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報道を見る限り、
東日本大震災後の復興が、なかなか進んでいないようです。

これを政治の主体性のなさ原因だと、
他人事のように言ってしまうのは容易い

今回の震災復興は、よく敗戦後の復興比較されるけれど、
60年前と今とで根本的に違うのは、
復興を国民レベルで共有できているかいないかの差
ではないかと思えてきます。


敗戦後の日本では、
全国で百万人規模の餓死者が出たといいます。

家族も、家も、食べ物も、何もない人たちが全国に溢れていたわけで、
そういう同じような体験が、
望まずとも日本人全体に共有されていたように思います。

そこから、東洋の奇跡とまで言われた復興が成し遂げられたのは、
生き残った人たちが、戦争で亡くなった人たちに対する
負い目を背負って生きてきたからかもしれない。

けれど、去年の震災では
その共有感が、限定的なものに留まっている
という現実があります。

現に、被災地以外に住む人たちは、去年の震災後も、
これまで通りの生活ができてしまっているわけで、

電力不足だ、なんだと言われても、
これまで通りの生活が、一応の形でできてしまっている人たちと、
住むところや職を失って、家族と一緒に暮らすこともできない人たちでは、
どうしたって復興の意識に、大きな差が生まれてしまう

このを何とかして縮めていくことも、
復興への道筋のひとつになっていくと思います。



僕の住む愛知県では、
震災がれきの処理を政治判断で受け入れました

周知のことですが、被災地では、
震災後、処分できずに現地で放置されている多くのがれきがあり、

愛知県の方針は、
その処分を一部引き受けようというものです。

僕は、基本的にこういう取り組みには賛成で、
受け入れていくためには、具体的にどうすればよいかを、
もっと積極的に検討していくべきだと感じています。

しかし、その一方で、
根強い反対意見があるのも事実です。

報道を見る限りでは、
反対意見の理由の大半が、安全性に対する疑いで、
放射性セシウムのことが、盛んに言われています。

それで、断固反対している人も多くいるけれど、

仮に彼らの言うように、がれきが放射性物質汚染されていたら、
それらを被災地に放置することが、
被災地の人に被爆を強制するということになる
というふうには、考えないのだろうか。

それとも、それも政治のせいにして、
適切な処置をしない〇〇が悪い』 と、
他人のせいにしてしまうのだろうか。

それではまるで他人事です



例えば、主要エネルギーは、
石炭→石油→原子力推移してきた歴史があるから、
電気自動車だって、オール電化の家だって、自動販売機だって、
結果として、
原子力エネルギーの需要を推進してきたことに変わりはない

今、原発に反対している人たちでも、
そうやって僕らは、
今までどこかで原子力のエネルギーを使って生きてきた筈だし、

今の生活が成り立っているのも、
エネルギーを、何かの形で原子力に依存してきたからだと考えれば、
多かれ少なかれ、
僕らは原発推進への、共犯的な役割を担っていたことになります

だとすれば、
それは最早、他人事とは呼べない

むしろ、僕らが等しく共有し
いかにこれを乗り越えていかなければならないかという
そういう方向性を持って、
臨まなければならない種類の問題なのです。

そういう方向性を持って、
国民の知性は使われなくてはならない筈ですし、
今まで原子力エネルギーの恩恵だけを受け続けられたことを幸いにして、
その負の部分に関しては、他人が処理してくれというのは、
随分と身勝手な振る舞いではないのか、と思えてきます。

今回は、たまたま東北に住む人たちが不幸に見舞われただけであって、
負の清算を、被災地だけに押し付けるのは、
あまりにも虫のよすぎる話だと思う。


と、ここまでは、震災がれきに放射能に汚染された物質が含まれていたら
という仮定の話ですが、
汚染されていなくても、基本的には同じことです。

政府が全国の自治体処分を要請しているのは、
あくまで汚染リスクの少ない宮城、岩手の震災がれきであって、
福島は含まれていません。(福島の方には気の毒ですが...。)

だから、
ここまで反対するのは、少し過敏な反応ではないでしょうか。



この前、細野大臣が、震災がれき受け入れのために、
各地の自治体に説明に赴いている映像がニュースで流れていましたが、

そこで 『一般市民』 と紹介された一人の中年女性が、
私たちの町が放射能で汚染されたら、誰が責任を取ってくれるのですか
と、物凄い剣幕で大臣に捲くし立てていました。

この女性の顔を、僕はひどく醜いものに感じました。

人間は、物事を他人事と決めつけて処理するためなら、
こうも醜くなれるのかと、悲しい気持ちになりました。

同時に、僕だったら、
こういう種類の人間の目などは、まともに見ることはできないな、
という、何とも言えない嫌な気分にもなったのです。



対人支援という視点でずっと仕事をしていて、最近思うのは、
こちらから、させていただく』 という姿勢は
僕らにとっての当たり前であるうちはいいけど、
それが相手にとっての当たり前となると怖いな、ということ。

例えば、
施設で提供される食事は、おいしくて当たり前
リハビリは、こちらの要望に応えて丁寧にやってくれるのが当たり前
少しでも不便と感じる動作は、介助してくれて当たり前

それはお店に行って、
自分がお客様扱いされるということと、
どこか似ているような気がする。

現場で対人支援をしていて、
もし、そういうふうに考える人が増えてくれば、
少し心配になってきます。

これからそういう価値観を持つ人たちが増えた場合、
現場ではどう対処していくのだろうか。


僕らの仕事は、ホテル飲食店サービス業のように、
相手の要望に沿ったものを丁寧に提供するだけでは、
事は済みません。

目的は、客の財布の紐を緩めることではないのですから、
当然、提供されるサービスの質は、それらとは異なってきます

僕らのサービス、つまり対人支援では、
確かに相手の満足感を引き出すことも重要ですが、

それよりも、
僕らが提供したことが、相手にとって本当によいことなのかどうか

そういう検証の視点を常に持つことの方が、もっと大事だと思う。

相手してほしいと思うから、
或いは、相手困っているから介助をして、

それを積み重ねた結果、
相手の潜在能力引き出す機会を奪ってしまい、
介助依存度を高めてしまったとしたら、
結果としてその支援は失敗です。

相手望むから、或いは困っているから介助しました、だけでは、
それは対人支援とは言えない

相手の要求を受け入れて満足させることだけが、
僕らのサービスではないということ。
僕らのサービスというのは、そういったサービスであって、

ここのところをしっかりと認識しておかないと、
それが相手にとって本当によいことなのかどうか、
いざというときに、適切な判断に基づく対処ができない、
なんてことにも成りかねない。

だから、
楽しく盛り上げながらレクやリハを行ない、
あの手この手を使って、相手を気分良くさせて満足させることを、
リハや介護の基本姿勢だと勘違いしていると、
将来、とんでもないしっぺ返しを食らうような気がする。


今、介護保険を利用してサービスを受けている方々の多くは、
戦前に育った人たちですが、
これからは、施設利用者も戦後に育った人が増えてきます。

今の80歳代以上の方と、60歳代の方では
利用者の持つ価値観がずいぶんと違うように思えるし、
50歳代や40歳代になると、もっと違ってくる

それに伴って、今後は利用者像も、
今とは随分と違った形になっていくはずです。

確実に言えるのは、
個性が社会規範よりも優先されるという自我的な個人主義が、
今よりももっと、介護や医療の現場に持ち込まれるということです。

モンスターペアレント
モンスターペイシャントという言葉が流行って久しいですが、

5年後、或いは10年後には、
ひょっとしたら、
自分をお客様扱いしてくれることを当然だと思う人
激増しているかもしれない。

現場で仕事をしていると、
そういったことにも
準備しておかなければいけない時代にきているのかな、
と個人的には思うし、

対人支援をする側としては、
これから、例えば重度の要介護者が増えていくことよりも、
将来的には、こちらの方が切実な問題になるかもしれない
と思ったりします。



昨年の秋ごろから気になっているアーティスト、Heavenstamp ↓↓



まだ、あまり知られていないようですが、
カーラジオから流れてくる彼らの曲を偶然耳にして以来、
ストイックな感じに惚れている。



そういえば、昔Heavens Gateという
ドイツのロックバンドがあったけど、
Heavenstampというバンド名は、彼らを意識してのことだろうか?

因みに、Heavens Gateというのは、こんな感じ↓↓



受験勉強中によく聴いて、
眠気吹っ飛ばしていたのを思い出します。
(自然と頭の回転が速くなったような気になるし...。)


バラードも良かった。




先日のちょっとした会合の中では、
別のOTさんからも、『作業療法の意味って、何でしょうか。』
ということを訊かれました。

僕が疑問に思ったのは、
作業療法の意味とは、と問われて、
それに対して、
目の前にいる人が 『作業療法の意味とは、〇〇です。』 と答えたら、
この人は納得するのだろうか、ということです。

問い自体があまりに抽象的だし、
そもそもこういうことは、
他人に訊くようなことでもないと思うのですが...。

もし仮に、
僕にとっての作業療法とは何か、と問われた場合は、
それは具体的な哲学をすることですと、
一応答えることはできますが、

それは僕にとっての答であって、
その人にとっての答ではないはずです。

だから、どうにも答えようのない問いだということが、
少し考えれば分かることだと思うので、
基本的に僕は、こういう抽象的な問いには答えないようにしています


それでもし、そういう質問に対して、
万人を納得させるような
上手い答提示できるような人がいたとすれば、
その答もその人も、ニセモノだと思う。

それで本当に納得できてしまう人は、
本当の意味で、
作業療法に関心が向けられていないのだとも思うのです。


兎角、こういう僕らが関るものごとの意味や価値の話になると、
すぐに主観とか客観とかという話になり、
抽象的な答が客観的な答だ
という話になりやすいのも事実ですが、

これはよくない傾向だと思います

例えば、皆さんにも、
好きなアーティストが一人ぐらいはいるかと思います。

自分の好きなアーティストが
ミュージシャンであってもいいし、詩人でも画家でもいい。

彼らの作った作品好きになるということは、
それに自分が共鳴、共感しているということです。

もし、
好きなアーティストの作品が、彼の主観でつくられたものなら、
他人はそれに共感できないはずです。

だとすれば、
作られた作品に作者も他人も共感できることを、
それを主観的判断だと言い切れるだろうか。

逆に、皆が皆、良いというから同じように良いと感じる
これを客観的判断だと言い切れるだろうか。


良いと感じるのは、
自分自身がそれに対して関心を持って臨んでいるからであって、

それが、
ものの持つ意味や価値となっていくのではないだろうか。

そう考えると、
関心を持って臨んだのは紛れもなく自分自身なのだから、
ものごとの意味や価値、
つまり真善美の判断力というのは、個人に与えられた能力であって、
他人に委ねるべきものではないということも、分かるはずです。

もちろん、集団にも与えられていないし、
この能力は、極めて具体的であることも分かります。


その判断具体的なものであり、自分の判断であるのだから、
そういう能力自覚していくことが、
己を知ることにも繋がっていくのです。

そして、
それに共感や共鳴という形があるということは、
己を知ることが孤独ではないということにも、
気付いていくはずです。


だから、
ものごとの意味や価値について、
万人を納得させるような、抽象的な答他人に求めること自体
あまり意味のないことなのです。

本質的な問いというのは、どうしても抽象的になってしまいますが、
それは自分の仕方で探すという形でしか、
表すことのできない能力なのだと思います。



先日のあるちょっとした会合で、
もっと作業療法の素晴らしさを、世間一般に広げなければいけない』 
力説する臨床数年目のOTさんに出会いました。

こういうのは、案外とよく聞くセリフです。
そして、こういうことを語る人にお会いすると、
自分の経験から本当にそう感じているのかどうかを、
確認したくなります。



1.それ相応の価値を求める

もし、その考えが自分の経験に基づく実感
というものから来ていないのなら、
同じ 『作業療法の素晴らしさを』 という考えでも、
僕はまた、ずいぶん違うように受け取ってしまう。

実際に話をすれば分かることですが、
自分自身の実感から語る人の場合、
作業療法に本当に興味があり、
真摯に向き合う謙虚な姿勢というものが、感じられます。

けれど、
その部分が希薄なまま、
いきなり全体のシステム如何だとか、作業療法の地位だとか、
世間一般の認知度だとかに関心が向く人からは、
その姿勢がほとんど感じられません

人というものは、興味や関心が、自分が直に向き合っているもの、
そういった自分の身の丈に合った部分に対して向けられ、
それに対する創意工夫や努力が最大であるうちはいいが、

自分が関ることは、全体としてこうあらなければならない』 
という 『それ相応の価値』 を外に求めてしまうと、
謙虚さが失われるのではないかと思う。

そして、『それ相応のもの』 とは、
地位見返りや、外部からの評価であったりする。

そういった、
相対的な視点からでしか自分の仕事に価値を見出せない人から、
作業療法を世間に広げることが、
さぞこれからの我々に課せられた使命であるかのように言われても、
同じOTでなくても、
そんなことは大きなお世話だと、ついつい言いたくなってしまう。

謙虚さを失ってしまうのは、
そのままの自分の仕事に誇りが持てなくなってきているのか、
或いは、本当の意味で作業療法に関心がないのか、
そのどちらかにあり、

そういう人ほど、こうあるべきだというイデオロギーや、
相対的な価値観に頼りたくなるものです。



2.誇りや関心を持てている人と、一様な意見しか言えない人

分かり易いように、簡単な例二つ挙げてみます。
二つとも、ニュースで見たものですが、
ひとつめは、
先日、NHKが東北三陸鉄道の取材をした時のものです。

短いニュースでしたが、高校を卒業して、
地元の三陸鉄道に就職した、ある一人の青年を映し出していました。

青年は、
線路のポイントをいつでも間違いなく切り替えられるように
ハンドルに油を差しながら何度も点検したり、
信号機の汚れを取るために雑巾で一所懸命に磨いたりしていました。

そして、マイクを向けられると、
少しでも早く一人前になるために頑張っていきます。』 
コメントしていました。

その姿を見て、立派だなと感心したのです。

こういう人は、自分の仕事に誇りを持っている
今回は、たまたま取材を受ける機会があって、
テレビを通して自分の仕事が全国に流れたが、

テレビカメラのないところでも
たとえ周りからつまらない仕事だと思われていても
恐らく彼は、同じように一所懸命に信号機を磨いていると思う。

そういうことは、
自分の仕事関心を持って臨み、
そのことに誇りを持っているからできることであって、
こういう人は立派だと思う。


一方で、今年の3月だったか、
これもテレビでやっていたことですが、
ニュースで東大の合格発表の現場を取材したものがありました。

インタビュアーは、合格者一人一人にマイクを向け、
4~5人の合格者のコメントが流されていました。

びっくりしたのは、みんな一様に 
世界で活躍できる人間になりたい』 『グローバルな仕事をしたい』 
と、口を揃えて言っていたことです。

判を押したように、みんな同じ答だったことにびっくりしました。

故郷に帰って親父の仕事を継ぐために東大で勉強します』 と、
一人ぐらいそういうことを言える人がいても面白いと思うのですが、

冗談でも何でもなく、
みんな一様に 『グローバルに活躍したい』 と、
そう答えていました。

編集というバイアスも当然掛かっているとはいえ、
こういう一様な意見というものには、
背後に決まって相対的価値観イデオロギー隠れています。  

今の例でいえば、『グローバル基準』です。

グローバルであれば素晴らしいというのは今の時代のイデオロギーで、
イデオロギーでものを喋ると、
立派な考えや志を持っている勘違いしてしまう。

グローバルとまではいかなくても、
現代の僕らも、
相対的に評価されて価値のあるものこそ、
本当に価値のあるものだと考えてしまう

相対的でないものは、それは主観的だついつい考えてしまう

しかし、そう考えてしまうことが、
最早、相対主義のループの中に閉じ込められてしまっているのだ
ということが、最近ではよく分からなくなってきています。



3.自分の仕事に謙虚であるという姿勢からしか、良さは伝わらない

それ相応の価値を認められたものは、
確かに相応に価値のあるものかもしれないが、
最後にものの価値見極められるのは自分自身なのであって、
他人ではない

ならば、その自分の眼力を磨いていくことに、
まず一所懸命になればよいのであって、

そこに、
主観的だとか客観的だとか相対的だとかは、関係のないことなのですが、
その部分が、どうも分かりにくくなってきています


先の三陸鉄道の青年の話でいえば、
彼の仕事が、もし彼の主観的な価値に基づくものであれば、
それを見た他人からの共感や、共鳴、感動などは得られないはずです。
彼のやっていることは彼の主観なのですから。

けれど、彼の仕事への姿勢というのは、
主観的でも客観的でもないし、 
他社の鉄道社員の仕事っぷりと自分の仕事っぷりを比較するという
相対的なものでもない。

そこにあるのは、
自分の仕事に真摯に向き合う姿勢と、謙虚さだけですが、
そうだからといって、
彼の仕事に価値がないわけではない

ないどころか、
それが、他人からの共感や共鳴を得るのです。

そういったことは、
作業療法でも同じことだと思います。

共感共鳴してくれるのは、
利用者であっても一般人であっても構わないのですが、
仕事に真摯に向き合う姿勢と、謙虚さが伝われば、
いくらでも他人から共感や共鳴は得られるものです。

そうすることで、
身の丈に合った作業療法の素晴らしさが伝わっていくのです。

しかし、
経験を積んでいくほど、
そういう大事な基本姿勢忘れがちになっていくことに、
僕らは、本当に注意深くあらねばならないと思います。