、支援を受けている人たちが抱える危険というものは、
健常者が普通に生活するときに感じる危険よりも、
リスクの形が、遥かに具体的なものとして現れてしまっています。

そしてそのリスクは、
放っておけば、dangerに変わってしまうものもあります。

支援を受けている人にとって、自分で回避できると感じるリスクも、
支援する側から見れば、その人の自己管理に任せることがdangerだ、
と映ってしまうこともあるのです。

そこに、リスク管理の難しさというものがあります。

またそもそも、リスクの感じ方は人によってそれぞれで、
自分が関わる相手と、自分自身のrisk hedgeというものを考えたとき、

どこまで介入していくべきなのか、或いは、どこまで介入を許すべきなのかというのは、
人の尊厳や自立性にも関わってくることなので、
支援する側される側、双方にとって、本当に難しい課題であるなと思います。


余談ですが、
自分の生活に、もしリスクを感じたことがないという人がいれば、
それは、『自分の人生を生きていない人』なのかもしれません。

リスクヘッジとは、
自分の人生を、自分らしく生き抜く創意工夫のためには必要な視点であって、
もしそういう視点が無ければ、たった一度の自分の人生は、
逆にリスクに怯えるだけの、味気ないものになってしまうのではないでしょうか。

それから、
リスク管理の話で言えば、数年前から色々と言われている、
所謂『訪問リハステーション』推進の動きには僕は反対なのですが、
その話は次の機会にしたいと思います。

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by hiro-ito55 | 2013-07-01 00:58 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

長い廊下の向こう側


僕は訪問リハビリという仕事をしていますが、
この前、お世話になっているケアマネさんから、新規のリハ依頼を受けました。

ステーション宛てに詳しい情報を送ってもらうと、
その依頼のあったお宅は、車で40分近くかかる場所。

所長と相談し、
ちょっと遠いかもと感じながらも、お引き受けすることにしました。

地図で場所を確認して、
実際にいざ行ってみると、所要時間はやはり予想通りの40分。

今回に限らず、訪問リハには次の利用者さん宅に伺うまで、
その間に、数km単位の移動距離や、
数十分単位の移動時間が発生する場合があります。

僕の場合、
それを煩わしいと感じたり、
移動によって掛かる距離や時間によって、
自分自身のモチベーションが左右されたりすることはない。

だって、
在宅で訪問看護や訪問リハの依頼を掛けるということは、
病院や施設でいえば、患者さんがナースコールを押すこと、
それと同じこと
だと思うから。

利用者さんやご家族は、
ケアマネを通じて、きっと必死の思いでそのボタンを押している

プロであれば、僕らにはそれに応える責任があるのは当然のこと。

だから、
病院や施設のナースステーションやリハ室から、患者さんの病室に向かうことと、
訪問看護ステーションから、利用者さんのご自宅に伺うこと、

この二つは同じことで、
ただその間に、渋滞や脇道や抜け道がいっぱいあるというだけで、
言うなれば訪問看護ステーションからの道中は、
病院や施設の中にある廊下のようなもの


街全体が長い廊下で結ばれていると考えれば、
コールや依頼があったときに、そこを通って駆け付けるのは当然のこと。

だから、
移動時間や距離など、僕には全く苦にならない。


ですが、利用者さんの中には、
こちらの移動に掛かる時間や手間にまで気を遣って、
毎回、遠慮がちにサービスを受けられる方がいらっしゃいます。

医療を提供する側とされる側の関係性が、そうさせているのかもしれませんが、
僕個人としては、そんなことにあまり気を使ってほしくはない。

それよりも、
利用者さんやご家族のワガママを、もっと引き出していきたいし、
それを引き出せる自分でありたいと、いつも思うのです。

ワガママを引き出せないようなサービスでは、
利用者さんが、医療従事者の都合に合わせているだけで、
多分、本当に良いサービスであるとは言えない

以前書いたように、対人支援の基本は、
僕ら専門職が良いと思うものをまず提供していくのではなく、
利用者のよいと思うもの、或いは、利用者の潜在能力を上手く引き出すこと、

それを支援することにおいて、
僕らの専門性というものは発揮されるべきものだと思うから、

利用者さんのワガママに振り回されることは、
出されたワガママを、けっしてそのまま聞き入れるということではなく、
利用者さんと共に考え、悩むということだと思っています。

こういう仕事を通して、
そういった繋がりを継続していけることを、対人支援と言うのだと思うし、

長い廊下の向こう側に、そういう出会いがあることが、
自分の最良のものを提供するためのモチベーションにも繋がっていく...。

それは、
生かす側と生かされる側というものが、
支援する側とされる側の間に、固定されて在るではなく、
お互いに、生かし生かされる現実という機会を持つことで、

その機会は大げさに言えば、
相手と共に生きていくための態度、
その切っ掛けを見つけ、それが損なわれないように幾重にも編み込んでいく作業

そういうことなのかもしれない。

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by hiro-ito55 | 2013-06-05 00:37 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー