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 作業療法私的概論 ~その4~

前回の記事では、

例えどんなちっぽけな経験でもいいから、
人間の心や活動を知りたければ、
それらが働いている場に自ら入り込み、
一旦、自分の主義主張という、詰まらぬ皮を削ぎ落として経験してみろ、

それが、知るために僕らができることである、

と申し上げました。

そして、

作業療法士として、
そのような人間の活動の 『姿』 を見定めることができたならば、
それを新たな有機的な繋がりの場へと導いていくことを、
基本とするものであり、それにはそれ相応の覚悟が必要である、

とも申し上げました。

しかし、そんなことを言うと、
『じゃあ、お前の言う海へとやらに出向くため、
泳げない者に向かっても、同じように 「海に入れ」 と言うのか』 
と仰る方がいるかもしれませんが、

僕は、 
『そうです。その通りですよ。』 
と答えるでしょう。

海で泳げるかどうかなんてことは、
大体やってみなきゃ分からないことだし、
泳ぎ方なんてものはこの際、問題ではないのです。

僕が申し上げているのは、 
『覚悟の問題』 であって 『泳ぎ方の伝授』 ではないのですから、
海の中でどのように振る舞うかは、その人の問題なのです。

知るために、自ら生活の場に出向いていって、
その生きた繋がりとやらに入り込み、
内側から知るという経験を通すということは、
有機的な繋がりに身を委ねるということであって、

そういう場に開かれる自己を、自然と作っていかねばなりませんし、
それが、直覚するという、各々の内に涵養される経験であるのです。

そのような経験の形態にあっては、やはり、 
『知ることとは経験することだ』 ということが、分かるでしょう。

ならば、経験する前に既にある 『泳ぎ方』 というようなものは、
覚悟の前にあって如何ほどの意味があるでしょうか。


しかし、 『泳ぎ方』 というものを、大抵みんな知りたがるものです。
『どうしたら上手く作業療法というものが実践できるのか、
その方法を教えてもらいたい。』 
と、知りたがるものです。

それは、例えば現場で働きながら、 
『自分の実践方法は、果たして正しいのだろうか。間違ってはいないだろうか。』 
という不安から、
 
『実は、もっと効果的な方法があるのではないのだろうか。』 
という思いに、囚われるからです。

確かに、他人の泳ぎ方というものが、参考になることはあるでしょう。

しかし、自分に合った実践方法などは、実は、他人になんかは分からない。
自分で経験し、工夫するしかないのだということは、誰でも気づくことです。

しかし、 『泳ぎ方』 を求める人には、
どうもその辺のことがよく分かっていない人が多い。

ついつい他人の泳ぎ方というものを求めて、 
『安心しよう』 とするのです。


『天地の間に、己れ一人生きて有ると思ふべし』 
とは、熊沢蕃山の言葉ですが、

そんなに自分というものが信じられないならば、
己という力量を疑い、己が経験する前に、
自分の覚悟を直視することを恐れ、尻込みしてしまうのならば、

他人を治療したいなどとは思わぬ方がよい。

厳しい言い方ですが、
自分の経験を信じようとする覚悟のない者に、
人間活動の有機的な繋がりに身を委ねる覚悟のない者に、
作業療法を実践できる筈もなく、

ましてや人間の活動を、
そこから新たな有機的な繋がりの場へと導いていくことなど、
不可能なことなのです。


(その5へつづく....。)





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by hiro-ito55 | 2011-03-06 22:54 | 哲学・考え方 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


by いとちゅー