「地域」や「共同体」について ~その5~
2010年 12月 13日
前回10月4日に『その4』を書いてから、
2か月以上経ってしまいました。
もう忘れた方も多い、というか誰も覚えてないでしょうね、
このタイトル。
前回『その4』では、
『自己実現』 や 『個性の追及』 と、
『消費活動』 が結び付くのは、
『自己中心性』 という 『互いの性格上の類似』 と、
『交換』 という 『人間が社会的生物であるための必然性故』 である、
と述べました。
そして、
『自己中心性に基づく交換』 は、
やがて 『合理的交換形態』 を採るようになり、
このような交換を思考する人間が一定数以上存在すれば、
『無駄』 な交換である 『大量消費活動』 は、
社会全体としては抑えられるように働く、
というところまで述べました。
(ふ~、一息...。)
では、僕らの社会が、
時間をかけてこのような性格に構造化されてしまったことを踏まえて、
僕らはこれから、どのように振る舞えばよいのか。
或いは、どう振る舞うことが望ましいのか。
前回の内容を述べつつ、
今回からは、そのことについて少し触れていきたいと思います。
基本的な考えとして、
『我々の社会をもう一度活性化する』 ために、
大量生産大量消費という振る舞いを、
社会全体の 『スタンダードとして』 合意し、
採用することに対しては、
残念ながら僕は否定的です。
というのも、我々の社会は現在、
一定数以上の消費者が、 『合理的消費形態』 を、
確実に採用しているという事実に留まらず、
もう一歩進んだ形態を採っていることは、前回述べました。
そしてそれは、具体的には僕らの社会が、
『ニート』 や 『引きこもり』 が大量増加している現状にある
ということと、
『共同体がこれ以上細分化できないところまで解体されつつある』
という、二つの事実を指します。
まず、 『ニート』 や 『引きこもり』 に関していえば、
もはや彼らが、消費活動自体も伴わなくなっていることは、
今や誰が見ても明らかなことです。
お金が無ければ個性を発揮する自由を手に入れたり、
自己実現したりすることはできない
と考えることは、
自己の活動の原点を、
『誰かに何かを贈ること』 よりも、 『まずは自分が得ること』 に、
重点を置いて設定していることになります。
ニートや引きこもりは、
このような設定を究極に突き詰めた人たちで、
そのような立ち位置からは、
長期的な消費活動というものは期待できません。
そして、それに加えて、
僕らの社会の人口構成が、
高齢者が多く若者が少ないという逆ピラミッド型に急速に向かい、
今や高齢者を支える 『高齢者以外の人』 への、金銭的負担が増大して、
今後もそのような状況は、『続いていく』
という事実もあります。
このような状況では、
高齢者以外の消費者の消費活動を引き出すのは、
どんどん難しくなります。
難しくなるどころか、 『市場』 は 『縮小』 し、
合理的思考の消費者は増える一方で、
最早 『大量消費者としての大衆』 という定義自体も、
成り立たなくなる恐れがあります。
しかし、
市場から 『大量消費者としての大衆』 が 『消滅』 するという事実は、
ある日突然、 『国民的合意を得た事実』 として、
現れるようなものではありません。
その前に、 『大量消費者を物色する行為』 という前段階が、
必ず現れます。
分かりやすく言えば、
『搾り取れる者から搾り取ろう』 とする行為が現れるということです。
例えば、 『振り込め詐欺』 や 『リフォーム詐欺』 が
高齢者を対象に頻発するのは、
大多数の 『合理的消費形態』 を採る 『賢い消費者』 が、
最早 『大量消費者としては失格』 であるからです。
賢くなってしまった大多数の消費者からは、
もはや大量の消費は期待できません。
しかしそれでも、大量消費社会で生きてきた人間には、
大量消費してくれる消費者探究への欲望は抑えがたいものです。
その結果、 『合理的消費思考』 を、
他の消費者よりも解放させやすい高齢者に的を絞り、
ターゲットにしたというのが、業者側の本音ではないでしょうか。
しかも、コミュニティーは今や希薄になり、
高齢者単独の世帯も増えていることもあり、
高齢者がお金を出す上で、
『他の賢い消費者の影響を受けにくい状況にある』、
という 『好条件』 も揃っています。
つまり、 『振り込め詐欺』 も 『リフォーム詐欺』 も、
大量消費社会というものが終わりつつあるにも拘らず、
それを認められない人間の欲望が生んだ、
『負の消費形態』 と言えるのではないでしょうか。
そこには、ルールも倫理観もありません。
あるのはただ、 『大量消費への欲望』 だけです。
では、僕らの社会は、
どのような形態を目指していくのが、現実的に良い方向であるのか。
それは、
『消費行動を少し犠牲にしても暮らしていける、
そんな社会へとシフトチェンジしていかなければ立ち行かなくなる』
と考え、
まずはそこから、全ての思考をスタートさせることです。
次回 『その6』 では、
その具体的なところを記述してみたいと思います。
(その⑥につづく.....。)
2か月以上経ってしまいました。
もう忘れた方も多い、というか誰も覚えてないでしょうね、
このタイトル。
前回『その4』では、
『自己実現』 や 『個性の追及』 と、
『消費活動』 が結び付くのは、
『自己中心性』 という 『互いの性格上の類似』 と、
『交換』 という 『人間が社会的生物であるための必然性故』 である、
と述べました。
そして、
『自己中心性に基づく交換』 は、
やがて 『合理的交換形態』 を採るようになり、
このような交換を思考する人間が一定数以上存在すれば、
『無駄』 な交換である 『大量消費活動』 は、
社会全体としては抑えられるように働く、
というところまで述べました。
(ふ~、一息...。)
では、僕らの社会が、
時間をかけてこのような性格に構造化されてしまったことを踏まえて、
僕らはこれから、どのように振る舞えばよいのか。
或いは、どう振る舞うことが望ましいのか。
前回の内容を述べつつ、
今回からは、そのことについて少し触れていきたいと思います。
基本的な考えとして、
『我々の社会をもう一度活性化する』 ために、
大量生産大量消費という振る舞いを、
社会全体の 『スタンダードとして』 合意し、
採用することに対しては、
残念ながら僕は否定的です。
というのも、我々の社会は現在、
一定数以上の消費者が、 『合理的消費形態』 を、
確実に採用しているという事実に留まらず、
もう一歩進んだ形態を採っていることは、前回述べました。
そしてそれは、具体的には僕らの社会が、
『ニート』 や 『引きこもり』 が大量増加している現状にある
ということと、
『共同体がこれ以上細分化できないところまで解体されつつある』
という、二つの事実を指します。
まず、 『ニート』 や 『引きこもり』 に関していえば、
もはや彼らが、消費活動自体も伴わなくなっていることは、
今や誰が見ても明らかなことです。
お金が無ければ個性を発揮する自由を手に入れたり、
自己実現したりすることはできない
と考えることは、
自己の活動の原点を、
『誰かに何かを贈ること』 よりも、 『まずは自分が得ること』 に、
重点を置いて設定していることになります。
ニートや引きこもりは、
このような設定を究極に突き詰めた人たちで、
そのような立ち位置からは、
長期的な消費活動というものは期待できません。
そして、それに加えて、
僕らの社会の人口構成が、
高齢者が多く若者が少ないという逆ピラミッド型に急速に向かい、
今や高齢者を支える 『高齢者以外の人』 への、金銭的負担が増大して、
今後もそのような状況は、『続いていく』
という事実もあります。
このような状況では、
高齢者以外の消費者の消費活動を引き出すのは、
どんどん難しくなります。
難しくなるどころか、 『市場』 は 『縮小』 し、
合理的思考の消費者は増える一方で、
最早 『大量消費者としての大衆』 という定義自体も、
成り立たなくなる恐れがあります。
しかし、
市場から 『大量消費者としての大衆』 が 『消滅』 するという事実は、
ある日突然、 『国民的合意を得た事実』 として、
現れるようなものではありません。
その前に、 『大量消費者を物色する行為』 という前段階が、
必ず現れます。
分かりやすく言えば、
『搾り取れる者から搾り取ろう』 とする行為が現れるということです。
例えば、 『振り込め詐欺』 や 『リフォーム詐欺』 が
高齢者を対象に頻発するのは、
大多数の 『合理的消費形態』 を採る 『賢い消費者』 が、
最早 『大量消費者としては失格』 であるからです。
賢くなってしまった大多数の消費者からは、
もはや大量の消費は期待できません。
しかしそれでも、大量消費社会で生きてきた人間には、
大量消費してくれる消費者探究への欲望は抑えがたいものです。
その結果、 『合理的消費思考』 を、
他の消費者よりも解放させやすい高齢者に的を絞り、
ターゲットにしたというのが、業者側の本音ではないでしょうか。
しかも、コミュニティーは今や希薄になり、
高齢者単独の世帯も増えていることもあり、
高齢者がお金を出す上で、
『他の賢い消費者の影響を受けにくい状況にある』、
という 『好条件』 も揃っています。
つまり、 『振り込め詐欺』 も 『リフォーム詐欺』 も、
大量消費社会というものが終わりつつあるにも拘らず、
それを認められない人間の欲望が生んだ、
『負の消費形態』 と言えるのではないでしょうか。
そこには、ルールも倫理観もありません。
あるのはただ、 『大量消費への欲望』 だけです。
では、僕らの社会は、
どのような形態を目指していくのが、現実的に良い方向であるのか。
それは、
『消費行動を少し犠牲にしても暮らしていける、
そんな社会へとシフトチェンジしていかなければ立ち行かなくなる』
と考え、
まずはそこから、全ての思考をスタートさせることです。
次回 『その6』 では、
その具体的なところを記述してみたいと思います。
(その⑥につづく.....。)
by hiro-ito55
| 2010-12-13 02:36
| 社会
|
Comments(0)