詩人であり職人である者


その人の喜びや悲しみ。
抑えることのできない怒りや、泣き出してしまいそうな不安。

他人のその感情を、自分の心に再現する、
そういうやり方で、他人の心を理解することはできない。

ただ、他人である僕らに出来ることは、
相手の身になって考える、ということだけだと思う。

相手の身になって考えるというのは、
悲しいことをただ悲しいと感じる。嬉しいことをただ嬉しいと感じる。
そういう素直な心に、自分も従うということだ。

その人の事実や、他人との関係性をいくら調べても、
分かるのはその人の輪郭であって、本当の姿は別のところにあると思う。

だから、その人について調べることと、その人を知ること、
これは明らかに区別して、考えなければいけないことだと思う。


僕ら作業療法士は、作業や活動を通じて、患者さんと場と時間を共有する。
共有するためには、そこから感じとる心を磨いていかなくちゃいけない。

患者さんと共に扱う作業や活動の全ては、帰するところ、共感する心に行き着く。
潜在する価値や可能性は、その場所から引き出されている。

僕らが出来ることは、それを形にするための方法を、ともに探していくことであり、
患者さんと共に見出した価値あるものを支援するため、専門性がそこで発揮される。

座ること、立つこと、歩くこと。
その動作や活動ができるようになったことで、
そこから広がる可能性を形にし、支援していくため、僕らの専門性は発揮される。

類似性や合理性に目を向けるだけなら、科学的、一義的に知ることで充分かもしれない。
けれど、僕らの仕事はそれだけでは終わらない。

獲得する動作や姿勢も、患者さんごとに充分に個性的だが、
そこから広がる可能性は、それよりもっと個性的な形をしている。

だから、患者さんの有する価値や能力は、一義的に解釈しても意味がない。
理解し支援する側には、それらを素直に受け取る心、感受性がまず必要とされる。



他人の感情や思いを、自分の心に正確に再現する、
そういうやり方で他人を理解することは、僕らにはできない。

でも、
悲しいことをただ悲しいと感じるのは、僕らの感受性。
嬉しいことをただ嬉しいと感じるのも、僕らの感受性。

僕ら作業療法士は、その大事な基体を育みながら、専門性を展開していく、
そういう、詩人であり職人である者たちだと思う。


詩人であるということは、空想的であるということではない。
見るもの、感じるものの姿を損なわず、そのままの形で見定めようとすることだ。

職人であるということは、ルーチンに物を作り上げるということではない。
材料の特性を引き出すことに心血を注ぎ、それを活かすことに注意を払うことだ。

現に、詩人や職人は対象とそうやって向き合っている。
そうである限り、言葉や材質の制限は、彼らの自由を奪うものではない。

それらがむしろ、
彼らと対象との間にある、仕事の自由を保証しているように見えるのも、
個性というものの扱いに、彼らが熟知しているからだ。


患者さんの能力や価値を引き出すために必要なのは、相手を知るということ。
そして、それを支援するために必要なのは、意味を形に変えていく構想力。

僕ら作業療法士も、同じではないか。


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Commented by あきこ at 2016-08-19 18:41 x
作業療法士は詩人であり職人、てほんとにその通りだなって思います。
Commented by hiro-ito55 at 2016-08-19 19:36
あきこさん、コメントありがとうございます(^-^)。
僕がこの仕事をしていて本当に嬉しいのは、患者さん自身の状態が悪くなったときでも、「それでも来てほしい」とご本人やご家族から言って頂けることです。

専門家としての技術と、ここに書いたような感受性。
そのどちらを欠いても、作業療法士として充分とは言えないでしょう。
だから、僕らはそのどちらも磨いていけるような経験を積み重ねていくべきだと思うし、そうすればより多くの方に「それでも来てほしい」と言って頂けるようになるのだ思っています。

自分はまだまだ不充分ですが、共感して下さったこと、嬉しく思います。
ありがとうございます(^-^)。
by hiro-ito55 | 2014-12-17 23:12 | 作業療法 | Comments(2)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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