考える生き方のヒント       ~今、伝えたいこと~

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物質運動モデルや活動理論からの脱却


僕らの仕事には、
利用者からの支援ニーズを引き出し、
それを個人レベル、或いは生活レベル、社会レベルにおいて、
上手くコントロールしていく役割
があります。

それを対人支援と呼ぶのですが、
相手の支援ニーズを知ることが、人の価値を知ることで、
それを活用することが、人の価値を広げることだ
というふうに、安易に結び付けて考えられやすいことも、
また事実かもしれません。

自分の意志に基づく活動という視点で人を見ていると、
ついついそのように考えがちなのですが、

人の価値そのものは、
動いていても止まっていても、変わるものではなく


これらは、本来は別次元の話であり、
同列に考えて論じてはいけない
と思うのです

例えば、極端な例でいえば、終末期の患者さんがいて、
その家族が胃瘻の造設を望む場合も、あるかと思います。

ベッド上で自分の意志で指一本動かすことができなくても、
息子や娘にとっての父親妻にとっての夫という姿変わらず
少しでも長く生きていてほしいという思いから、
胃瘻造設を希望する。

そんな家族もいらっしゃると思います

結局のところ、
その人に寄り添うその人の存在や価値というものは、
その家族や、本人にしか分からないものですから、

他人から見て、
その望み非人間的な望みであろうと揶揄されようが、
その妻や子にとっての、その人の存在や価値というものは、
活動や静止の観点を超えたものがある
と、僕は思うのです。

人の価値というものを、
もし、活動や静止の観点から推し量り切れると考えるならば、
それは、物質の運動モデルを人に当て嵌めて、
人の価値を、それと同程度のもとして扱うということ
で、

これを基に作業療法や医療倫理、終末期医療を考えることは、
たいへん危険なことのように思われます。

確かに僕ら現代人が、人として生きることに不安を感じるとき、
そこには『活動できなくなるのではないか』という恐怖があります。

でも、
なぜ、活動できなくなることに恐怖を覚えるのか
ということについては、自分自身の奥底を見詰めても
なかなか答を出し切れるものではありません

僕はここに、
自分の意志に基づく活動の価値と、人の価値を同列に考えるという、
そういう捉え方の限界があると思うのです


人の全てが、
法則という名の、何がしかの運動変換が可能
というのは、

結局、
人の心身の活動は全て理論化し、外部化して推し量ることができる
という思い込みに基づいています。

そういう、科学への思い込みや不適切な使用がまずあって、
活動に対する驚き共感は、
その後に随伴して明らかにされる現象である

という考えにも、依然根強いものがあります

僕は今、
現代人不安にして、そこから人としての尊厳を脅かしているのは、
自分の意志に基づいてより活動できる生活の方が、
 より充実した人生を送ることができる

という、近代思想に基づいて作られた価値観であると考えています。

本質的には、
自分以外のものと何かを共有できる状態であることにおいて、
人が存在する価値というものは確保されるものですが、

何かを共有する在り方そのものについては
多種多様な姿というものがあると思います。

少なくとも対人支援として
人の価値について考えたいのであれば

医療や介護に携わる者は、
物質の運動モデルや活動理論に基づく価値観から、
脱却した考え方を身に着けていく必要がある
と思っていますし、

それを考えていくことが、
これからの僕らのテーマであろうと思っています。

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by hiro-ito55 | 2013-01-20 20:15 | 医療・福祉・対人支援 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります


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