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望まない孤独


「ワタシの体に、誰も触らないでほしい。」
看護師に涙を浮かべてポツリと呟いた、その人の痛みには理由がある。

自分を支援してくれるはずの人たち。
その人たちを信じられなくなることが、どれだけその人の孤独を深めてしまうか、
僕には、それを想像することでしか、痛みを分かってあげられないでいる。


通院や入院の必要性。
在宅でも受けられる医療とそうでないもの。
支援が必要なことと自分でできること。
そして、体調の変化とリスク管理の重要性。

在宅で生活するために、それらについて現実的な理解を成し、
そこから、自分らしく生活していくためにどうしていったらいいのか....。

生活する者として在り続けたい、
そう願う気持ちとのバランスを図りながら、その人は自分なりに考え、
具体的に自己責任で決められることと、支援者に委ねた方がいいことを区別して、
今までも、そしてこれからも、主体的に自分の生活と関わろうとしてきた。

日常動作全般に介助を必要としながらも、
自分の意思で判断する能力は、しっかりと持っている。

だから、不自由になってしまった身体でも、
自分のひとつひとつと、懸命に向き合っていくことはできる。

そう思って生活してきた。

だから、医師、看護師、セラピスト、ケアマネ、ヘルパー....、
自分を支援してくれる人たち。
みんな、自分の生活や意思決定が成り立つために、居てくれるのだと信じていた。

でも.....、
いくつかの重要な判断を下すために、優先されたのは自分の意思ではなかった。

その人に突き付けられた現実は、
支援者側の都合によって、生活が覆されていくという事実。

その現実を目の当たりにする度に、
自分の意思が踏みにじられていくことを知った。

そしてそれが、支援者側の連携によって成されていると知ったとき、
その人は深く傷ついた。


「ワタシの体に、誰も触らないでほしい。」.....

看護師を前に呟いたその言葉は、
自分の孤独を認める、深い悲しみへと変わった。


だからリハビリの間、
笑顔で話すその人を見ながら、僕はずっと考えていた。

僕らはときに、対象者を望まない孤独へと追いやる、
その現実を作り出す力を、持っているのだということを。


生活全般に介助が必要な方の場合、
ADL全てに、リスク管理という考え方が及ぶことだってある。

どんなに綺麗ごとを並べても、
医療者や介助者は、患者さんに対していつでも優位な立場に置かれているものだ。
僕らが望むと望まないとに関わらず、その力関係は存在しているし、
それは、否定することのできない現実だと思う。

だから、支援を進める上で、その力学的優位性を解消できないならば、
支援者の側から、相手に近づいていかなくてはいけないと思う。

支援が、本当に相手の自律を後押しするものとして働いているのかどうか、
そういった自省は、相手の身になって考えられる人でなければできないだろう。

現実に、支援者に優位な力関係が存在しているとしても、
そういう人が支援者側にいれば、患者さんはきっと孤独にはならないと思う。



僕らは大きな過ちを犯した。
リスク管理が、誰にとってのリスクなのかを履き違えてきた。
必要性が、誰にとっての必要性なのかを見誤ってきた。
大丈夫という言葉が、誰の思う大丈夫なのかを深く考えてこなかった。

それらは全て、
支援者側のリスクや必要性であり、大丈夫であったのではなかったのかと。

今、その人が深く傷ついているのは、僕らがそれに無自覚であったがために、
支援が、生活操作の実践の場へと変わってしまったからだ。


これからも、
訪問すれば、そこに屈託のない笑顔が待っているだろう。

でも、「あなたの気持ち分かるよ」なんて、
そんなふうに声を掛けることは、僕には出来なかった。

今そんな言葉は必要のないものだし、相手の心を深く傷つける。
ただそれだけでしかない。

作り出した孤独。
それをどう癒していくことができるか。僕は、そんなことをずっと考えていた....。


望まない孤独_b0197735_17163016.jpg








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by hiro-ito55 | 2014-12-09 17:21 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


by いとちゅー