考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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カテゴリ:医療・福祉・対人支援( 80 )

伝わること


重度の認知症を抱え、ベッド上で寝たきりの患者さんがいる。
一日中ベッドの上で過ごし毎日が過ぎてゆくが、
妻や娘や孫に囲まれ、家の中はいつもとても賑やか。

ベッド脇には、結婚式の写真が飾られている。
妻はいつも、夫と一緒に行った旅行の思い出話や、新婚時代の幸せだった日々の話をされ、
夫も時々、思い出したように微笑する。

今は一人で起き上がることもできないが、
妻や家族にとっては、今でも大切な夫であることに変わりはないことが、
訪問させて頂くたびに、僕にもしっかりと伝わってくる。

妻や娘にとっての大きな疑問は、自分たちの話が夫には分かっているのかということ。

孫の顔を見て微笑んだり、妻の声掛けに頷いたり....、
その姿は、健康であった頃の夫の表情と何ひとつ変わらないけれど、
ただいつも穏やかなだけの顔に、自分から言葉を発しない夫に、
私たちのことが本当に分かっているのか、とても不安になることがある。

先日、初めての訪問入浴があった。
そのとき夫は、妻の手を握り激しく抵抗したという。

数人の見知らぬ人がベッドに集まり、入浴するためにベッド上で衣服を脱がされたとき、
妻の手を強く握りながら、大きな叫び声をあげた....。


人にとっていちばんの恐怖は、自分の意思が誰にも伝えられなくなることだと思う。

耳が聞こえない。目が見えない。
それも確かに恐怖には違いないが、相手に自分の意思が伝えられれば、
その恐怖は、孤独には繋がらない。

でも、耳が聞こえていても、目が見えていても、
誰にも自分の意思が伝わらないのだとしたら、それは絶対的な恐怖になるのだと思う。

重度の認知症を抱えた患者さんは、自分の意思を上手く伝えられないことが多い。
でも、伝えられないからといって、何も感じていないということにはならない。


微笑んだり、大声をあげたり....、
それはみんな、ちゃんと伝わっている証拠。

だから妻には、分かっているのか分かっていないのかで悩むよりも、
しっかりと伝わっていることが大事だと、お話しさせて頂いた。

夫からの言葉を聞けなくなったことは、確かに辛いことかもしれないけれど、
意思を上手く伝えられない不安や恐怖を分かってあげられるのは、ご家族しかいない。

孫の顔を見て微笑んだり、妻の声掛けに頷いたり。
それは本人が、何よりも安心できているからこそ見せてくれる、精一杯の心。

認知症を抱えているから、理解できていないのではないかと不安になるよりも、
伝わっていることを、しっかりと受け止めてあげること。

それが、たとえ自分たちにしか分からないサインだったとしても、
大事な人だからこそ、しっかりと受け止めてあげてほしいと思う。


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by hiro-ito55 | 2015-10-20 22:01 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(2)

想像してみてほしい。
もし僕や私の生活が、ベッドの上で送らなければいけない毎日だとしたなら。

看護師や医師、ケアマネやヘルパーさん、そして大切な家族や友人。
色んな人たちが毎日、自分の傍までやってきて、
親しげな言葉で話しかけたり、汚れた身体を綺麗に拭いてくれたり、
優しく手足をマッサージしてくれたりする。

そうやっていろんな人たちが、いつも自分の許に来てくれる。
それらはみんな、僕や私にとってとても心地よいものかもしれない。

だから、「もう少し話をしていたい」「一緒にお出かけして買い物をしてみたい」、
そう望んでみても、実際に返ってくる答えは「また来るからね」、
「必要なものは買ってきてあげるよ」、という優しい言葉だったりする。

何かがいつも、少しだけ手の届かない所にあるのに、
それでも毎日が、上手く廻っているかのように見えてしまうのは、
或いは、そんな優しい言葉のせいだったりする。


だから僕はいつも思っている。
もし、自分が誰かの支援を必要とし、不自由な自分とも折り合いをつけていかなければ、
生きていけないのだとしたら....。

確かに、支援があれば全てが受身でも、成り立ってしまうかのように見える、
そんな便利な毎日が与えられたとしても、

全てが自分からではなく、いつも向こう側からやってくるのなら、
それは果たして自分の生活だと、胸を張って言えるのだろうかと、
想像せずにはいられない。

もしそうでないのなら、見せかけの調和ではなく、
精一杯ワガママになることに、僕は何のためらいもないだろう。


本当の支援は、
誰かではなく、自分から世界に働きかけてみたいという、
人の意思を支えるためにあるのだと思う。

人の生活が、誰かに決められた便利で都合のいいモノのように扱われることを、
本質的に拒絶するところに、具体的な支援の形は現れる。

主体性を守るというのは、そういうことではないだろうか。

だから、限られた時間、限られた体力、限られた人生。
それらを自分なりに尽くしたとき、もしその選択が間違っていたとしても、
自分で、生活の今や未来のことを選択していければ、
人はきっと、後悔はしないだろうと思っている。

その人らしく生活することが、一人の人間として生きることと同義ならば、
支援は、ワガママな、人の意思を支えるためにあるのであって、
それを汲み取ろうとする支援者の、想像力と実行を必要としているのではないか。

ワタシのことは、ワタシ自身で決めてみたい。
それが時に、どれだけ切実な思いに基づいているのかということは、
相手の身になって考えようとしなければ、けっして分からないものだと思う。


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by hiro-ito55 | 2015-10-01 21:07 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

時々、患者さんや利用者さんから、サービスを断られることがある。
それが例えば、「今日は体調が悪いから」、「お客さんが来るから」といった都合で、
一時的に断られるのであれば、問題はないと思う。

けれど今回、
患者さんが、サービスの提供者である訪問看護者への不信感を抱いていて、
そのサービスを「打ち切るため」に断わる、というケースがあった。

その方には、僕も週一回、リハで訪問させて頂いているが、
数か月前からは、訪問看護ステーションを二か所利用するようになっていた。
必要な医療処置やケアが多く、一か所ではとても対応しきれなくなったからだ。

でも、新しく入ったステーションの対応が悪く、
緊急訪問でアタフタと慌てたり、通常の訪問時に自分の子供を一緒に連れて来たり、
意思疎通が上手く取れなかったために、必要な処置もせずに帰ってしまったり....。
と、聞けば耳を疑うような話ばかりが出てきた。

本人が、どうしても信頼することができないので、
そこのステーションには直接訴えずに、訪問に入っている所長が直接相談を受け始め、
結果、主治医とも相談の上、代わりのステーションを探すことになった。

悩みに悩んだ末の、相談だったようだ。


サービス提供者への信頼を築けないにも拘らず、ずっとそのサービスが続けられていて、
患者さん自身がそれを断るために行動を起こすのは、とても勇気がいる。

サービス提供者側の人間とすれば、定期的に担当者会議など、
サービスの質や体制について検討される機会もあるのだから、
もし不信感や疑問があるのなら、その都度思っていることを素直に話せばいい、
と考えるかもしれない。

でも、患者さんから信頼できない相手に自分の思いを伝えたり、
サービスを断るために行動を起こすのは、気持の上でとても大きな負担になるし、
「何か嫌だな」「この人たちとは合わないな」と感じていたとしても、
提供者に向けて直接それを口にするのは、そんなに簡単なことじゃないと思う。


断り切れなかったら、その後の関係性はもっと悪くなるんじゃないか....、
そんなことを言うと、我がままだと思われるんじゃないだろうか....、
断わった後、自分の生活はどうなるんだろう....、
もう少し辛抱してみようかな....、
こんなこと思うのは自分だけなのかな....、

自分の生活を預けている患者さんは、
たとえ相手に不信感を持っていたとしても、そんなふうに悩んだり迷ったりしている。

患者さんがそんなふうに思うこと、それが何も特別なことじゃないと分かるためには、
思いを吐露したときには、もうクタクタに疲れてしまっているその人を見れば、
それで充分だと思う。

それに、痰の吸引や呼吸器の管理、或いは緊急時の対応など、
現実に生きるために欠かすことのできない処置や対応をお願いしている場合、
それを別の提供者に代わってもらうことは、それなりのリスクも伴っていたわけで、

それを考えれば、
認知面や判断力に問題のない人が、「止めたい」「断りたい」と言い出すだけでも、
それはとても勇気がいることだったに違いない。


今回、僕は何もすることはできなかった。
けれどせめて、そんなふうに置かれている患者さんの立場や気持ちを、
少しでも理解していくことは、僕にでもできると思う。



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by hiro-ito55 | 2015-08-28 00:01 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

訪問に入ると、何らかの形で福祉用具を使用している利用者さんがほとんどだ。
特にベッドや車いすは、ほぼ全ての利用者さんが使っている。

でも、福祉用具を扱う業者さんは、
その使い方について、ご本人やご家族にしっかりと説明して下さっているのか、
疑問に感じるケースに出会うことがある。
特に車いすについては、そう感じる機会がこのところ多いのだ。


離床時は車いすに座って過ごされ、自宅の浴室でも入浴している利用者さん。
入浴介助はご家族、ヘルパーさん、看護師さんが交替で行っており、
浴室までの移動ももちろん車いすを使っている。

入浴の際は浴室の入り口まで横付けし、
そこから、浴室内に設置したシャワーチェアーに移るのだが、
そのとき、どうしてもフットレストの跨ぎ動作が必要となり、
移乗介助がたいへんだったので、車いすをフットレストが取り外し可能なものへと、
変更して頂いた。

けれど、新しい車いすを持ってきた業者さんは、
ご家族やご本人に対して、充分な使い方の説明をされていなかった。

バックレストの湾曲角度の調整のしかた、フットレストの高さ調整や取り外しの方法、
どうやったら肘置きを跳ね上げられるのか、などなど....。

僕らのような専門職であれば、車いすを見ればどのような機能が備わっていて、
どうしたらそれらを使えるのか一目瞭然だけど、
ご家族やご本人にとっては、説明がなければ使い方がなどまるで分からない。

なので、車いすを交換してすぐに、
ご家族と訪問に入っている看護師さんから相談を受け、
必要な調整と使い方の説明をすることになった。


実際に座って頂くと、問題点だらけだった。

バックレストのたわみは全くない状態のままで手渡されており、
フットレストと肘置きの高さも最大限まで上げてある。

身長が180cm近くある利用者さんなので、
このままだと体全体を折り曲げて座らなければならず、
とても窮屈な姿勢で座らなければならない。

これでは、とても座る気にはなれないだろうなと感じた。


訪問に入ってすぐ、機能訓練やADL練習はとりあえず後回しにして、
まずは車いすの調整に入った。

太ももの後ろ側が、しっかりと座面につくようにフットレストの高さを変え、
ゆったりともたれられるように、バックレストのたわみと肘置きの高さの調整を行い、
併せて、脱着して調整可能な部分の説明も行った。

ご家族からはとても感謝されたけど、
僕自身は、福祉用具を扱う業者さんには、自分たちが扱う商品について、
ご家族に対してもう少し説明をしてほしいなと思った。

僕らがリハの専門家であるように、
福祉用具を扱う業者さんは、その専門家であるのだから、
少なくとも自身が扱う商品については、しっかりと説明してほしいと思う。

商品を利用者さんに手渡して終わりでは、あまりに無責任であるように感じてしまう。

もちろん、そういう業者さんばかりではないけど、
このところ、そういうケースが続いているせいもあって、
もう少し、説明なりアドバイスがあってもいいように思うことが多いのも事実だ。

福祉用具というのは、利用者さんの生活のしかたを左右するものなのだから....。













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by hiro-ito55 | 2015-06-05 20:55 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(3)

ある利用者さんが、デイサービスの利用を拒否し始めた。
理由は、職員から「○○ちゃん」と、「ちゃん」づけで呼ばれていることだ。
「今どき?」と思ったが、利用者さんを「ちゃん」づけで呼んでいるところは、
今でもちゃんとあるようだ。

実際に、そこの事業所を利用する他の利用者さんたちからも、
以前から、「○○ちゃん」と呼ばれたり、「ご飯食べようか」とタメ口で訊かれたりする、
そういう話を聞かされていたが....。

知識も経験もお持ちのこの方にとって、
デイサービスに出掛けるというのは、単に外出の機会があるという意味だけでなく、
それ以上に、社会人としての交流の場でもある。

たとえ認知症を抱えて利用していたとしても、
一人の大人であることに変わりはないからだ。

だから初めは、
他利用者やスタッフと会話を楽しみ、穏やかに過ごすつもりでいた。

同居の娘さんがヘルパーの仕事をしているため、
母の意向に合いそうな事業所を、知り合いを頼りにいくつか目星を付けて探し出し、
最後はケアマネさんと相談しながら、利用する事業所を決めた。

ところが、利用し始めて半月も経たないうちに、下の名前でちゃんづけで呼ばれ始めた。
しかも、自分よりも遥か年下の人たちから....。

一度だけ、思い切って自分の思いを話したところ、職員から却ってきた返事は、
「いいじゃない。ここではみんなそう呼んでいるんだから。」
「敬語を抜きにしたほうが親しみを持ち易くなるし、会話も自然だから。」
という反応。

そこの事業所が、接遇に対して、どのような方針を持っているのかは分からないし、
親しみを込めて接しているというのなら、それもコミュニケーションのひとつだと思う。

でも、相手がそれを不快だと感じているのに、
そのやり方を押し通すというのは、どうなんだろう。


よほど親しい間柄でもない限り、
ちゃんづけやタメ口をされるのは、とても不愉快なものだ。

会話に親しみを込めたり、同等の立場で接したりするのは、
お互いを尊重することの現れなのだと思う。

信頼関係がしっかりと築けた上で、それは可能なことなのだから、
ちゃんづけで接すれば、利用者さんとの距離が縮まるというものではないはずだ。
もしそう思い込んでいるとすれば、それは職員の自己満足に過ぎないのだと思う。


実は僕も、老健に勤めていたころに、
利用者さんに平気でちゃんづけする上司を持った経験がある。

その上司が決まって口にしていたのは、
「その方が○○ちゃんが喜んでくれるから」、というセリフだった。

僕には、どうしてもこういう人の感覚が分からない。

一見して喜んでいるように見えても、
本当に喜んでいるのは、ちゃんづけをしている本人なのかもしれないということに、
専門職ならどうして気付けないのかと、いつも不思議に思う。

それにもし、自分の親や身内が、他人からちゃんづけやタメ口をされていたら、
それを、不愉快なものだとは感じないのだろうかとも思う。

専門職として、たとえどんなに立派な理念を持っていても、
そして、たとえどんなに立派なことをしていても、
相手をちゃんづけしても、タメ口で話をしてもよいという感覚を持った人を、
僕は、どうしても理解することができない。

10年以上、医療・介護の世界に携わっているが、
人として、未だにこういう感覚だけは、受け入れがたいものがある。


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by hiro-ito55 | 2015-05-28 00:01 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(6)

イップス


スポーツの世界に、「イップス(Yips)」という言葉がある。
過去の失敗経験から、それと似たような場面に出くわしたときに、
また同じ過ちを繰り返すのではないか、という恐怖心が先に立ち、
その経験を繰り返すことで、スランプに陥ることを指して言う言葉だ。

当初はゴルフ界で使われていた言葉だが、
今では、スポーツ界全般で使われているらしい。


先日あるお宅に訪問したときに、
患者さんの娘さんに、歩行介助の方法を教えたことがあった。
ご家族介助下での入浴を強く希望されていた方で、
そのためには、ベッドから浴室までの安全な歩行介助方法の獲得が、ぜひとも必要だった。

娘さんは以前、外出のために歩行を手伝っていたときに、
誤って玄関先で転倒させてしまったことがあり、
それ以来、自分が歩行介助を行うことを断念してきた。

自分との身長差が20㎝以上もあるというのも、断念した大きな理由だった。

ポータブルトイレへの移乗であったり、歩行であったり、
身長差の大きい方を介助する場合も、
なるべく患者さんの身体に密着した姿勢で介助するのが、一般的かもしれない。

けれども、患者さんによっては、
介助する人との距離が近すぎることで、却って患者さん自身の動きが封じられてしまい、
結果として窮屈な動作となってしまうことがある。

また、密着して動作介助をすることで、
介助者が、患者さんの不安定な動きに引きずられやすくなることも確かで、
そのために、どうしても力任せの介助となることがあり、
万一バランスを崩したときに、大きな事故へと繋がりかねない危険もある。


この方の場合も、
過去に転倒させてしまったという経験から、過度に密着して力を入れたまま、
ポータブルトイレや、車椅子への移乗を行う傾向が強く現れていた。

こういった悪循環を断ち切るため、
身体を離したままでも安全に行える介助方法を、実演も交えながらお伝えした。

転倒させないためには、
できるだけ身体を密着させて介助しなければならない、という強い思い込みから、
お互いの持っている力を利用しながらできる介助方法があり、
それを身に着けることができることを納得して頂くまでには、
繰り返し助言と指導を必要とした。
               
               ・
               ・

過去の失敗体験に捕われる、つまりイップスに捕われるというのは、
何もスポーツの世界に限ったことではないと思う。

僕も、過去に何度も失敗を繰り返してきた。
そして、同じような状況に出会ったときに、また同じ失敗をするのではないかと、
ついつい考えてしまう癖がついてしまったことがある。

今思えば、そのような癖がついてしまった最大の理由は、
失敗したことの原因について、冷静に分析して考えるよりも、
その失敗自体を嘆いた方が、精神的に遥かに楽だったからだ。

失敗した原因についてしっかりと分析し、具体的に次に備えることは難しい。
いつでも全てを完璧にとはいかないからこそ、漠然と失敗することを恐れてしまう。

でも反対に、だからこそ自分のできる精一杯をやっていくしかない、
という考え方に行き着くこともある。

そうしたら、失敗することを恐れるよりも、
万が一失敗したときに、自分がどう振る舞うべきかを考えることの方が大事だ、
ということにも、気付くことができると思う。

失敗したときの自分が、恥ずかしくない自分であるためにはどうしたらいいか、
そのことを考えると、自然と力が抜けて自分のできることを精一杯やってみよう、
という気になる。

不思議なものだけど、そういう自分自身の経験を踏まえて、
患者さんのご家族にも介助や支援の方法を伝えられたら、
リハ職が行える生活支援の在り方も、随分広がるように感じている。

技術と一緒に、伝えられることはあるはずだ。


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by hiro-ito55 | 2015-05-21 20:33 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(3)

よく、患者さんと接するときには「話を傾聴する」とか、
「患者さんの気持ちに寄り添う」ということが大事だと言われる。
実際に僕も、記録用紙には「○○さんの訴えを傾聴しました。」と書くことがある。

でも、後から振り返ってみると、
本当に自分は患者さんの声に耳を傾けていたのだろうか、
患者さんの気持ちに寄り添うことの意味を、ちゃんと理解したうえで、
記録として残していたのだろうかと、疑問に思ってしまうこともある。


担当する患者さんの中に、去年長く連れ添った夫を亡くされた方がいる。
夫の死以来、鬱的になり、半年ほどで認知症状も出始めた。

深い喪失感とともに、
日中一人暮らしとなってしまった状況も良くないと判断した僕らは、
デイサービスの利用なども勧めてみたが、そういう気力もなく、
いつも利用開始日直前にキャンセルされ、家に閉じこもってしまっている。

ヘルパーの受け入れも進んでおらず、
朝から夕方まで、毎日テレビの前で過ごすことが日課となり、
ただ溜め息ばかりが増えていく。

原因は分かっている。

しかし、こちらからそれに直接触れることは避け、
時折語られる、ご主人との思い出話などをリハビリの合間に聞かせて頂いていたが、
鬱的に過ごされている現状を、何とかしたいという気持ちから、
「大丈夫です。」「分かります。」とうっかり口にしてしまったことがある。

ご主人の突然の死が齎した喪失感について、本人が語ったときに、
つい口をついて出てしまった言葉だ。

聞こえるか聞こえないか分からないほど、弱々しい声で呟いた、
「分からないわよ...」という言葉を耳にしたとき、僕は自分の軽率を後悔した。


患者さんには、
ときに「あなたの気持ち分かるよ」と簡単に言ってもらいたくはない場面がある。
気持ちに寄り添うことと、同情することとは違うし、
必要のない同情は、ただの差別にしかならないのだ。

自分にとっての分かるとか大丈夫とかが、
必ずしも患者さんの気持ちと一致しないということ、
その意味するところを理解せずに、自分の気持ちを示そうとするのは、
土足で人の心に踏み込むのに等しい。

そこに迂闊でいると、患者さん自身は、
病気でも何かを失ってもいないあなたに、その一言だけは言ってほしくはなかったと、
深く傷ついてしまうことがある。

だから、どんなに親身になって話を聞いたつもりでも、
「傾聴する」とか「寄り添う」ということを、簡単に考えてはいけないのだと思う。


対人支援の世界では、患者さんそれぞれの思いや価値感を第一に考え、
それを基にケアマネを中心にして、支援の方向付けが行われなければならない。

そして、家に閉じこもり、認知症状も出始めているという今の状況は、
けっして良いものだとは言えないし、
専門職として、何とかしたいという気持ちは常にある。

でも、患者さん自身が、たとえ悲しみの中で一日が過ぎようとも、
家で一人で静かに過ごしたいと感じているのも事実なのだから、
その扱いについては、難しい側面もあることは確かだ。

関わる人たちが、患者さんの思いや価値観に寄り添うことが、
支援のための基本となるとしても、やはり、気持ちの変化が訪れるまで、
辛抱強く待つしかないのだろうか。難しいな...。













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by hiro-ito55 | 2015-05-14 21:31 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(3)

先日のこと。利用者さんとご家族が、大喧嘩をした直後に訪問したことがあった。
喧嘩の原因は、利用者さんが一人でベッドを離れ、部屋から出てくること。

トイレに行こうとしたり、食事のために台所まで来てしまったりと、
目的はその時々で様々だけど、
転倒リスクのある人が頻繁に家の中を歩かれてしまうことが、ご家族としては心配で、
いくら注意してもそれが改まらなかったことで、ついに喧嘩となってしまったようだ。

お互いに怒り心頭な双方の話を聞きながら、
ついにこうなってしまったかという思いだった。

元々、転倒後の大腿骨骨折で入院され、
自宅退院になった後にリハとして関わるようになった利用者さんだが、
一月も経たないうちに、支え歩行がなんとか可能になりかけていた。

ただ、自分の能力をやや過信するところがあって、
歩行器など福祉用具の導入もご家族らと検討したが、
本人の「必要ない」という意思を変えることはできなかった。

本人としては、自分で歩くことぐらいできると信じているかもしれないし、
金銭的な負担や、家族の気遣いを心苦しく感じているのかもしれないが、
ベッドから離れるときは一声掛けるように、ということで話が進んでいたときに、
喧嘩となってしまった。


医療職や介護する側からすると、
どうしても本人の「できないこと」が目に付いてしまうことが多い。
だからこそ「見守り」が必要で、そのために必要な対策を一緒になって考える。

だが、僕らがそう思って進めてみても、本人からしてみれば、
それを、自分の行動を制限するための「監視」と受け取ってしまうことがある。
だからこの利用者さんも、「転んだら自分の責任だ」としきりに言っていた。

家族からしてみれば、その後の入院やら何やらを考えると、
自分一人で責任なんて取れるわけがないと当然考えていたし、
一緒に暮らしたいという基本的な思いは一緒でも、
そのためにどうすればいいかというところで、双方の捉え方には大きな違いがあった。


支援者側からすると、リスク管理をしっかりとした上で、
その人らしく生活するための支援を模索していくのが基本となるのだが、
どんなに一緒に生活していても、本人が一人になる時間は必ず出てくる。
見守りが行き届かない時間は、双方の信頼の上に生活を立てていくしかない。

しかし、その信頼関係が本当に成り立っているのかということは、
当事者同士にもなかなか見え難いところで、しかも一旦それが破られてしまうと、
支援者側から見れば「いくら言っても聞かない人」と映り、
逆に本人からすれば「いつも監視されているようで嫌だ」ということにもなってしまう。

専門職側からの意見や価値観は、ご家族にとっては非常に影響力のあるもので、
その捉え方をそのまま受け入れるご家族も多い。

だが、家族を巻き込んだ見守りやリスク管理の体制が、
ときとして利用者本人に窮屈な思いを与えてしまったり、
本人を、心身ともに孤独に追いやったりしてしまうこともある。


一口に「在宅はその人らしい生活のためにある」と言ってみても、
支援と被支援という関係を持ち込んで、一緒に生活するというのは難しい。

在宅において、完全な見守りというのは不可能なのだから、
それを承知の上で、双方が過負担なく生活できることが理想なのだが、
いざそれを実現するというのは、とても複雑で困難を伴うものだからだ。

最低限のリスク管理と、その人らしい生活の実現。
支援者側からすれば、転倒リスクだけはなんとか回避したいし、
利用者本人からすれば、できるだけ自由に振る舞いたい。
そのバランスの上で成り立つ生活を探していくのは、とても微妙な問題だ。









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by hiro-ito55 | 2015-05-05 19:48 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(5)

僕の宝


毎日、色々な患者さんのお宅を訪問するうちに、
在宅生活を送るご本人やご家族の、切実な思いに気付かされることがある。

たとえば、いつも突然ふいに襲われる孤立感や寂しさ。
それを自分一人ではどうしようもできない現実が、確かにあるのだということも、
そのひとつなんだと思う。

重度のCOPDを患った方と、その夫を一人で介護する妻がいる。
血液検査の結果のこと、痰の吸引のこと、呼吸苦が齎すパニックが怖いこと、
妻自身も抱えている健康不安や夫の予後のこと....、

訪問する度に打ち明けられる内容からは、悩みや不安はいつも尽きることがない。

それらの問題は、根本的には解決できないことであるかもしれないし、
必ずしも解決に拘っているわけではない、
彼ら自身そう分かっていても、それはきっと、癒されることのない不安なのだと思う。


毎日の生活で経験する現実を、とにかく誰かに打ち明けてしまいたい、
そうしなければ、自分を保つこともできなくなってしまいそうな不安....。

その姿を前にしたとき、その負担の何分の一かを分けて貰うことが、
僕がこうして関わることの、ひとつの意味になるのかもしれないと思うことがある。

現状や予後、介助の仕方について、
患者さんやご家族には、わからないことはわからないと正直に伝えることも大事だけど、
そのわからないことを、そのままほかっておくのではなく、
一緒に悩み、考えられたなら、僕にも何かができるに違いない。

そう感じてしまうのは、明らかに僕の信念なのだろうけど、
それを受け止め、分け合うために必要な術を知ることは、
僕自身が、自分で自分の責任を果たすことに繋がっていくように感じる。

それが、僕が訪問リハという仕事を通じて学んだ、大事なことのひとつ。
そして、そういう気持ちは必ず相手にも伝わるのだということも学んだ。



ある患者さんは、こう言って教えてくれた。
「気持ちのない共感というのは伝わるものです。理解なんてできないかもしれないけど、
 痛いよ、辛いよって認めてもらえるだけで、患者の心は救われます。」と。

この患者さんは、人の気持ちや思いを共感したり、共有できたりするということは、
単に私に分かるとか分からないとか、そういうのものではなく、
伝えたもの、伝わったものを確かに受け取ったという、
その感触を、お互いにしっかりと確かめることなのだという大事なことを教えてくれた。

だから、そうして伝えることや伝わることで何かが始まるのなら、
それはきっと、僕の宝と呼んでいいものだと気付くことができた。


これから、在宅医療の充実を訴えるだとか、訪問リハの普及促進を考えるだとか、
そんな大きな設計図のようなものは、残念ながら僕には描けない。

僕は、専門的態度に固執する保守派にも、
いつでも新しい方法論を是とする進歩派にもなりたくはない。

その代わりせめて、直接関わる人たちが抱えるもののうち、
その何分の一かでも、しっかりと共有できる人でありたいと思う。

患者さんやご家族と触れ合うことで、
悩みや辛さにさえも意味があるのだと、そう信じることができたなら、
それが、僕の宝になっていくのだと思っている。


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by hiro-ito55 | 2015-04-21 22:38 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(6)

外出の悩み


障害者総合支援法の地域生活支援事業の中に、移動支援というものがある。
障害を抱えた方が、円滑に外出できるよう移動支援を行うサービスのことで、
俗に言う外出支援のことだ。

僕の担当している患者さんの中に、このサービスを利用している女性がいる。
移動は車椅子による全介助である。

また、常に呼吸器を装着しているため、
安全面はもちろん、付き添う側は外出中はいつもモニターをチェックし、
呼吸状態に注意を払わなければならない。

だからどうしても、付き添ってくれる人から、
仕事でお供するという雰囲気が全面に感じられてしまうことがあるという。

彼女の場合、付き添いのヘルパーさんと二人で外出することがほとんどなので、
外に出かけることを楽しみにしている彼女にとっては、
そんなときに、外出自体が全然楽しくないものになってしまうことがある。
出かける前から、やっぱり止めようかなと躊躇してしまうことも多いようだ。


普通、僕らが誰かと一緒に出かけるとき、
一緒に連れだっていく人と楽しむことも、外出する目的のひとつに成り得る。
それが望めない場合は、一人で出かけることを選ぶだろうし、僕らにはそれが可能だ。

彼女の場合も、
もし一人で出かけられるんだったら、きっとそうしたいに決まっている。

けれど、外出には必ず誰かの介助を必要とするのだから、
彼女には一人で出かけるというその選択肢自体がない。

外出が、常に誰かと一緒でなければならないのなら、
それはお互いに楽しみながらのことでありたいと望むのは、当然のことだと思う。

たとえ一緒に出掛けてくれる人が、親しい友人ではなく介助者という他人であったとしても、
やはり同じように考えると思う。


呼吸器も付いていて、しかも移動が車椅子の全介助だと、
介助者側は、どうしても常に安全面に気を遣うようになってしまうし、
付き添いの間は一緒に楽しむ余裕がなくなるということも分かる。

でも、たとえば、「今日は一緒に楽しみましょうね」。
介助者側がそう一言言うだけでも、患者側の気持ちはずいぶん楽になるように思う。

それともそれは、介助されている患者側から言わなければいけないことなのか。
僕にはよく分からない。

僕らにとってはごく当たり前なこと、それをするために、
患者さんは、僕らが気付きにくいところで悩んでいることがあるということ、
外出を楽しみたいという具体的な彼女の思いを通して、僕はそのことについて考えさせられた。



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by hiro-ito55 | 2015-04-01 22:24 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(4)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー