『ロジックの飛躍』 と 『適正化』
2011年 01月 09日
『少子化問題』 『高齢化問題』 『超高齢化社会』。
こういった言葉を、僕らはほぼ毎日のように目にしたり、耳にしたりします。
僕らの社会の構造が変化してきている証拠ですね。
しかし、そもそも 『少子化』 や 『高齢化』 というものは、
『何を基準に』 したものであるのか、
という問いは見落とされがちです。
いや、見落とされがちというよりは、
ほとんど無視されてこれらの事柄が論じられている
というのが、現状ではないでしょうか。
僕はここにロジックの飛躍があるように思えてなりません。
例えば、
『まだまだ作業療法士の数が足りないので、養成校をどんどん増やしましょう』
という方針は、
『そもそも作業療法士になりたいと思っている人が現状で何人存在するのか』
『存在するとして、今後そのような人は増え続けていくのか』
といった考察が抜けているとしたら問題ですよね。
実際、養成校の中には
既に定員割れをおこしているところもありますし、
学生の募集を停止している養成校もあります。
『少子化』 問題や 『高齢化』 問題もこれと同じで、
『そもそも高齢化(少子化)とは、
何と比較してどれだけの人数に達したら
高齢化(少子化)していると言えるのか』
『高齢化(少子化)しているとして、
今後それは何を基準にして適正化を目指すのか』
といった筋道が見えてこないということです。
いや、具体的には
65歳以上の人口が総人口の21%以上に達したら
『超高齢社会』 と呼ぶのだ、
という人がいるかもしれませんが、
では、その 『超高齢社会』 の21%という数字は
『何を基準にして』 そう設定しているのか、
という問いの答には成り得ません。
この 『問い』 つまり
『何を基準にしているのか』 という考察がスッポリ抜けてしまうと、
例えば、
『少子化対策として、出産を奨励する政策を立案施行したとしても、
産科や保育所が不足し』 たり、
『高齢化対策として施設数を増やしたが、
思った以上に高齢者が集まらない』
という結果を招くということです。
そのような結果は、明らかに失敗です。
もちろん、この結果にはバラつき、
つまり地域差というものがありますが、
僕らが 『少子化』 や 『高齢化』 というものを考えるとき、
その言葉をそのまま鵜呑みにして考察していくことは、
少し危険であるように思えるのです。
何故なら、 『少子化』 『高齢化』 という言葉自体に、
それを 『問題である』 と捉える意識が、
既に刷り込まれていると思えるからです。
問題に対しては適正に処理されなければならない
という思考が働きます。
しかし、その適正状態がどのような状態なのか分からないのであれば、
そもそもその問いの立て方自体が問題であるのです。
もし、僕らの社会が世間で言うところの
『少子化』 や 『高齢化』 といった
『異常な状態』 に向かっているのではなく、
むしろ今までの出生率の高さや、
高齢者人口の比率の低さの方が
『異常』 であったと捉えることは、
できないのでしょうか。
僕らの社会が、どこかで均衡な人口構成状態に戻り、
それがその社会の適正な構成状態であり、
現在はそれに向かう移行期である、
と考えることは不可能なのでしょうか。
それを社会の回帰的な成り行きであると考えれば、
今までのそれと 『相対的に比較』 して、
現在の社会が、
僕らの目に 『少子化し、高齢化しているように映る』 だけではないか
とも思えてくるのです。
もしそうであるならば、
出生率を上げて高齢人口の相対的減少を目指すのではなく、
高齢者が増えた(と見える)社会でも、
混乱なく移行していける社会を目指すべきではないのか。
そして、『少子化』 や 『高齢化』 を論ずるときには、
そのような 『問い』 の立て直しを図るべきなのではないのか
と思うのです。
仮に、そのような根本的な問の立て直しがあれば、
人口構成変化の流れに逆らうような対策は減少し、
ロジックの飛躍による失敗は避けられるように思えるのです。
こういった言葉を、僕らはほぼ毎日のように目にしたり、耳にしたりします。
僕らの社会の構造が変化してきている証拠ですね。
しかし、そもそも 『少子化』 や 『高齢化』 というものは、
『何を基準に』 したものであるのか、
という問いは見落とされがちです。
いや、見落とされがちというよりは、
ほとんど無視されてこれらの事柄が論じられている
というのが、現状ではないでしょうか。
僕はここにロジックの飛躍があるように思えてなりません。
例えば、
『まだまだ作業療法士の数が足りないので、養成校をどんどん増やしましょう』
という方針は、
『そもそも作業療法士になりたいと思っている人が現状で何人存在するのか』
『存在するとして、今後そのような人は増え続けていくのか』
といった考察が抜けているとしたら問題ですよね。
実際、養成校の中には
既に定員割れをおこしているところもありますし、
学生の募集を停止している養成校もあります。
『少子化』 問題や 『高齢化』 問題もこれと同じで、
『そもそも高齢化(少子化)とは、
何と比較してどれだけの人数に達したら
高齢化(少子化)していると言えるのか』
『高齢化(少子化)しているとして、
今後それは何を基準にして適正化を目指すのか』
といった筋道が見えてこないということです。
いや、具体的には
65歳以上の人口が総人口の21%以上に達したら
『超高齢社会』 と呼ぶのだ、
という人がいるかもしれませんが、
では、その 『超高齢社会』 の21%という数字は
『何を基準にして』 そう設定しているのか、
という問いの答には成り得ません。
この 『問い』 つまり
『何を基準にしているのか』 という考察がスッポリ抜けてしまうと、
例えば、
『少子化対策として、出産を奨励する政策を立案施行したとしても、
産科や保育所が不足し』 たり、
『高齢化対策として施設数を増やしたが、
思った以上に高齢者が集まらない』
という結果を招くということです。
そのような結果は、明らかに失敗です。
もちろん、この結果にはバラつき、
つまり地域差というものがありますが、
僕らが 『少子化』 や 『高齢化』 というものを考えるとき、
その言葉をそのまま鵜呑みにして考察していくことは、
少し危険であるように思えるのです。
何故なら、 『少子化』 『高齢化』 という言葉自体に、
それを 『問題である』 と捉える意識が、
既に刷り込まれていると思えるからです。
問題に対しては適正に処理されなければならない
という思考が働きます。
しかし、その適正状態がどのような状態なのか分からないのであれば、
そもそもその問いの立て方自体が問題であるのです。
もし、僕らの社会が世間で言うところの
『少子化』 や 『高齢化』 といった
『異常な状態』 に向かっているのではなく、
むしろ今までの出生率の高さや、
高齢者人口の比率の低さの方が
『異常』 であったと捉えることは、
できないのでしょうか。
僕らの社会が、どこかで均衡な人口構成状態に戻り、
それがその社会の適正な構成状態であり、
現在はそれに向かう移行期である、
と考えることは不可能なのでしょうか。
それを社会の回帰的な成り行きであると考えれば、
今までのそれと 『相対的に比較』 して、
現在の社会が、
僕らの目に 『少子化し、高齢化しているように映る』 だけではないか
とも思えてくるのです。
もしそうであるならば、
出生率を上げて高齢人口の相対的減少を目指すのではなく、
高齢者が増えた(と見える)社会でも、
混乱なく移行していける社会を目指すべきではないのか。
そして、『少子化』 や 『高齢化』 を論ずるときには、
そのような 『問い』 の立て直しを図るべきなのではないのか
と思うのです。
仮に、そのような根本的な問の立て直しがあれば、
人口構成変化の流れに逆らうような対策は減少し、
ロジックの飛躍による失敗は避けられるように思えるのです。
by hiro-ito55
| 2011-01-09 21:54
| 医療・福祉・対人支援
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