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異質なものを取り込むということ

僕は、現場で仕事をしながら、
日本人に合ったリハビリテーションを探しています。

それは、「自分の経験を通して」 形にできるものでありたい
と思っているものなので、

「先行文献の研究」 ではなくて、
「経験からの思考」 といった形を採ります。

ですから、専門的に研究されている方に、
僕みたいな門外漢が敵うわけはありませんので、

どうしても素人的な解釈が、その都度ついて回ります。

ですがそれでも、
思考して言葉にしなければ、
それを次に繋げることもできませんから、

数少ない僕の経験という欠片を集めて、
僕なりの頼りない解釈を施しています。


現在、僕は日本人の文化・思想といったものを勉強しています。

それは、
仕事で関わる相手(利用者さんやスタッフ)が日本人であり、
その相手のことをよく知りたいと思ったからです。

個人的な資質に還元されるものに興味を持ったわけではなく、
僕らに共通に流れる 「リズム」 みたいなものをそこに見出したい。

そして作業療法を、
その 「リズム」 に乗せて展開することができれば、

思想的な底辺の部分で、
より普遍的なものに作り変えることができるかもしれない。

そう考えています。

僕らに半ば当たり前に備わってしまっている
言動や思考パターンの癖を、

言語によってもう一度意識化し、
意識化したものを経験するという回り道を通して、

そこから生まれ出てきたものを見定め、
リハビリを介した 「経験からの思考」 として、
繋げていきたいと考えています。

しかし、
リハビリを通してまだ何も具現化できていませんので、
そこは未だ一兵卒OTの頭の中の出来事
として受け取って下さい。


前置きが長くなりましたが、
今回は、日本の近代化には二つの問題が隠されている、
ということについて、少し書きたいと思います。

余談ですが、ざっくり言ってしまえば、
リハビリテーションという概念自体は、
元々日本には存在しなかったものです。

西洋からその概念が入ってきて、
日本で体系化されていく過程において、

西洋とは異なる独自の意味付けも成されていった
という歴史があります。

そしてこの、
現在まで続く日本におけるリハビリテーションの体系化も、
日本の近代化そのものとほぼ同時代の出来事で、

「輸入物」 という点でも共通していますので、
問題の本質をシェアする部分も多いと思います。


日本における近代化には、次の二つの問題が内包されています。
①近代化それ自体に予め内包されていた問題(西洋と共通の問題)
②異質文明を受け入れたがための「歪み」の問題(異質性の問題)

元々、非西洋文明圏であった日本では、
近代化の問題の根底に、
この 「二種類の質の異なる問題」 が絡み合って存在しています。

当然ですよね。
日本にとっては 「異質なもの」 を、
その 「身体」 に 「取り込んだ」 形になるわけですから。

移植されたものだって完璧ではないですし、
受け入れた身体も自分なりに歪みを解消し、

「それ」 に馴染むまでの過程において、
多少の拒絶反応を含めた様々な問題が生じることは、
容易に想像できます。

ただ、その問題が症状として表面化して、
意識されるかされないかの違いはありますが。

この観点からすれば、例えば 
「ドイツでは森林荒廃についてこのように考えられているから、
日本でもこのようにするべきである」

といったような、単純な問題として捉えることは、
まずできません。

何故なら、①と②のような、「西洋と共通する問題」 と、
日本自身が異質なものを受け入れたという、
「『異質性』から来る問題」

との二種類の問題が存在するわけですから、

西洋ではある方法で環境問題に対処して上手くいったからといって、
その手法を、単純にステージの異なる日本に当てはめて、
西洋の方法に習えば解決

というわけにはいかないのです。

「異質性」 は 「外来性」 という言葉に置き換えることができますが、
これは日本文化の宿命と言えます。

例えば古代においては、
中国から漢字を受け入れたという大きな出来事がありました。

それまで日本では文字を持たなかったために、
この時に、日本語を漢字で表現しようという試みが成されました。
 
しかし、日本語にとっては
元々 「異質なもの」 である漢字を使って表現されるものと、
日本語自身が表現するものとの間には、

微妙な差異があることに気付かされます。

例えば、漢字で表現される 「天」 と、
日本語で表現される 「あめ」 の間には、

その語の持つ意味の幅において、微妙な 「ズレ」 があります。

そこで、この微妙なズレの存在を意識しながら、
漢字で日本語を表現する場合、

どのように表現するかという問題が生じました。

結局、このニュアンスのズレの問題を解消し、
漢字を完全に日本語化するのに、
その後数百年の歳月を要しました。

これが、異質性を受け入れる日本が抱える宿命なのです。


福沢諭吉は、その著書「文明論之概略」で次のように述べています。

   「今の日本国を文明に進むるには、
    この国の独立を保たんがため西洋文明を受け入れることは、
    日本人の人心風俗の最良の部分を犠牲にするような転換
    という覚悟で受け入れなければならない。」

要するに、福沢の目には、
西洋文化と日本文化の間に、我々の価値観を犠牲にするほどの、
根本的な隔たりがあると映ったということです。

また福沢は、
「西洋の文明の精神から、文明を徹底的に取り入れなければ、近代化はできない」
とも述べています。

独立を守るために、
却って独立を内側から突き崩してしまうかもしれない
という懸念を、彼は抱いていました。

そして、日本において
「文明の精神まで受け入れることは容易ではない」 
と、福沢は分析しています。

その、「容易ではない」 がために、
日本人に西洋文明に対するコンプレックスが生まれます。

そのコンプレックスは、
日本における 「西洋文明の受容」 に対し、
その表面だけを真似て取り入れている、

という批判を招く 「スキ」 を作ることになります。

そしてその批判は更に、
このように 「近代化が不徹底」 であるがために、
日本は自らの前近代性を克服するに至っていない、

という考え方に結びついていきます。

これは、
「自生的に近代を生み出した西洋」 と 「前近代を引きずった日本」 
という二項の対比で捉える思考です。

現代でも、このような捉え方を採用する人は多くいます。

しかし、このような捉え方は、
あくまで 「近代化を成し遂げた西洋が尺度となっている」 もので、

その 「西洋の近代化に普遍的価値がある」 
というイデオロギーの下に成り立っています。

でも、
本当に西洋の近代化というものには普遍的な価値があり、
この 「不徹底さ」 は西洋がその社会でやったことと同じように、
「徹底する」 という形で克服するべきものなのでしょうか。

むしろ、漢字を日本語化したように、
異質性に内包されているもう一種類の問題を見据え、

それを作り変えていく作業が、
必要なのではないでしょうか。

それは、「融合する作業」 と言い換えることもできます。

異質性を、その身に受け入れるためには、
「自生的に近代を生み出した西洋」 と
「前近代を引きずった日本」 

という二項の対比で思考するのではなく、

「融合という軸」 からも思考することが必要だと、
日本人の経験が教えてくれているように感じます。




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by hiro-ito55 | 2010-09-17 22:06 | 日本人 | Comments(0)

作業療法士です。日頃考えていることを綴ります。


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