考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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カテゴリ:美意識( 8 )


今、確かに強く握りしめた両手を
その手に何を掴んできたのか
その手から何が滑り落ちていったのか
その手でどんな世界と繋がろうとしてきたのか

そこに刻まれた無数の皺は、あなたが辿ってきた軌跡そのもの
掌の中に、生きてきた証が刻まれている

力衰え、歩むことの恐ろしさを知ってしまった今でも、
その手で包み込もうとした、希望や夢の軌跡がそこにある

それらがそこに刻まれたことの、本当の意味を知っているのは君自身のはずだ

たとえ、思い描く景色の中に誰も映らなくとも、
空に向かい、真っすぐに掲げたその拳は、風を突き闇に翻る君の情熱そのものだ

高く翳したその手に、きっと届かない夢などない 掴めない未来などない
君自身で自ら拳を降ろさない限り、それらはどこにも逃げてなどいかない

それに気付いたとき、君の情熱は孤高にして揺るぎない意志となる
その気高さが、君を支える軌跡となる

力いっぱい掲げた皺だらけの君の手は、きっとどんな宝石よりも美しい
風を突き、闇を払うその情熱こそ、これからの君の生きる軌跡となれ



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by hiro-ito55 | 2014-10-30 21:50 | 美意識 | Comments(0)

イロトリドリノセカイ


白か黒か、そんなものをどこまで望んでいるのだろうか。

私とあなたはちょっとだけ違うもの。その隣の人もまた、ちょっとだけ違っている。
そしてそのまた隣の人も....。

そうやって、
淡いグラデーションを描いて、僕らの世界は在るんじゃないだろうか。

みんなちょっとだけ違うから、きっと僕らは一緒に頑張れる。
みんなちょっとだけ違うから、きっとまた会いたいと思う気持ちも湧いてくる。
そして、違う誰かとしてのその人を、認めていくことができる。


僕らは、
淡いグラデーションの中に、それぞれの軸を持っている。
違う空の下、それぞれの色を描いて在る中に、僕らの持つ魂の豊かさは宿っている。

そしてその豊かさは、
共感という名の、それぞれの感受性によって惹かれ合うのだということを、
忘れてはいけない。

私は私の色を持っている。
それは、ときに強烈な個性を放ったり、誰かの色と混じり合ったりする。

けれどその色は、誰かを退けたときに現れるものではない。
自分や相手を本当に知りたいと思ったときに、その誰かの色は現れてくれる。
その人自身の中にも、それを感じる誰かの中にも現れてくる...。

それが、
誰かを知るということ。
私を知るということ。

みんな一緒でもなく、あなたと私は全く違うのでもなく、
みんなそれぞれの色を持って在るということ、

それが、掛けがえのない魅力になっていくのだと気付くのに、
僕らは少し、自分や相手に対するアンティミテという感性に、鈍感になっているのかもしれない。

それとも、それが当たり前だと思えなくなるほどに、
僕らの世界は、複雑になり過ぎているのだろうか....。


たとえ震える身体であっても、怯える心であっても構わない。
みんな違う、イロトリドリノセカイ。

その中で、自分の色で輝けばいいと気付くために、
ときに僕らは、あまりにも遠回りしてはいないだろうか....。


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by hiro-ito55 | 2014-10-01 18:25 | 美意識 | Comments(0)

春月


休日を利用して、岡崎市美術博物館へ行ってきました。
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目当てはこれ
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横山大観橋本雅邦下村観山など、
近代~現代にかけての日本画の巨匠たちの絵が立ち並ぶ中で、
僕の目を惹いたのは、大観の不二霊峰でも雅邦の白鶏でもなく、

児玉希望の『春月』。

実はこの絵の前で、30分も立ち尽くしてしまった


縦126㎝横145㎝カンヴァスの中で、
月明かりを頼りに浮かび上がる桜の木

月明かりしっかりと反射するところは、
花弁の濃淡や細かいところまで、私たちにもはっきりと見えるように
そして光の届かないところは、
周りの景色に溶け込むように描かれています。

月の柔らかい光を、唯一の頼りにして描かれたこの絵は、
初めは全体としてぼんやり浮かび上がってくるような、
そんな印象を与えるかもしれないが、

少し遠ざかって見ると、光の受け具合によって、
桜の木全体が、くっきりと立体的に見えてくることに驚く

画家の眼というものは、
僕ら一般人よりも、遥かに多くのものを見分けているのだと思うし、
よほどの愛着がなければ、
恐らくここまでしっかりと見分けることも出来ない

画題桜ではなく、春月としているところ面白い

春の月の光ぼんやりとしているが、
その光によって浮かび上がる桜の木は、逆にその立体感を増す

画家は、その光の力に驚いたのではないかと、
僕は勝手に想像する

そして見れば見るほど
何とも言えない、落ち着いた気分になっていくこと気付く

気付きながら、
小林秀雄が『美を求める心』の中で、
画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です
と言っていたことを、ふと思い出す


....そうして出来上がった花の絵は、
やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。

絵は、画家が、黙って見た美しい花の感じを現しているのです。
花の名前なぞを現しているのではありません

何か妙なものは、何んだろうと思って、諸君は、注意して見ます。
その妙なものの名前が知りたくて見るのです。
何んだ、菫の花だったのかとわかれば、もう見ません。

これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません

画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。
愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、
見飽きないのです。

好奇心から、
ピカソの展覧会なぞへ出かけて行っても何んにもなりません

美しい自然を眺め、或は、美しい絵を眺めて感動した時、
その感動はとても言葉で言い現せないと思った経験は、
誰にでもあるでしょう。

この何んとも言えないものこそ、
絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝えたいと願っているのだ。

美しいものは、諸君を黙らせます
には、人を沈黙させる力があるのです。
これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。

絵や音楽が本当に解るという事は、
こういう沈黙の力に堪える経験よく味わう事に他なりません。

ですから、絵や音楽について沢山の知識を持ち、
様々な意見を吐ける人が、必ずしも絵や音楽が解った人とは限りません

解るという言葉にも、色々な意味がある。
人間は、種々な解り方をするものだからです。

絵や音楽が解るというのは、絵や音楽を感ずる事です。愛する事です。

知識の浅い、少ししか言葉を持たぬ子供でも、
何んでも直ぐ頭で解りたがる大人より、
美しいものに関する経験は、よほど深いかも知れません。

               ― 小林秀雄『美を求める心』―




僕のような素人が、30分その絵を見ただけでは、
小林の言うような、画家と同じ目線で見たことにはならないだろうけど、
絵の前で知らず知らずのうちに沈黙して、
心が落ち着いていくことに、気付くことはできる

そんなことを思いながら、
出口の売店で『春月』の絵葉書が売られているのを見つけ、
せっかくなので、記念に購入してみる。
     ↓↓
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by hiro-ito55 | 2012-10-07 16:39 | 美意識 | Comments(0)
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 目的によって知覚を限定し制御する、そのような知覚を支配するのは、
こちら側の意志です。

 ひとつのものを徹底的に見ようとすれば、意志とは関係なく、
Henri-Louis Bergsonの言葉を借りれば、
そこには知覚の拡大深化の道があるだけです。

 このような道を突き詰めれば、
見ることが感ずることと一緒になる 『観』 の道があるのかもしれませんが、
前回述べたような自然の美しさを感じる経験を、
芸術家が感じるような特別な経験ではなく、

僕らの日常経験として、どこにでも転がっている経験であるという、
そういう 『知覚の方法』 として捉えれば、

僕らはただ、そのような知覚の仕方で、ものを見ていないだけではないか
という反省に行き着きます。

 この反省は同時に、
知覚に使役される自分自身への、内省の眼を鋭く自覚させるものです。

 内省は人を沈黙させます。

 美を前にしたときの沈黙は、
自分の目的に沿って明晰化された 『合理的知覚』 ではなく、
云わば、自分の意志ではどうにもならない知覚に襲われたときの、
人間の正常な反応を示すものであり、

この沈黙を現代人は恐れているのかもしれません。


 美しいものを前にして、殊更ああだこうだと批評したがるのは、
合理的知覚を使役するからなのでしょう。

 僕らの日常において、
沈黙するということが何か良くないイメージとして捉えられるのは、
合理的な知覚を殊更、重宝しているからでしょうが、

美しいものや景色を前にしたときの沈黙という、
人間の正常な反応を示す経験は、
紛れもなく僕らの日常感覚でもあるのです。

 ならば、花の魅力に魅せられて、花を描きつづける画家は、
この沈黙ひたすら耐えようとする日常人の姿であり、
その絵を前にしたときの僕らの沈黙は、
彼の知覚を我がものにしようとする、そういう 『出会い』 でもある筈です。





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by hiro-ito55 | 2011-06-03 18:54 | 美意識 | Comments(0)
 『の魅力に魅せられて、花を描きつづけている画家の行為』、

これは、本物の花というものを、
未だ自分は本当には見たことがないという、
鋭い反省に基づいています。

そうでなければ、
花というものを描きつづけることなど、できないのであろうし、
このような知覚の在り方というものは、 
ひとつのもの』 を見 『続ける』 ことで成り立つものであるのですから、
そこには空間の持つ奥深さ時間の拡がり内包されている筈です。
 
云わば、ものが持つ時間軸と空間軸を感じとる知覚である筈で、
この両軸が交わる姿の 『多様性』 によって、
繰り返し見定めようとするそのような反復的行為は生まれます。

これは、
知覚というものは、時間的な拡大と空間的な深まりの多様性で満たされている
ことを、僕らに示していることになりましょう。

僕の勝手な想像ですが、
Henri-Louis Bergsonの言う 『知覚の拡大深化』 も、
凡そそのようなことを言うのではないでしょうか。


翻って考えてみれば、 『一曲の音楽を繰り返し聴く経験』 や、
或いは例え立派な景勝や庭園でなくとも、 
『ひとつの景色に目を奪われ、機会があれば足を運ぶ経験』 は、
確かに僕らの日常の経験である筈です。

これは紛れもなく、前回述べた 
美意識が何か特別な経験ではなく、尋常な現実として存在している証』 
でもあるのです。

これを、『芸術家が見る特別な視線である』、
と片づけるのは容易なことでしょう。

溢れんばかりの雑多な情報を収集し、
それらをひとつでも多く自分の知識の箱に収めることに躍起になることだけが、
知覚することではありません。
 
しかし、そうした作業に余念がない、
云わば 『知を雑学と勘違いしている』 多くの現代人にとっては、
それが常識であるのかもしれませんが。
 

通常、僕らは見たくないものは見ないし、聴きたくないものは聴かないのが常です。
それは、日常生活の目的に応じて収受選択される、
そのような知覚の作用に基づく行為なのでしょう。

例えば、仕事をする上で窓の外の空の色に気を取られていては、
仕事にはなりません。
ですから、仕事中は仕事に関する情報を選択的に知覚するという、 
『知覚の編集・構造化』 というものが働きます。

それによって、僕らの知覚は目的に沿って明晰化されていきます。

これも、云わば知覚が行動へと変換されるひとつの 『道程』 であり、
認識の合理的なプロセスです。

しかし、目的を持った行動へと変換する、
その合理的知覚のプロセスにおいて、
捨てられた知覚も存在する』 ということに注目するならば、
美とはまさにそのような知覚によって捕えられることを待っているのです。

云わば、僕らが各々持っている 『合理的知覚』 の方を捨て去り
時間的な拡大と空間的な深まりの多様性で満たされている知覚』 に
忠実になるのを待っているのです。

これは、『ひとつのものを徹底的に見ようとする知覚の方法』 であり、
そこにはこちらの合理的方法によって、
何ひとつ捨てたり変換したりしようとする意志はなく、
あるのは 『忍耐』 です。


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by hiro-ito55 | 2011-05-13 18:46 | 美意識 | Comments(0)
芸術家というものは、
一瞬で消えてしまう何かを、永遠の何かに置き換えようと試みる人
であると思います。

例えば詩人であれば、その方法として用いるのは言葉であるし、
音楽家であれば音楽
画家であれば絵画であるといったように、

それぞれが直覚する最適の手段を用いて、
現実を永遠の何かに 『昇華』 しようとする。

彼らは何も自分の使役する方法を用いて、
自己主張を試みるのではない。

そうではなく、優れた芸術家というものは、
今それを、自分の直覚する最適な手段を用いて留めて置かなければ、
それは一瞬で消えてしまうのだという観念に囚われて、仕事をするのです。
 

例えば、花の魅力に魅せられて、花を描きつづけている画家がいる。

ある人から教わったことなのですが、
僕らの遥か前方に紫色の何かがあったとして、
その紫色の何かが何であるか分からない裡は、
僕らはそれを一所懸命に凝視し、興味を惹かれる、

そういうものであるが、

段々と近づいていくにつれ、
その何かが実はスミレの花であると判ったとき、
一瞬にして興味を無くしてしまい、
見るのを止めてしまうということは、よくある事実なのです。
 
しかし、芸術家というものは、
例えそれがスミレであると判ったところで、けして見るのを止めない。
 

何故、見るのを止めないのかといえば、 
いくら見ても見足りないから』 
なのです。
 

これは、僕らの領域で言えば、自閉症の子がひとつのものに拘る、
反復的常同的行動様式(こだわり)に似ているでしょうか。

ひとつのものに拘り続ける彼らの行為の動機は、
ものが自分の知覚に鋭く迫る
という感覚の受容である筈でしょう。

その感覚が、常人よりも少しだけ深いものであるが故に、
ものの方が自分を捕えて離さなくなる。

ものの方から捕えてくるのですから、受け手の自分は、
その行為の段階において、ただ 『反復的』 に成らざるを得ない。

このように、自分ではなく、
ものの方から迫ってくる知覚というものを想像すれば、
自閉症の子が示す 『拘り』 も、 
『僕ら人間の持つ知覚の方法である』 と気づくと思います。

ただ、自閉症の子は、
この知覚の在り方を、上手く日常に昇華させることができない。

そこに彼らの 『苦しみ』 はあります。

そして、芸術家の 『見足りない』 という 『渇き』 もまた、
たった一輪の花にさえ、
僕らの知覚に鋭く迫るものが存在するという 『Real』 を、
直覚しているということであり、
それを繰り返し見定めようとする

そういう行為なのです。

それは恐らく、ひどく苦しみを伴う行為なのでしょう。

古今優れた芸術家というものが、
とかく精神のバランスを崩しがちであることが、
その苦しみの大きさを物語っているように思われます。



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                     (ゴッホ:ひまわり)


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by hiro-ito55 | 2011-04-25 22:02 | 美意識 | Comments(0)
 今年の1月5日付のブログ記事 『美しい花』 の中で、小林秀雄の 
美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。』 
という言葉を紹介しましたが、
今回から少しだけ、 『美意識』 について考えるところを、述べていきたいと思います。


まず、ここで言う 『美意識』 とは、通常僕らが言う 『美意識』 のことであり、
なにか特別な感性を必要とするような意識のことではありません。 

例えば、美術館や映画館などでもいい、そういう所に出かけていって、
絵画やら彫刻やら陶芸といった芸術作品に触れたとします。

そこで、興味のあるものに出会えたとき、それを目撃したとき、
僕らはそれを 『美しい』 と感じる。

そのような精神の反応にしばし心を奪われる瞬間というものが、
僕らの人生には誰しも必ず訪れる経験です。


しかし、小林が言うように、
心が奪われる、その感慨に基づく経験というものを、
日常生活に持ち帰り、自分の生活感に密着させる者は本当に少ない。

美に触れて経験する現実も、確かに現実であるのですが、
その現実を日常の生活に溶け込むような意識へと照らし合わせていく、
そのような 『反省』 を、全く欠いているのです。

つまり、美術館や映画館などで出会った 『美という現実』 を、
何か日常と切り離したところに置いて体験することで、
現実感のない何か特別な経験として、
美意識は扱われがちであります。

これは、何も美術館や映画館といった
舞台装置を必要とする場合ばかりでもなく、

例えば、 『自然の美しさ』 に言葉を無くすときも、 
『まるで夢のような景色だ』 と思わず感嘆するのは、
僕らの尋常な心の動きでもある筈です。

少し考えてみれば、このような景色に出会ったとき、
これを 『非現実な姿』 として、一瞬の感動として閉じ込めておくというのは、
実は、極めて不自然なことでありはしないでしょうか。

というのも、 『まるで夢のよう』 という感嘆の言葉を述べるとき、
又は、それと似たような感慨に襲われるとき、

僕らは 『あたかも夢のようである』 という感慨を確かに持っているのであって、
そのことは 『夢ではない』 という、 
『現実』 を直視して現れる、心の動きというものに囚われていることを、
自ら認めている筈なのです。

それは何も特別な経験でも、夢の中での経験でもなく、
ごく尋常な現実として、美意識というものが存在していると、
僕らは自ら認めている何よりの証拠
でありはしないでしょうか。


言葉というものがあって、心があるのではない。

物に触れて心が動き、その心の動きを見定めようとして、
言葉というものが発生するのです。


そうであるならば、美しいものに触れて、 『心が動かされた』 という事実を、
正確に捉えようとして発せられた言葉、

或いは、捉えようとして心の動きに向けられる 『反省』 を、
現実の反省として捉えるという意識は、
大変重要な意味を持つことになるのではないでしょうか。





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by hiro-ito55 | 2011-04-18 21:26 | 美意識 | Comments(0)

 美しい花

美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。
                         ~小林秀雄~



これは、小林秀雄の有名な言葉です。

僕が、この言葉の持つ意味の深さに気付いたのは、
ごく最近のことです。

僕らは、何かを見たり聴いたりして、
それを 『これ、いいなぁ』 と感じるとき、

そしてその感動を誰かに伝えたいと思ったとき、 
『〇〇の良さ(美しさ)って、△△なところなんだぜ。すげーだろ?』 
というように表現することはよくあることです。

その良さ(美しさ)を伝えるために、
様々な角度から 『それ』 を分析してみたり、 
『それ』 の素晴らしさを 
『誰々もこう言って褒めてるんだよ、実は。』 と、

自分の感動が自分だけが感じるものではないことを
一所懸命に説明してみせたりして、
何とか 『それ』 の素晴らしさを伝えようとします。

それはそれでとても大切な感性ですので、良いのですが、
この場合の 『〇〇の良さ(美しさ)』 というのは、
その良さ(美しさ)を見つけた自分によって
色づけされた 『良さ(美しさ)』 です。

言ってしまえば、 『自分というものを通して』 見た結果の、 
『個人の好み』 に分類される得るものです。

 
最近(でもないか)の、 
『俺的に〇〇ってイケてると思うけど、ちょーカッケ―よなぁ、いや、マジで。』 
という表現も、
もちろんこの 『個人の好み』 に分類されるものです。


小林秀雄は、
この 『個人の好み』 によって感じ取られる美しさというものは、
全く美しさと呼べるようなものではない、
と言っているのです。


芸術家というものは、僕は 
『一瞬で消えてしまう何かを、永遠の何かに置き換える行為ができる人』 
であると思っています。

自分が経験した何かは、
別の何かに置き換えなければ、それはそのまま消えてしまい、
消えてしまえばもう、永遠にその姿を言い尽くすことはできない。

だから、それを今 
『形あるものとして、永遠に言い尽くせるような何か』 
に置き換えなければならない。

そのような強迫的な切迫感に追い立てられ、表現する人を、
芸術家と呼ぶのではないか
と思うのです。

詩人であれば、その置き換える 『何か』 は 『言葉』 ですし、
音楽家であれば 『音楽』 であり、
画家であれば 『絵画』 です。

『一瞬で消えてしまう何かを、永遠の何かに置き換え』 る作業を通して
作られた芸術作品というものは、 
『作者の自己主張や自我』を表現したケチなものではなくて、

受け手がその対象を、
そのままの形で素晴らしいと感じられるように
表現し尽くしたものである筈です。
 
それは受け手の 『好み』 によって
その価値を判断できるような、そんな 『ちっぽけな』 ものではなく、

むしろそのような 『安い』 目で見られることを
拒絶するようなものでしょう。

本当に素晴らしい作品の前には、
自分が説明するようなウンチク程度のものなど必要とされないし、
最早どうでもいいとさえ思わせられるような感覚、

それが 『美しい』 ということなのであり、
芸術作品のみならず 『花』 に対してもそれは同じだと、
小林秀雄は言いたいのではないでしょうか。


だから、 『美しい花がある。』 で、 
『花の美しさという様なものはない。』 
ということなのです。

きっと。

このように、美に対する意識を変えてみるだけでも、
日常のひとつひとつの物事でさえも、
豊かになるような気がしてきます。





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by hiro-ito55 | 2011-01-05 21:04 | 美意識 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー