自分の言葉で語るということ
2012年 11月 18日
人はいつから大人になるのか。
やや哲学的な問いですが、
自分の経験を、自分の世界を、
自分の言葉で語れるようになったとき、
人は大人になれる。
少し前に、そんなふうに書いた覚えがあります。
自分の言葉で語れるとは、
社会的常識を身に着けていくこととは、少し違います。
どんなに有名で、人前では常識的な振る舞いをしていても、
心や情緒が、とても未熟なままの人は、世の中にいくらでもいます。
例えば、1+1はいつでも2です。
年齢や性別や社会的地位に関係なく、
これは常識です。
常識だけれど、
このような、正しいことをいくら知っていたとしても、
自分の世界を、
自分の言葉で表現することにはならない。
社会的通念や常識、つまり、
みんなが正しいとする意見をいくら言えたとしても、
自分自身や他人のことについては、何も語れぬままです。
自分の言葉で、
自分の世界を語っていくためには、
やはり、自分の経験と直接に向き合い、
そこから語れる言葉を、大事にしなければいけない。
自分が直接経験しないことを、
理を以ってあれこれ言うのが学者です。
医療や介護の世界に、理を利用するのはよいのですが、
初めに理ありきの如く、全てを語ろうとするのは、
人の経験を、理というもので縛ってしまうということです。
『事』は『言』だ、とよく言われますが、
纏まりのない言葉でも、事に触れて言葉を発するのが人間であり、
経験は言葉によって、僕らの意識の上に捉えられるのです。
しかし、
纏まった言葉で事を捉えないと、
事は僕らの意識に、漠然としたまま残っているだけです。
だから、
その経験をしっかりと我が物にするために、
人は自分なりの言葉を必要とするのです。
そう考えれば、
本来、事や言の一般化とは何の関係もないところに、
普通の意味で、言葉を使用する僕らの日常生活があり、
それを見定める絶え間ない言語生活の中に、僕らは生きています。
言い換えれば、
事(人の経験)は、言葉によって読み取られるのを待っているのであり、
理というものが、事や言に先行して在るのではない、
ということ。
そこに気付くことができれば、
作業療法士としても、一人の人間としても、
汲み取れる経験や言語の幅は、広がると思うし、
僕の経験から言えば、
利用者は、そういう人と出会えるのを待っています。
僕らが、
自分の言葉で語り出すためのその手掛かりは、
以前の記事で書いたような、個別性の共有や、共感の中にありそうです。
↓↓
・『個別性への共鳴と、普遍的であるということ』
・『物は見ない、物の名を呼ぶ』
by hiro-ito55
| 2012-11-18 16:26
| 哲学・考え方
|
Comments(0)