カテゴリ:哲学・考え方( 83 )

感動するということ


歌や詩というものは、その姿や形にこそ人を惹きつける力がある。
普通は、言いたいことや訴えたいことを考えるのが難しいと考えやすいが、
言葉やメロディーの型を決めて、それを表現するほうが難しい。

人が訴えたいことは、
乱暴に言えば、喜怒哀楽の四つしかないと言ってしまってもいいと思う。

表したいことが喜びなのか怒りなのか、哀しみなのか楽しみなのか、
歌や詩の元となるそういった内的な動機は、驚くほど単純なものだ。

でも、その気持ちや情景を表現するための言葉やメロディーを考えたとき、
或いはそれを見つけようとしたとき、
それにはこの言葉しかない、或いはこのメロディーしかないという、
他に置き換えることのできない言葉や旋律の発見や構築が、歌や詩の形を決める。

そして、それを確かなものとすることに、詩人やアーティストの意識は注がれる。


歌や詩が、なぜ人の心を動かすのか。
それはそこに私心がないからだ。

自分が思うのはこれだ、自分が感じることはこうだと、
それをそのまま表現したものは、書いた人の自我にすぎない。

感動は、見る人聴く人と、表現する人との共有物だ。
具体的な気持ちや情景が、ありありと聞く人の心にも思い浮かぶことだ。
自我を相手に見せつけることではない。

だから、本当にいい詩や音楽は、見る人聴く人の心を落ち着かせるもので、
自然とそういう形や姿をとるものとなる。

誰も、自分は感動するぞと、心に決めて詩や音楽に感動するわけではない。
自分というものを忘れて夢中になるからこそ、心を突き動かされるのだ。

それを無心と呼ぶのだし、自己表現に囚われているというよりも、
それはむしろ自分という殻を突破された経験を、確かにしているということだ。
だから、感動は見る人聴く人と表現する人との、共有物と成り得ることができる。


感動するのは、なにも詩や音楽だけでなくてもいい。
リハビリを続けて、やっと少し歩けるようになった...。
自分の手で食べることができた...。
庭に出て外の空気を吸うことができた...。

その瞬間に立ち会えたとき、僕らはそれをともに喜ぶことができる。

そのとき僕らは、無心になっている。
相手もまた、無心になってその瞬間を迎えている。

それは、その姿や形を共有できている瞬間なのだと思う。
感動という共有物が、形を得た瞬間なのだと思う。

具体的な気持ちや情景が、ありありと互いの心にも思い浮かぶからこそ、
僕らは、何かを共有するということの掛けがえのなさを、知ることができる。


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by hiro-ito55 | 2017-02-07 21:48 | 哲学・考え方 | Comments(0)

これからも言葉を大事にしていきたい


今年は例年になく忙しく、また充実した年となりました。
忙しさの影響か、このブログを更新する機会も、随分と少なくなった年でもありました。

ブログは、自分の考えを自分で認識するためには、とても有意義なツールです。
考えや思いを言語化せず、その感情をそのまま日常の中で消費していくことは、
毎日を漠然と過ごすという生き方に繋がりかねません。

忙しさの中にも、自分の思いや感じたことに流されず、
人として、少しずつ成長していくためには、言語化という作業が重要なように思います。

僕には好きな、というか、非常にすっきりとくる言葉があります。
それは、「人はいつから大人になるのか」という問いに対する答えです。
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「自分の世界を、自分の言葉で言い表せたとき、人は大人になる。
 借り物の言葉をいくら使っても、何を話しているのかすら自分でも分からない。
 それに気付くことができたとき、人は自分の言葉を持とうとする。

 自分の言葉で語ろうとする本能によって、
 それぞれが、それぞれの生に対する答えを見つけようとする。」
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それは人間だけがなぜ、言葉というものを持ったのか、
という問いに対する、ひとつの答えだと僕は思います。

だからこそ、僕は自分の経験を大事にしていきたい。
自分の言葉は、自分の経験から生まれてくるものだから。


来年は、もう少し自分の考えを整理して言語化できるよう、
今以上に自分を見つめ直すことができる、そんな年にしていきたいと思います。

今年も一年間、ありがとうございました。
来年は、皆様にとって良い一年でありますように。


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by hiro-ito55 | 2016-12-31 17:47 | 哲学・考え方 | Comments(0)

平和


人は、善悪の判断によって悪魔になるのではない。
思想の違いによって悪魔になる。

自分を律する判断ではなく、
思想の相違によって、平気で人を殺すことのできる悪魔になる。

臆病な心は人を支配したがるものだ。
そして、それが成されなかったとき、
その衰弱した精神は、最も残酷な姿を人前に曝け出す。

自分と他人との違いを認めることのできない、
臆病な心を社会に向かって使役する人間は、もう人間とは呼ばない。
思想の家畜だ。

主義主張を掲げることよりも、人が人であるために大事なことがあるとすれば、
それは、生きることへの敬虔を忘れずに持つことに違いない。

誰にとっても、生きることが経験することと同義であるように、
自分の直接経験をとことん信じることで、
他人もまた、同じ道を生きているのだと気づくことができるのだと思う。

そこに目を向けた人間は、
社会化された主義主張を掲げる人間よりも、よほど人間らしく生きることができる。

僕らが生きるということの根源には、
集団化も一般化も合理化も必要のない次元で、命への敬虔が確立していなければならない。

本当の平和が成るというのは、自分の経験を純化していくことに心血を注いだ、
そういう人たちの総意が、ある形になることなのだと思う。


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by hiro-ito55 | 2016-07-15 20:31 | 哲学・考え方 | Comments(0)

あけまして、おめでとうございます。


石の上にも三年という言葉があります。
それまでのキャリアに関係なく、新しいフィールドで仕事を始める場合、どんなことでも、
最初の数年間は、自分自身を見つめなければならない期間になるのだと思います。

仕事の種類や場を変えることは、
生き方を変えると言ってもいいぐらいの変化を私生活にも齎しますし、
それに対応するためには、相当なエネルギーを消費します。

僕の場合、訪問リハという新たなフィールドに身を移し、来月で丸三年になります。
対応することを目標に力を注いできた期間は、終わりになります。

しかし個人的に、この三年間で他者への共感と受け取るエネルギーを、
上手く形にすることができたかどうか、あまり自信がないというのが正直な感想です。

ですから、今年はその課題を自分自信に残しつつ、そこから作り変える力の可能性と、
それを感じられる年にしていきたいと思っています。 

               
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また、昨年で既に終わったこともありました。
毎週、休日を利用して日本文化に関する特殊講義を受講してきましたが、
様々な都合により、六年間に渡る学びに区切りを付けました。

ただ、哲学のフィールドに訪問リハというカテゴリーがなかったため、
これを自分の仕事に置き換えて形にしていくためには、どうしたらいいのか、
学びの時間は、そんなことを考え続けていた時間でもありました。

今は六年間の講義記録ノートを、
時間を見つけては、少しずつ纏める作業に取り掛かっています。

進めるうちに、学んでいる最中には気付けなかったことが、
こうして後から再確認することによって、そこから新たな意味を持つためには、
自分の生活と照らし合わす作業が必要だ、ということを実感しています。

哲学というと、どうしても抽象的な問いを立てるイメージを持ちがちですが、
幸いにも僕が学ばせて頂いたその内容は、とても具体的なものだったため、
仕事と私生活という垣根を越えて、日ごろ出合う出来事に、どれだけ自分の目を向けられているかという、
人生の質に対する問いの作業にもなっているからです。

こういった作業を続けることも、僕の個人的な課題なのですが、
まさに手探り状態で始めている作業のため、これに関しては一年と言わず、
これからも時間をかけて、じっくりと取り組んでいくつもりでいます。


昨年は、他者からの共感や共有から(もちろん、このブログを通じても)エネルギーを頂けた年でした。
今年はそれらを形にして、お返しできる年にしていきたいと思っています。

今年が皆様にとって良い一年となりますように。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。



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by hiro-ito55 | 2016-01-03 16:02 | 哲学・考え方 | Comments(2)

時間の流れは早くとも....。


今年もあっという間に一年が過ぎてしまいました。
長くて短いような一年のうちにも、それなりに多くの出来事がありましたが、
年を追う毎に、一月、一週間がとても早く過ぎていくように感じます。

人が感じる時間の心理的な長さは、年齢に反比例する、
これを、ジャネーの法則と言うのだそうです。

たとえば、40歳の人にとって一年は人生の1/40に相当し、
10歳の人にとっては1/10の長さに相当するわけで、10歳の頃よりも4倍早く感じるようになる。

つまり、X軸に年齢を、Y軸に感じる時間の長さを取れば、
XとYの間には、反比例する函数が成り立つというものです。

もちろん、人が直に感じる時間というものは、もっと複雑な過程を踏むものだと思うので、
単純な積分函数で説明できるものではないと思いますが、実感から照らし合わせてみると、
ある程度納得できる考え方のように感じます。


僕自身、今の仕事(訪問リハビリ)に携わって、来年の二月で丸三年になりますが、
一日、一週間と、感じる時間の長さは様々でした。

その中で、少しでも意味ある時間を過ごそうと思ったら、
何よりも大事なことは、自分で自分を教育できる能力を身に着けることだと思います。

たとえば、他人がやることを自分のことのように捉え、自分だったらどうするのかを考えられる人は、
自分の殻から抜け出し、成長できる人だと思います。

また、選ばれた課題や条件の中でも、常に最善を尽くせるかどうかでも、
その後の考え方や生き方が変ってきます。

そのためには、
具体的に今の自分には何ができて、何ができないのかをしっかりと認識する、
そういう物差しを、自分の中で作り上げていられることが大事だと思います。

そして自分自身に対し、そういう眼差しを向けられるということの意味は、
正しいか正しくないかという価値観を持つことよりも、
人が成長していくための、大事な戦略となっていくように感じます。

特に、僕のようなリハ職が一人しかいない職場だと、
セルフプロデュースできる能力の如何が、その後の仕事の質の分水嶺になってきます。

職種が違う、考え方も違う、
そして、それまで何年もやってきた自分の状態を知らない職場にいること、
それをハンデと捉えるか、チャンスと捉えるか....。

感じる時間の長短に関わらず、今年も一年、色々なことを考えさせられました。


(来年も、皆さまにとって良い一年でありますように。)


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by hiro-ito55 | 2015-12-30 20:59 | 哲学・考え方 | Comments(2)

コトバ


人は言葉によって考えている。
自分の言葉で語る人は、よく考ることのできる人だと思う。
そういう人の言葉は、借り物の言葉ではないから、自分が確信したことしか語らない。

心が納得すると、人は自然と自分の言葉で語り出すものだ。 
自分自身を、本当に納得させられるのは主観ではない。
心だと思う。

主観はいくらでも置き換えることができるけど、納得する心というものはひとつだ。
この経験にはこの言葉しかない、そう思えることは、心が納得したということ。
そこから言葉が生まれる。

言葉によって明瞭化される世界とは、自律する自分自身の経験のこと。
それが、納得した心を基に言葉を乗せて伝わることで、誰かが耳を傾ける。
それを僕らは、共感と呼ぶのだろう。

言葉を大事にする人は、経験を大事にできる人だ。
そこで自分の言葉を、新たに発明しようとしているのではない。

自分のことも、相手のことも、
できうる限りの、直接の経験の明瞭化を伝えようとする行為を、
ただ大事にしている。

言葉とは本来、そういう行為の内で生きられるはずなのに、
隙間を埋めるように、まるで、空白ができることを怖がるかのようにただ使われ、
すぐに消えてしまうような、そんな言葉が多いのは、なぜだろう。


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by hiro-ito55 | 2015-10-28 22:23 | 哲学・考え方 | Comments(0)

軸のこと


一口に立つ、座る、歩くと言っても、その種類は実に様々で、
この本に書かれていることは、所作や姿勢、立ち居振る舞いについての技法、
つまり、身体化された佇まいについての驚くべき洞察だ。

たたずまいの美学 - 日本人の身体技法 (中公文庫)

矢田部 英正 / 中央公論新社



日々行っている生活動作それぞれの場面で、
それに相応しい身体の使い方を持っているということは、
それは身体の文化と呼んでもいいものだと思う。

この本を読んで分かったことは、動作や姿勢の種類の多さではない。
動作し、姿勢を保つときには、僕らの身体には支点となるいくつもの軸が存在し、
そのバランスの上で、それらが成り立っているという事実だ。

大小さまざまな軸のうち、大きな軸はつまり、重心と呼ばれるものだが、
その重心を一定に保つ(つまり姿勢を保つ)ために、
四肢・体幹・頸部に、支点となる小さな軸がいくつも存在している。

その、それぞれの軸の中心点はどこかと問えば、
それは、体中に配置された骨や関節のことを指すのではないか。

事実、筋肉は骨に付着して身体を支え動かしているのだから、
軸は筋肉ではなく、骨や関節の中心点にあると考える方が自然だと思う。

軸(つまり骨や関節のこと)を力の中心にして、僕らは動作や姿勢を保つ。

そのために筋肉が働くのだと考えれば、
バランスのよい動作や姿勢を獲得するには、筋肉を意識し鍛えるというよりも、
骨の動きを意識し身体化すると考える方が、より根源的な捉え方だと思う。


体軸がブレないというのは、身体のバランスがしっかりしているということだが、
それはけっして筋肉隆々な身体を意味しないというのは、下の動画でも明らかだと思う。 



抜刀する前後の座位姿勢は、恐らく片踵坐と呼ばれるものの一種だと思うが、
この一連の動作では、四肢、体幹、剣先が、全くブレていないのがよく分かる。

日常、ここまで身体を修練する必要はないけれど、
姿勢や動作を安定させるために意識することは、筋肉を鍛えることではなく、
骨や関節、つまり体軸をどの位置に置くかということが重要で、

その意識を持つか持たないかで、
楽な姿勢、或いは楽な動作の獲得に、大きな影響を与えるのではないかと感じている。


「たたずまいの美学」。
自然な動作や姿勢には、体軸の意識から始まる身体化があり、
骨や関節の使い方に、そのキーとなるメソッドがある。

これは僕の読後の感想だが、
良著なので、僕は機会があればぜひ読んでほしい一冊だと思う。










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by hiro-ito55 | 2015-10-14 19:31 | 哲学・考え方 | Comments(0)

今度、絵を見に行ってみようと思う


知覚すること。これは経験の端緒、つまり認識の始まりのことを指す。
でも、この知覚するということについて、僕らは普段あまり深く考える機会がない。

例えば、美術館やギャラリーで絵画を鑑賞する場合、
その絵というものは、自分が見えている姿をしてそこにあるものだと、
そう信じながら僕らは見ている。

けれど、画家に見えている黄色や赤といった色の豊かさに比べれば、
僕らが知覚できるその色の種類や奥行きは、きっとうんと少なく浅いものだろう。

何故なら僕らは芸術家と違って、
毎日が、生物体として生きていくことを強いられている。

ほとんどそのために、あらゆるものを知覚し、
それに基づいて生きていると言ってもいいほどだと思う。

例えば、道端に落ちている石ころはただの石ころ。
そう済まして通り過ぎたとしても、僕らの生活には何の支障もない。

道端に落ちている石がどんな石であるなどと、
その個別性を知ることは、生きていく上では必要のないものだからだ。

逆に、石ころが落ちている度に立ち止まり、
それについていちいち検討していたら、僕らの生活は成り立たない。

必要のないものを意識しないことは、
生物体として生きていく上で、けして悪いことではないし、
むしろ日常生活を送る上では、ごく自然なことに違いない。

でも、必要で判断される知覚が、知覚の全てではないということも、
忘れてはならないことだと思う。
そして、そのことに気付かせてくれるのが、きっと芸術というものだと思う。

前にも書いたことがあるけれど、
例えば、音楽について知識をいっぱい持っている人よりも、
たった一曲でも感動できる人が、その音楽の何たるかを知っているものだと思っている。

しかしそれでもそれは、芸術家の知覚からはほど遠い経験であるかもしれない。
けれど、作品を前にして、ああだこうだとすぐに語り出すよりは、
よほど深い理解が得られているように思う。

やはり、絵や音楽や詩といったものは、
まずはじっと見たり聞いたりして、よくよく感じるものなのだ。

芸術作品は、それぞれに固有なリズムを持っているのだから、
そのリズムを感じるように見たり聞いたりすることで、
僕らの知覚もまた、少しだけ、豊かなものになるのだと思う。

先日、招待券を頂いたので、今度久しぶりに美術館まで足を運ぼうと思っている。


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by hiro-ito55 | 2015-09-08 20:46 | 哲学・考え方 | Comments(2)

道徳や倫理の意識は、情が働いて発露する


純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判 ―――。

これらは、カントの三大批判と呼ばれるもので、
理性というものは、どこまでの守備範囲を持っているかについて書かれている。

カント以前、哲学の問題と形而上学上の問題を扱うことは同じことであったが、
カント以降、例えば神の存在や魂の不死、世界の始まりや終わりについて考えること、
それらは全て、理性の範囲外で扱われる問題とされた。

現代では、理性には「知情意」の三つの側面があり、
道徳や倫理については「意」の働きかけで知るもの、という捉え方が一般的になっている。
また、罪の意識がなければ、道徳や倫理は働かないとする考え方もある。


僕らは、物事について考えるとき、その時代の通念というものに囚われやすい。
そして倫理や道徳について考えるときも、それは同様だと思う。

しかし、
道徳や倫理とは、根本的に「情」が働いて発露するものであろうと思っているし、
清らかさや純粋性、感謝という姿勢を元に明らかになってくるものだと、僕は思う。


例えば、「仕事をして働く」ということ。
欧米人の多くは、仕事を終えたらバカンスを最大限に楽しむそうだが、
それというのも、労働とは神に対する贖罪だという宗教的意識が根底にあるからで、
バカンスはその義務からの解放という、神から与えられた当然の権利の行使に当たる、
という話を聞いたことがある。

一方、贖罪や義務ではなく、労働そのものに価値があると捉える人もいる。
そのような考えの下では、「働くこと」は「生きること」とほぼ同義となり、
労働は、生活のための単なる手段ではなくなる。

例えば、職人さん。
日本で職人さんたちが尊敬されるのは(少なくとも僕はそう思っている)、
与えられた賃金に対して、仕事をしているのではなく、
自分の納得のいくところまで、仕事をしているからなのだと思う。

優れた職人さんが、自分の仕事に手抜きをしないのは、
もし手抜きをすれば、それは自分自身に対する偽りになると捉えるからだ。

手抜きを恥と感じるのは、仕事への「美意識」を持っているからで、
職人さんに限らず、他の分野でもそういう姿勢で仕事をされる人は多いと思う。


過去、ルース・ベネディクトが「菊と刀」という政治論文を発表して以来、
「罪の文化」を標榜する欧米社会に対して、日本は「恥の文化」だというふうに、
どちらかというと、日本の「恥」という価値観は否定的に捉えられてきた。

けれど、
日本人は他人が見ていなければ恥を感じないとする彼女の考え方に、僕は与しない。

なぜなら、職人さんの例のように、
仕事に対して手抜きをすることは、まず何よりも自分自身を偽ることであって、
そういう姿が、自分自身の中に浮かぶからこそ、それを恥と捉える。
そういう倫理的意識が、僕らの感じる恥の正体だと思うからだ。


また、「清浄正直」という言葉があるように、
偽りのない清らかな心を手本とするその対極に、恥という意識もある。

恥と感ずることと清浄正直という在り方は、清き明き直き姿勢であり、
自分を正すことに結びついていくその姿勢は、
知や意の働きよりも強く人に作用して発露する、情(心)の姿を拠り所としている。


罪の意識など持たなくとも、
自分のすることには偽りなく、誠実でありたいと願うこと、

そういう気持ちを持って、物や人に接していける人は、
下手な理を立てる人よりも、僕は、立派な倫理や道徳の持ち主だと思っている。


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by hiro-ito55 | 2015-08-13 21:29 | 哲学・考え方 | Comments(0)

心や精神の独立性


たとえばこの世界を、力学的なひとつの大きなメカニズムと捉える傾向があるとしよう。
そこに方法の有効性が加われば、僕らがその傾向から離れるのは難しくなる。

人に対しても同じだ。
心や精神は独立して存在せず、脳という物質の中に全てがあるという一元論は、
世界を、力学的なひとつの大きなメカニズムと捉えるためには、非常に都合がいい。

科学が、世界の機械論的構造への信仰から生まれて以来、
心や精神というものは幻想であり、脳という物質の反映が、そのまま精神の世界である。

この傾向に抗うのは、とても困難だ。
脳という物質に対する、心や精神のアリバイを見つけるのは簡単ではない。

だから僕は、心や精神そのものについて分析することを止めて、
その代わり、画家や詩人の、芸術家たちの経験について考えてみた。


画家が、或いは詩人が、深い感動を絵や言葉にする。
彼らは絵や詩によって世界を自覚し、それをある形にして見定めようとする。

それは、目の前の対象に包まれ、世界の姿が顕わになるという、
私と相手が、ひとつの出会いを通して統一される経験だ。

もし、経験する自己という完璧なメカニズムが、最初にまずあるのだと考えれば、
個人の経験は全て強固な、主観的、自己中心的、内在的なものだと見ることもできる。

しかしそれなら、僕らが不意を突かれて何かに感動するような、
或いは、芸術家たちを突き動かす、自己の殻が破られるような経験を、
どう説明できるというのだろうか。

感動という心の働きは、主観的でも自己中心的でも内在的なものでもない。
むしろそれらを全部否定するような経験なのだから。

心や精神があるからこそ、僕らは人間なのだ。
我が心、我が精神ではない。
ときに、自分では如何ともしがたいからこそ、心や精神と呼べるのだ。

たとえば、誰かの笑顔に触れることができた。誰かの涙に言葉を失った。
ただそれを「嬉しい」「悲しい」という印象で終わらせるのではなく、
それを通して、そこから形のある何かが始まるならば、

僕らは、画家や詩人が、絵や詩というもので見定めようとしてきた行為と、
根源的な部分で、とても近い経験をしていくように思う。


僕らは、どんなことにもとかく心が動かないことを、精神の理想としがちだが、
しかし、ものに触れれば必ず動くのが、心や精神の姿であればこそ、
それが、僕らの尋常でいちばんマトモな、経験の形であると思う。

それを心に留め置き、
経験以前にある、ひとつの目的意識に制せられるところから解放されるなら、
ものに触れれば心が動かされる在り方に、僕らは呼び戻されるだろう。

人が生きるということが、物事を経験しながら生きるということであれば、
その人の気質に応じて、ものの姿はあるのだから。


だから、心や精神を説明するため、動かぬ原理を先に立てるより、
その都度の経験に柔軟に応じるあり方、それと向き合う姿勢を持つことが、
心を識るための尋常な智恵であると思う。

心や精神は、力学的なひとつのメカニズムの内に閉じ込められてはいない。
たったひとつの出来事にすら、意に反してふいに感動するように、僕らの心はできている。
そういった経験のうちで、僕らの心は生きている。

確かに、脳と心との間には密接な関係があるのだろう。
しかし、我が意に反して動く心とは、精神が独立した自立性を持っている証でもある。

心は、自分自身を見つめるようにも働くし、
外界と応接する橋渡しとしても働くことがある。

そういった僕らの心や精神とは、いったい何ものであるのか、
知りたければ、個々の経験の豊かさや多様なことを認め、
それにその都度応対している自分の存在に気付くこと、僕はそれで充分だと思う。


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by hiro-ito55 | 2015-08-04 20:31 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー
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