感動するということ


歌や詩というものは、その姿や形にこそ人を惹きつける力がある。
普通は、言いたいことや訴えたいことを考えるのが難しいと考えやすいが、
言葉やメロディーの型を決めて、それを表現するほうが難しい。

人が訴えたいことは、
乱暴に言えば、喜怒哀楽の四つしかないと言ってしまってもいいと思う。

表したいことが喜びなのか怒りなのか、哀しみなのか楽しみなのか、
歌や詩の元となるそういった内的な動機は、驚くほど単純なものだ。

でも、その気持ちや情景を表現するための言葉やメロディーを考えたとき、
或いはそれを見つけようとしたとき、
それにはこの言葉しかない、或いはこのメロディーしかないという、
他に置き換えることのできない言葉や旋律の発見や構築が、歌や詩の形を決める。

そして、それを確かなものとすることに、詩人やアーティストの意識は注がれる。


歌や詩が、なぜ人の心を動かすのか。
それはそこに私心がないからだ。

自分が思うのはこれだ、自分が感じることはこうだと、
それをそのまま表現したものは、書いた人の自我にすぎない。

感動は、見る人聴く人と、表現する人との共有物だ。
具体的な気持ちや情景が、ありありと聞く人の心にも思い浮かぶことだ。
自我を相手に見せつけることではない。

だから、本当にいい詩や音楽は、見る人聴く人の心を落ち着かせるもので、
自然とそういう形や姿をとるものとなる。

誰も、自分は感動するぞと、心に決めて詩や音楽に感動するわけではない。
自分というものを忘れて夢中になるからこそ、心を突き動かされるのだ。

それを無心と呼ぶのだし、自己表現に囚われているというよりも、
それはむしろ自分という殻を突破された経験を、確かにしているということだ。
だから、感動は見る人聴く人と表現する人との、共有物と成り得ることができる。


感動するのは、なにも詩や音楽だけでなくてもいい。
リハビリを続けて、やっと少し歩けるようになった...。
自分の手で食べることができた...。
庭に出て外の空気を吸うことができた...。

その瞬間に立ち会えたとき、僕らはそれをともに喜ぶことができる。

そのとき僕らは、無心になっている。
相手もまた、無心になってその瞬間を迎えている。

それは、その姿や形を共有できている瞬間なのだと思う。
感動という共有物が、形を得た瞬間なのだと思う。

具体的な気持ちや情景が、ありありと互いの心にも思い浮かぶからこそ、
僕らは、何かを共有するということの掛けがえのなさを、知ることができる。


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by hiro-ito55 | 2017-02-07 21:48 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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