もし、逆の立場だったら...。


想像してみてほしい。
もし僕や私の生活が、ベッドの上で送らなければいけない毎日だとしたなら。

看護師や医師、ケアマネやヘルパーさん、そして大切な家族や友人。
色んな人たちが毎日、自分の傍までやってきて、
親しげな言葉で話しかけたり、汚れた身体を綺麗に拭いてくれたり、
優しく手足をマッサージしてくれたりする。

そうやっていろんな人たちが、いつも自分の許に来てくれる。
それらはみんな、僕や私にとってとても心地よいものかもしれない。

だから、「もう少し話をしていたい」「一緒にお出かけして買い物をしてみたい」、
そう望んでみても、実際に返ってくる答えは「また来るからね」、
「必要なものは買ってきてあげるよ」、という優しい言葉だったりする。

何かがいつも、少しだけ手の届かない所にあるのに、
それでも毎日が、上手く廻っているかのように見えてしまうのは、
或いは、そんな優しい言葉のせいだったりする。


だから僕はいつも思っている。
もし、自分が誰かの支援を必要とし、不自由な自分とも折り合いをつけていかなければ、
生きていけないのだとしたら....。

確かに、支援があれば全てが受身でも、成り立ってしまうかのように見える、
そんな便利な毎日が与えられたとしても、

全てが自分からではなく、いつも向こう側からやってくるのなら、
それは果たして自分の生活だと、胸を張って言えるのだろうかと、
想像せずにはいられない。

もしそうでないのなら、見せかけの調和ではなく、
精一杯ワガママになることに、僕は何のためらいもないだろう。


本当の支援は、
誰かではなく、自分から世界に働きかけてみたいという、
人の意思を支えるためにあるのだと思う。

人の生活が、誰かに決められた便利で都合のいいモノのように扱われることを、
本質的に拒絶するところに、具体的な支援の形は現れる。

主体性を守るというのは、そういうことではないだろうか。

だから、限られた時間、限られた体力、限られた人生。
それらを自分なりに尽くしたとき、もしその選択が間違っていたとしても、
自分で、生活の今や未来のことを選択していければ、
人はきっと、後悔はしないだろうと思っている。

その人らしく生活することが、一人の人間として生きることと同義ならば、
支援は、ワガママな、人の意思を支えるためにあるのであって、
それを汲み取ろうとする支援者の、想像力と実行を必要としているのではないか。

ワタシのことは、ワタシ自身で決めてみたい。
それが時に、どれだけ切実な思いに基づいているのかということは、
相手の身になって考えようとしなければ、けっして分からないものだと思う。


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by hiro-ito55 | 2015-10-01 21:07 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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