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気付きに関する考え方


僕らのような専門職にとって、自分の専門性を保っていくことは重要ですが、
経験の中での気付きというものを考えたとき、
その専門性という枠を一度取っ払ってしまう勇気も、
時には僕らに必要なことであるのかもしれません。

最近、時にイノベーションやブレイクスルーを生み出す気付きに関して、
とても示唆に富んだヒントを頂く機会がありました。
そこで、備忘のためにもここに纏めておくことにします。


一般的に、僕らのようにあるものの専門家であるほど、
その専門的な目的に沿ったようにしか物事の在り様が見えてこない、
ということはあると思います。

専門家ほど自分の仕事に没頭し、
没頭できることで自分の仕事は充実していくものですが、
その反面、自分の道に捕われやすいということも、また事実です。

そして、一生を通して見れば、
それを承知の上で生きなければならない時期があるということも、また事実です。

自分は何かに捕われていると思わないで、何かに打ち込んでいられるというのが、
僕らにとっては、もっとも充実した在り方であるのかもしれませんが、

これが、そういう在り方をしている自分こそが自分であるという、
そういう自意識と繋がってしまったら、
それもやはり自己というものに捕われていることになってしまいます。

そういった意味において、常に僕らは自分の目的に沿った経験や知の中にいて、
自我とその目的に沿った世界という、
円環的な在り方から、なかなか抜け出せないもの
かもしれません。

このように、ある意味、自分の意思で築き上げてきた自己の枠組みというものが、
その人のアイデンティティーを形成していくということも、
疑いのない事実ではあるのですが、

イノベーションやブレイクスルーに必要なのは、
自分で築き上げてきたその枠を突破するという経験で、
そこから多くの気付きが生まれてきます。

そしてそれは多くの場合、
自分の意図したものではないところで齎されるものです。

では、その気付きを得るために、
僕らはどういうことに注目していったらいいのか、ということですが、
その重要なヒントが小林秀雄の言葉の中にあります。

少し難しいかもしれませんが、ここに引用しておきます。

誰にとっても、生きるとは、物事を正確に知る事ではないだろう。
そんな格別な事を行うより先きに、物事が生きられるという極く普通な事が行なわれているだろう。
そして極く普通の意味で、見たり、感じたりしている、私達の直接経験の世界に現れて来る物は、皆私達の喜怒哀楽の情に染められていて、其処には、無色の物が這入って来る余地などないであろう。
それは、悲しいとか楽しいとか、まるで人間の表情をしているような物にしか出会えぬ世界だ、と言っても過言ではあるまい。それが、生きた経験、凡そ経験というものの、一番の基本的で、尋常な姿だと言ってよかろう。
合法則的な客観的事実の世界が、この曖昧な、主観的な生活経験の世界に、鋭く対立するようになった事を、私達は、教養の上でよく承知しているが、この基本的経験の「ありよう」が、変えられるようになったわけではない



科学というのは確かに便利な道具です。
科学で解明された法則性を手掛かりにしていくことで、
実際に、治療としても役立てていくことができます。

そして、認識の仕方のモデルをそこに置けば、
OTとしての専門性を高めていくこともできます。

そしてそういったものが、自分たちで築き上げてきた枠というものであるなら、
その枠を突破する気付きというものは、どこにあるでしょうか。

僕らのような仕事に従事していれば、
様々な生活や人生を送り、それを生き抜いてきた人たちと出会います。

そしてその人たちが送っている日常経験や日常世界、
そこから獲得した価値観というものは、
やはり人それぞれの形や、在り様をしているものです。

その中で、僕らも彼らも何よりもまず、
合理的に一日を送ったり、人生を生きたりしているのではないし、

そういう在り様もまた、法則性を手掛かりにしたところで、
その根本が変えられてしまうわけではないということは、忘れてはならないことです。

つまり、
人のあらゆる経験の根本が、その人なりの形から発するものであるのなら、
生活動作なり価値観なりを評価し、それを支援していく側には、
その形を見定めて、それを生かすような支援の形というものが、
その根本には求められているということです。

そして多くの気付きというものは、
そういう姿勢の中から生まれてくるものだと思います。

僕らは合理的に捉えようとすることで、
ものに触れれば感ずるというごく当たり前の姿勢を、むしろ抑制して生きています。
意志の強い人ほど、その傾向は強いかもしれません。

そういう生き方がけっして悪いというのではなく、
ただ、合理的でないものと出会ったときに、これとどう向き合えるかということに、
気付きに繋がる重要なヒントが隠されていることがあります。

ものや人には、それにそぐったそれぞれのやり方があり、
これを感じ取ろうとする視点を持つことは、
感慨を離れずに感慨を意識化しようとすることにも繋がります。

合理的でなくても、人はものを意識化し知ることができているのだから、
そこに目を向ければ、僕らの得られる気付きは色々な形をしているということも、
きっと、実感を持って理解できてくるのではないかと思っています。


もうひとつ、気付きに関して重要なのは、こうすれば気付くことができるという、
気付きのモデルみたいなものは存在しないということです。
(もしあったとしたら、それはどこかの誰かにとっての気付きであって、
 本当の意味での自分の気付きではないはずです。)

そして、小さな気付きであれば、
専門性という枠の中でも充分に感じ取ることができ、
わざわざそれを取っ払ってしまう必要もないのかもしれません。

けれど、
人生には自分の価値観を変えてしまうほどの、大きな体験というものが幾つも存在し、
それと出会う機会があることも確かで、
そういった経験は、やがて大きな気付きに繋がる可能性を持っています。

例えば歴史上の人物でいえば、
不意に鳴った竹の音を聞いて、突然悟りが開けたとする香厳や、
ある日それまでの自分の著作が、紙屑のように思えるほどの不思議な体験をし、
以後、一冊も著書を著そうとしなかったトマス・アクィナスなども、
その人生において、大きな気付きを体験した人たちであるようです。

彼らが体験したほどの大きな気付きでなくとも、
凡人の僕らでも、日常生活や日常世界の中で、
気付きに繋がる何かを得るには、できるだけ物事の直接的な経験に触れることで、
そして、それを妨げようとしなければ、その機会は飛躍的に増えそうです。

そしてもうひとつ言えることは、
その機会は、自意識や目的意識から離れたところにありそうだということです。

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by hiro-ito55 | 2013-07-15 20:47 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


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