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『Truth と Reality』 (前半)

僕自身、個人的には以前から宗教というものは、
個人的に行うものだという考えを持っていました。

それは今でも変わらないのですが、
僕の大学時代の友人に、
ある新興宗教に入信している人がいました。

大学の講義内容で、よく分からないところがあると、
そいつのアパートにお邪魔して、
よく聞きにいっていたものです。
 
そこでは、お互いに勉強に関する話題がほとんどだったので、
宗教の話になることはまずなかったと記憶していますが、

一度だけ、熱心に入信を勧められたことがありました。

頭の良い奴だったので、 『まさか』 とは思いましたし、
僕自身、少なからず驚きました。

仲の良い友人であったので、僕は無下に断ることもできず、
その時はただ彼が熱心に話すのを、
肯定も否定もせず聞いていました。

結局、しばらく考えた末に、
やっぱり自分にはできないと思って断りました。

何故、断ろうと思ったかというと、
先程申し上げた 『宗教は個人的に行うものだ』 という思いが、
考えれば考えるほど、強くはっきりと自覚されるようになったからです。


しかし、では何故、そのように強く自覚するのかというと、
当時の僕は上手く説明することができませんでした。

ところが最近になってようやく、その理由が明確になってきたのです。

それは、恐らく僕にとってはこういうことだったのです。 


『宗教は、真理 (Truth) は語るが、
僕にとってはそれは、真如 (Reality) ではない。』




例えば、仏教では一切は 『』 であると説きます。

しかし、仏教に空の思想があるからといって、
空についていくら言葉であれこれと言い尽くしてみたところで、

空を観ずる、つまり、 『空とはかくの如く在る』、
という真如感 (Reality) を表しているとは言えないでしょう。

何故かというと、
空とは、空を感ずる者の独特の体験を離れて、
そのような概念だけを云々してみたところで、

それは形而上の世界を出ることができないからです。

形而上の世界を出ることができない空は、
それを感ずる者の空ではなく、

いくらでも解釈のできる 『観念』 として、
提示されているものの筈です。

そのような所にRealityはないのであって、
ならば、何を以ってもまず、そのような空を観ずるための、
己のRealityを磨かなければどうにもならぬ、
ということが分かってくるでしょう。

Realityを己のRealityにするということは、
己の経験をひとつひとつ積み重ねた先にある 『観』 を指すのであり、

これを磨いていくためには、
実際に行なって経験してみなければ、どうにも分からない、

そういうことであるのです。


これは、少々分かりにくいことかもしれないので、 
仏教の 『阿含経』 の中にある
有名な 『毒矢の例え』 の話を、参考に挙げてみます。

それは、こんな話です。


ある人が釈迦に、 
「この世は永久のものであろうか、無常のものであろうか。
また、世界は有限であろうか、無限であろうか…」 等々、

そういった形而上学的な質問をして、次々と問いかけました。

これに釈迦は直接には答えず、次のような例え話をします。
 
『ある毒矢で射られた者が、毒矢を抜く前に、
毒矢を射た者が何処の誰で、どのような階級の人間であるか、
また、この矢を射た弓の性質は何だとか、
そういった細々としたことをあれこれと考え、
この者はこれに答えが出るまでは毒矢を抜かせないと言う。
そんな者がいたとする。

この者は例え自分を納得させるような、どんな解答を得たとしても、
その前に死んでしまうであろうし、
そんな行為はそもそも、その者の痛みや苦しみ自体には、
何の関係もないことである。
ならば、そんなことを聞いてどうなるのだろうか。』 と。

そして釈迦は、
真理というものを理論のみで理解するのは間違いであり、
そうではなく、
まずは何を置いても、現実の人生に立ち向かうことが肝要なのであり、

ならば自分にできることは、
この毒矢を抜く事を教えるのみ』 
である、と説いたのです。

これは、 『釈迦のReality』 でしょう。



 ( 『後半』 へつづく....。)



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by hiro-ito55 | 2011-04-03 19:41 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


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