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描き始める人


あれほど大好きだった絵を描かなくなってから、もうどれくらいだろう。
春の鳥、夏の山、庭先に咲く名も無い花....、

下手でもなんでも、何度も飽きずに描いてきた、
そんな景色の欠片があった。

完成までにはいつも時間が掛かったけど、
出来上がると、それを一緒に見てくれる人がいた。

よっこらしょと画材を背負って出かけていく自分に向かって、
いってらっしゃいと優しく声を掛けてくれる人がいた。

ときには一緒に探しに出掛けて、じっと描き上がるのを待っていてくれた。

だからあんなに夢中に、カンバスを景色で染めていくことができた。
いつまでも、傍で見てくれる人がいたから....。


訃報を聞いたのは、入院先のベッドの中だった。
ショッピングセンターの駐車場で、倒れているところを発見されたという。
帰っても、もう誰もいないんだなと、そのときは不思議と素直に受け入れられた。

そして、ほんとうの気持ちに気付いたのは、退院した日のこと。
夜ベッドに入り、物音ひとつしない自宅がこんなにも辛いものだと、初めて分かった。

今はもう、絵の具もパレットも画板も、
そして、書き上げた何十枚の思い出も、みんな倉庫の中に眠っている。

絵が嫌いになったわけではない。
描いても、見てくれる人など誰もいないことに、描く意味などない。
それに、歩くことも満足にできないこの身体では、どうにもならないと感じたからだ。


10年ほど前に描いた白い花の絵。
それを膝の上に置き、彼はゆっくりと話してくれた。

だからそのとき僕は、もう一度絵を描きませんかと言ってみた。
歩けないなら、昔撮ってきた写真を画材にすればいいと言ってみた。

彼は笑いながら断った。
自信がなかったからだろうか。それとも冗談だと思ったのだろうか。

見てくれる人ならいる。それも全国に。
その目標を示し、週一回の訪問日に何度も話してみた。

彼はずっと笑って聞いていたけれど、
ベッドサイドに真っ白な色紙と、絵の具が置かれているのに気付いたのは、
彼が話をしてくれてから、数か月の後のことだった。

しばらくはそのことに触れずにいたけれど、
「ありがとうな」と口にする彼の表情が、穏やかになっていく度に、
僕はなんだか、安心したような気持ちにさせられた。


そしてそれから数か月。先週、一枚の絵が完成した。
桜の季節に染まった錦帯橋。
聞けば雑誌の写真を切り抜いて、それを画材にしたとのこと。

「まだまだだけどなぁ」
照れながら見せる彼の笑顔に、僕は胸がいっぱいになった。

初めは同情の気持ちだったかもしれない。
でも、必要のない同情はただの差別にしかならない。

ただ話を聞くだけではなく、ただ一緒に立ち止まるだけでなく、
気持ちを形にするために、できることがあるなら一緒に探していきたい。

そんな僕の気持ちなど、恐らく伝わってはいないけれど、
彼は今週から、二枚目の絵を描き始めている。
題材は、昔旅行先で撮ってきた川の写真。

妻はもういない。
完成まで一緒に画材を見つめる人は、もう傍にはいない。

でも、それが分かって尚、いちばん大事なものが遠くへ行ってしまわないように、
彼は再び描き始めたのかもしれい。


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Commented at 2015-02-08 20:37 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by hiro-ito55 at 2015-02-13 19:08
ぬか床さん、ありがとうございます(^・^)。
絵を描き始めたこともそうですが、この患者さんが「心から笑えるようになった」と看護師に話したことが、僕にとっては何よりも嬉しいことでした。
人同士、関わる以上はそういう思いを作り出せるものを大事にしたいですね(^_^)。
Commented at 2015-02-14 22:01 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by hiro-ito55 | 2015-02-04 00:13 | 作業療法 | Comments(3)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


by いとちゅー