春月
2012年 10月 07日
休日を利用して、岡崎市美術博物館へ行ってきました。
目当てはこれ。
横山大観や橋本雅邦、下村観山など、
近代~現代にかけての日本画の巨匠たちの絵が立ち並ぶ中で、
僕の目を惹いたのは、大観の不二霊峰でも雅邦の白鶏でもなく、
児玉希望の『春月』。
実はこの絵の前で、30分も立ち尽くしてしまった。
縦126㎝、横145㎝のカンヴァスの中で、
月明かりを頼りに浮かび上がる桜の木。
月明かりをしっかりと反射するところは、
花弁の濃淡や細かいところまで、私たちにもはっきりと見えるように、
そして光の届かないところは、
周りの景色に溶け込むように描かれています。
月の柔らかい光を、唯一の頼りにして描かれたこの絵は、
初めは全体としてぼんやりと浮かび上がってくるような、
そんな印象を与えるかもしれないが、
少し遠ざかって見ると、光の受け具合によって、
桜の木全体が、くっきりと立体的に見えてくることに驚く。
画家の眼というものは、
僕ら一般人よりも、遥かに多くのものを見分けているのだと思うし、
よほどの愛着がなければ、
恐らくここまでしっかりと見分けることも出来ない。
画題が桜ではなく、春月としているところも面白い。
春の月の光はぼんやりとしているが、
その光によって浮かび上がる桜の木は、逆にその立体感を増す。
画家は、その光の力に驚いたのではないかと、
僕は勝手に想像する。
そして見れば見るほど、
何とも言えない、落ち着いた気分になっていくことに気付く。
気付きながら、
小林秀雄が『美を求める心』の中で、
『画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。』
と言っていたことを、ふと思い出す。
....そうして出来上がった花の絵は、
やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。
絵は、画家が、黙って見た美しい花の感じを現しているのです。
花の名前なぞを現しているのではありません。
何か妙なものは、何んだろうと思って、諸君は、注意して見ます。
その妙なものの名前が知りたくて見るのです。
何んだ、菫の花だったのかとわかれば、もう見ません。
これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。
画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。
愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、
見飽きないのです。
好奇心から、
ピカソの展覧会なぞへ出かけて行っても何んにもなりません。
美しい自然を眺め、或は、美しい絵を眺めて感動した時、
その感動はとても言葉で言い現せないと思った経験は、
誰にでもあるでしょう。
この何んとも言えないものこそ、
絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝えたいと願っているのだ。
美しいものは、諸君を黙らせます。
美には、人を沈黙させる力があるのです。
これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。
絵や音楽が本当に解るという事は、
こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わう事に他なりません。
ですから、絵や音楽について沢山の知識を持ち、
様々な意見を吐ける人が、必ずしも絵や音楽が解った人とは限りません。
解るという言葉にも、色々な意味がある。
人間は、種々な解り方をするものだからです。
絵や音楽が解るというのは、絵や音楽を感ずる事です。愛する事です。
知識の浅い、少ししか言葉を持たぬ子供でも、
何んでも直ぐ頭で解りたがる大人より、
美しいものに関する経験は、よほど深いかも知れません。
― 小林秀雄『美を求める心』―
僕のような素人が、30分その絵を見ただけでは、
小林の言うような、画家と同じ目線で見たことにはならないだろうけど、
絵の前で知らず知らずのうちに沈黙して、
心が落ち着いていくことに、気付くことはできる。
そんなことを思いながら、
出口の売店で『春月』の絵葉書が売られているのを見つけ、
せっかくなので、記念に購入してみる。
↓↓
by hiro-ito55
| 2012-10-07 16:39
| 美意識
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