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自分の行動に責任を持つこと

昨日の記事 『村上春樹のスピーチ』 の最後の部分に、
彼の言う 『倫理』 『精神性』 とは、
具体的には 『自分の行動に責任を持つ』 ということじゃないか、
とチョロッと書きました。

その 『自分の行動に責任を持つ』 ことの出発点は、一体どうすればよいかについて、僕なりの解釈を付け足してみます。

今回は、当たり前のことについて細かく言語化したため、
やや観念的で、蛇足的な付け足しになっています。
ですので、できるだけさらっと読みましょう



自分の行動に責任をもつということを、僕なりに考えてみると、
それは恐らく 『問う』 という行為で、
その問いの仕方に遡って考えてみることができます。 

問いの仕方とは、言ってみれば 『自分流に問う』 ということです。

自分流に問うということは、むやみやたらに世間の中に答えを探すことじゃあなく
まずは自分の頭を、働かすということです。


世間一般で正しいと認められていること、例えば 『効率優先』 ならば、
それは僕らの行動基準として、果たしてそんなに正しいことなのかどうか、
それを自問するところから、始めてみるのです。

自分流に問うということは、みんなが正しいというからそうなんだと、
それを知ってまず認めることじゃない。

そんなものは問でも何でもない。

世間で認められたものを信じることは、とても簡単です。
みんなそれに従っちゃえばいいだけの話ですから。
しかもそうすれば、世間は自分を認めてくれるものです。

こんななことはない。
だけど誰も責任をとらない

責任がないのは、認めたのは自分ではなく、世間だからです。
世間とは実体のない概念です。

だから 『効率優先』 も、それが齎す結果が実は間違っていたとき
そう分かったときに、
理屈では世間が責任を取らなければどうしようもないのだが、

実体のない概念が、本当に責任など取れるわけがないでしょう

もし、世間というものが責任を取れるとしたら、
結局それは、一人一人が自分のできることを果たしていく
その集合体の形でしか、現れようのないものです。

だから世間で認められたものを信じる前に、自分で問うしかない

とりあえず、自分ひとりでもいいから、まずは考えてみる。
自分流に問うてみる。

それが例え間違っていようと、
そのとき自分の頭は確かに働いています。

そうして自分の頭を働かせておいて、
この考えが世間と果たして解離しているものなのか、
独りよがりでないか、非常識なものでないのか、

その確認の作業で、
科学や世間というものと照らし合わせてみればよいのです。

世間の考えとあまりにもかけ離れていれば、
そこで反省すればよいのです。

そのように考えれば、
自分の行動に責任を持つということはつまり、
世間の中に答えを探すことと、自分流に考えることの、順逆を間違えない
ということなのです。


このことに注意深く配慮する人はまた、
何処何処の名のある教授が立証し、
論拠づけたものであるから正しいだとか、
自分の外部に積極的にその正当性を求めたりはしない。

自分流に考えるということは、責任ある信念です。

それは、自分の行動に責任を持つということと同じなのです。

自分の外部に積極的に正当性を求めることは、
責任を自分から離してしまうということです。

だから、順逆を間違えてはいけないのです。
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by hiro-ito55 | 2011-06-15 23:36 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


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